第509話 4.5万光年離れた老星にて

『正確には、ここは地球から4.5万光年の宇宙の虚空だ』

 シロイルカは短い指で、宇宙空間を映し出している天井のモニターに指し示した。


 それをモニターと認識できるのは理性の部分だけで、実際はフレームや切れ目は無く解像度もおそろしく高いので、生理的には巨大な天窓から宇宙それ自体を見ている錯覚に陥る。

 美しいが、少し崩れた形の星座たちが言いようのない恐怖感を演出していた。


 ここは地球から4.5万光年の宇宙の虚空だ――。


『SFでは物語のほとんどは恒星系の中で行われるものだ。恒星系むらを出て少し行けばまた別の恒星系むらに到着するように描写される。惑星いえ惑星いえの間に広がっている空間と同じぐらいの規模で、恒星同士の間が意識されている。しかし、分かっていると思うが、宇宙はスカスカだ。言葉では表せないほどスカスカなのだ』

『わかるわ』

『いや分かっていない。本当に吐き気がするほどスカスカなんだ』

 シロイルカは両手を触れるか触れないかの距離でパタパタしてみせた。その触れない拍手のようなジェスチャーが何を表すのか正確には分からなかったが、言葉の前後から考えると辟易を示すものだろう。


『しかし。見ろ』

 とシロイルカが言うと、今度は床が宇宙に変わった。

 遊園地のフリーフォールのアトラクションのようにゾワッと股間が縮む感じがする。すでに壁も天井も宇宙を映し出しており、唯一の便よすがであったのが白い床だったのに、それもモニターであったのだ。これで全周囲が完全に宇宙空間になってしまった…。

 しかも足元がただの宇宙の虚空ならまだマシだが、眼下には見慣れぬ赤い星が視界一杯に見えていてそれがまた高所にいる感覚を強調して足が竦んだ。…もっとも鳥類に近いラプトリアン(サウロイドはさらに鳥類に近い)の女であるマリーは、股間が縮み上がる感覚は少ないようで、彼女は割と落ち着いた口調で言った。

『星…? 

『鋭いな』

『あんたは「宇宙はスカスカだ。確率論的に次元跳躍孔ホールが恒星と恒星の間の無の空間にヒッソリと口を開けているのは自然なことだ。むしろ少し浮いているとはいえ、ほとんど地表上にある君たちの地球がおかしいのだ」って言うと思ったわ。論旨的に』

『その通りだ。しかし見ろ。君たちの地球のオーワの森にある跳躍孔ホールの反対口は、この名もなき老星の周りを廻っているのだ。宇宙の規模でいえばほぼ、この老星の表面にあるといって差し支えない』

『そうね』

『跳躍孔は星の形成と関係があるのかもしれない、そう思えるだろ?しかも面白いのは、跳躍孔は重力にも電磁波にも強い力にも何人にも干渉されないくせに、律儀に星の周りを廻っているという事だ』

『え?』

 恐怖心より好奇心が勝ったのだろう、老星と呼ばれた赤い星を熱心に見下ろしていたマリーは、ようやくシロイルカに視線を戻した。

『おや君なら分かりそうなものだがな。考え見ろ、君たちの星の跳躍孔を。2つあるわけだが…まぁ、アクオルの方がイメージし易い』

『空に浮いている方ね』

『そうだ。空に方だ。跳躍孔はもちろん風や地磁気の影響は受けない。つまり、あれは地球の自転に合わせて動いている事になる。もっといえば地球と一緒に太陽の周りを回っていることになる。円周上を回るサイクロイド曲線……複雑な軌道だ…』

『なるほど…』

 科学に疎いマリーはサイクロイド曲線が分からなかったが、言っている事は分かる。遊園地のコーヒーカップのような動き方をしているということだ。

『跳躍孔が何の力で回っているのか分からない。だが彼らが星を好きなのは確実だ。宇宙の99.99なんたら%を占める虚空でなく、現に恒星の近くに在るわけだからな。この跳躍孔も』

『え、恒星なの?』

 マリーは驚いてまた足元を見た。繰り返すように海底人の超高解像度のモニターは、もうそれが映像と意識できるものではなく、まるで宇宙空間の透明な箱の中に立っているような気分である。

『年老いた恒星だ。これは赤色巨星。キュキュ!そうか、いやモニターはかなり光を弱めているんだ』

『地球から4.5万光年は離れた老星……』

『そうやって感慨深く楽しめるのも、2日だ』

 シロイルカはまた小さく後頭部の鼻で笑って、座り直した。


『ともかくだ。俺の動きをまとめてやる――

 まず俺は今から2500年後の月で生まれる。そして成長した後、7万年前の地球に赴任した。最初の任務しごとは遺伝子の収集・研究だった。その中で7万年前のホモサピエンスやネアンデルタールの遺伝子を大量に手に入れた。またティタノボアなど漸新世の動物の遺伝子も修復した。……それから任務が変わった。月面基地の建設のための地質調査だ。その任務の中で月の平原に新しい次元跳躍孔を発見する。確率次元共役タイプの大変珍しいものだ。何故ご先祖がその存在を隠していたのかは知らない。もしかしたら俺が見つける予定うんめいではなかったのかもしれないな。ともかくだ。俺はそこでを思いつき、二人の使徒を伴い亜光速宇宙船でその跳躍孔に飛び込んだ。

 それで君たちの地球に来たのだ。

 もちろん、まだ石器を使っているるような君たちに用は無かったが、物珍しさで地球を観察しているともう一つの跳躍孔を見つけた。オーワの森にある位置次元共役タイプの孔だ。この孔の向こうは4.5万光年離れた老星の近くであると知った俺は、この幸運にあやかることとしたのだ。というのも、俺が用事があるのは7万年後の、この時代だったからだ。どっちみち7…つまり7万光年の旅をする必要があったのだ。加速減速に数十年かかるので多少の冬眠カプセルは併用するが、つまり簡単にいえば亜光速で7万光年を移動すれば7万年の未来に行けるという算段だ。本来はぐるっと宇宙を旅して地球に戻ってくる予定だったが、そんな好都合な跳躍孔があるなら使わない手はない。俺たちは、4.5万光年はなれたここへ、途中でブラックホールで進路を変えることで、ちょうど7万光年の道のりになるように計算して地球を出発したのだ』

 シロイルカはこれらをすべて一息で話してしまった。一息というのは比喩ではなく一回の呼吸で、である。

 さすがは海獣をベースにした人造人間だ。


『…そして今がある』

『ああ。宇宙にいること…つまり位置次元は偶然だが、この時間次元のこの確率次元に来たのには意味があるのだ』

『神への反逆計画とやらね。 …まさか、サウロイド文明わたしたちのオーワの森で、猿人間を使って嫌がらせをするのがその計画だなんて言わないわよね?』

 マリーが挑むように言うと

『もちろんだ』

 シロイルカは、ここでようやく後頭部の鼻で溜息を吐きながら笑った。

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