第72話 預言者の血か、ブドウの腐った汁か
――最初の誰かがブドウの腐った汁を口に含まねばならない。
「この作戦に失敗はありません」ネッゲル青年は笑った。「だから、そう気楽なものですよ」
「そうか…」
眠気覚ましに、いま基地内で評判の若いインターン准尉に月の映像を見せて反応を楽しもう、そのぐらいに考えていた大尉は圧倒されてしまった。
人としての「格」のようなものが、違う。社会の中で誰かが便宜上決めた「役職」や「階級」などでには反映されない「格」の差が今ありありと見えた。
この男に自分はついていく事になるだろう――大尉はそう思った。
「だが無駄死にするなよ」
「ははは、ですから無駄死にはしようがないんですよ」ネッゲル青年は何の屈託もなく言った。本心からの笑いだった。
「そうだったな」
「しかし、ありがとうございます。作戦発動の暁にはそう努力します。経験を持ち帰るまでが、人類初の宇宙戦争に赴いた者の任務であると考えていますからね。なるべくなら生き残らねば」
「お前の中の理由はなんでもいい」ここで大尉はさっと手を差し出した。「だが、そうしてくれ。それから俺の名前はディビッドだ」
急に上官の方から握手を求めてきたので、ネッゲル青年は一瞬だけ戸惑ったがすぐにそれを受けた。
「UNSAの技術大尉。存じ上げております」
「ありきたりな名前だが、覚えておいてくれ。准尉」
「巨人殺しの名前であれば、UNSAにピッタリです。忘れませんよ」
「そうだな」一瞬微笑んだディビッド大尉は、スっと手を引くのと合わせて心も退いていき、飄々とした薄情そうな上官の顔に戻った。「准尉、起こして悪かったな。戻れ。あと一時間は寝れるはずだ」
「はい」ネッゲル青年もまた、心の間合いを整えるように一歩下がって背筋を伸ばした。
「眠れるかな?」
「眠れます」
そういう精神訓練をしています、という示唆を含めつつ端的に応えると、ネッゲル青年は大尉と技師に会釈だけして部屋を出た。
午前5時。
兵舎へと戻る道すがら見上げたヒューストンの空はすでに紫に染まり始めているが、その中にあって月だけは真っ白に煌々と輝いていた。
――さて。
上のネッゲル青年のケースは、地球上で行われた「決意」の中でもっともロマンチックなものである。
だが形はどうあれ、サウロイドがレールガンを発射したその瞬間から24時間以内に、こうした「決意」は世界中の月の異星人に対抗する各国・各機関の中で行われた。
つまりネッゲル青年だけでなく、この世界の霊長はまるで本能的に――
――勝てる。打って出るべきだ。
と皆一様に発想したのである。
この752時間後、月面攻略作戦の発動の是非決める国連会議が開かれたが、参加した人々の中ではもうすでに「決意」は決まっていたわけだ。
もしこの瞬間、月から地球を見つめていたエースに、人の「決意」をオベリスクのような光の柱として見る力があったなら…
彼は、バァッと地球中から「決意」のオベリスクが伸び上がって、丸い地球がハリネズミかモーニングスターのような凶器じみたトゲトゲの球体になるのをまじまじと見た事だろう。その様はまさに――
――戦いが、来る。
というものだったに違いない。
いずれにせよ、かくいうわけで「こちらの地球の霊長」は‟征服される恐怖と相手への猜疑心”から、あるいは‟自分達は征服しても非道を行わない善人であるという高慢”から、攻撃を決めたのである。
6ヶ月後…
確率次元を異ににする二つの地球に育まれた霊長は「靜の海」というロマンチックな名前を与えられた月の平原で衝突した。
すぐにでもその血の
これを語らずに「ティファニー山麓の戦い」に進むのは混乱が著しいに違いない。
そこで、この戦いまでの6ケ月を見回してみたとき、幸運にも、そうした投げっぱなしになっている情報を端的に説明できるシーンがあったので、その描写をさせて頂きたい。
それは、戦いまで(この時点で彼らは知らないが)残り三ヶ月に迫ったある日。
人間には少し暑いぐらいだがサウロイドにはちょうど良いぐらいの、穏やかな陽光が差し込む午後の入院病棟での事であった。
そうもちろん、サウロイド側の確率次元の地球での出来事である。
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