第71話 後光

 実際のところ、サウロイドのMMECはマッハ16に到達するので、この計算は過小評価している。だが彼らが言わんとするところは同じだ。

 ――月の異星人は大したこの無い、と。


「やはり揚陸部隊は月の裏側から侵入、レールガンの射線が通らない地平線の影に着陸すべきでしょう」

 ネッゲル青年はスクッと正立すると、まだ二十代前半の実戦未経験者だというのに、まるで百戦錬磨の佐官のように話し出した。

「おいおい、准尉。もうそんな話か」メーカーの上で十時間も放置されていたコーヒーを何食わぬ顔で飲んでいた大尉でさえ、さすがに苦笑した。

 しかし、ネッゲル青年は止まらない。

「月は小さい。3kmも離れれば、地平線の向こうは見えなくなるはずです。もちろん航空支援も必要です。ほとんどのミサイルは敵のレールガンに迎撃されるでしょうが、1割だけでも突破できればいい」

「そうではなくて…」大尉はもっとわかりやすく苦笑した。だが…

「いえ?」ネッゲル青年はあっけらかんと言った。「そういう話ですよ、大尉」


 ふぅぅん、と大尉はあくびの代わりの長い溜息を吐いた。朝の四時なのだ。はっきり言ってしまえば、この大尉としても作戦会議などしたくなかった。

「まぁ、具体的な話は置いておいて…」

「はい」ネッゲル青年は少し不満げだが承服を示した。相手の内面を鑑みない無責任な者が人格を描写するなら、彼はタカ派、好戦家と呼ばれるタイプの絵筆で輪郭される事だろう。

「君は行くんだ?」


――君は行くのか?

 大尉は、ごく短い言葉を選んだ。


 言葉は強く貴くミカエルのようだったが、語気はメフィストのように不敵だった。


「行きますよ。そのために訓練している」

「そうではなくて」大尉は首を振った。訓練しているから行く、というのは答えの棚上げに過ぎない。それなら、なぜ訓練するのか、という不毛な質問に続くだけだ。

「君の言葉で教えてくれ」

「そうですね…。では、こういう事でしょう。誰かが最初に…」ネッゲル青年は彼らしからぬ比喩を使った。「最初に、腐ったブドウを食さねばならない。誰かが」


――勇気ある誰かが腐ったブドウ汁を飲んだからこそ、それはキリストの血になったのだ。

 彼は、そう言った。

「……!」この飄々とした大尉が返す言葉を失った。


 その場を、もし色で著すのならが広がった。

 曾祖母が女の一人っ子だったために結婚相手のドイツ系の姓に変わったが、その血筋は由緒正しい南部の軍人一家で、子供の頃には日曜教会に毎週行っていた典型的なマッチョ体質の白人男の、目を眩ませるほどの決意がよく顕された台詞だったからだ。


 隣で聞いていた技師は無言で深くゆっくり頷き、大尉は自分らしさのために大袈裟に肩をすくめてみせた。

「…なるほどな。それもいいが、十中八九、死ぬぞ」

「それはそれで価値がありますよ」何か触れがたい決意の後光のようなものに二人は圧倒されていたが、当のネッゲル青年だけは訳も無げに続けた。

「勝ててしまえるなら良い。友好的ならなお良し。敵対的であり、かつ勝てないと分かるのでも意味がある。次の手を考えられるからです。つまり」


――最初の誰かが腐ったブドウを食さねばならない。

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