第9話 ムーンマン
月にあってはならないもの、それは――
人骨だった。
月面の人骨は「ムーンマン」と呼ばれ、瞬く間に大ニュースになった。
人骨にそっくりな石、人工のフェイク、アポロ欠番説、陰謀説(月に死体を置くことで誰が得するのか分からないが)、ロシアの月面探査説…
いずれにせよムーンマンには合理的な説明が必要だった。一番有力視されていたのはアポロ計画で何かの事故か殺人がありそれが隠蔽されたというもので、確かに月に住んでいる人間よりはまだ論じる価値がありそうな話である。
しかし不思議なことに ――あくまで中国政府の発表通りであるならという条件つきだが―― ムーンマンの周囲には宇宙服に類するものはなく、人骨以外に見つかったものは麻か何かの植物由来の繊維と髪留めとおぼしき金無垢の櫛、そして腕輪だけだった。つまりムーンマンはほぼ全裸に近い姿で月面にいた事になる。もっとも彼が普通の人間であるなら、その命は一分と持たなかっただろう。周囲に宇宙船の離着陸の痕跡でもあれば話は別だったが…
多少の縄張り争いもあった。
全人類的な発見を準備不十分で触るべきではないという、つまり現状維持を論鋒にして中国一国に独占させまいという動きもあったが、逆にいえば全人類的に可及的速やかに解決しなければならない大事件であるのも事実であり、結局「ムーンマン」の骨とその僅かな遺品はそっくりそのまま中国の月面着陸船に運び込まれ、地球に持ち帰らる事になった。ただ、準備不足を訴える反対派を擁護しておくと確かに彼らの指摘通りの事も起きた。今回の月面着陸船は「行くこと」自体を目的にした半ば観光船であったため脆いサンプルを保持するカプセルなどの用意は無く、ムーンマンの骨は大気圏突入の際にかなりのダメージを受けてしまったのである。
もっともそれはさして問題ではなかろう。形の分からないデボン紀の新種生物の化石ではなく、その骨格は、人類が最も詳しく知るものだからだ。(今の技術であれば、たとえ粉砕されようと復元できるだろう)
ともかくこうして6月としては記録的な寒さが襲っていた中国のタクラマカン砂漠に「ムーンマン」は降り立った。6月の段階でネッゲル青年が代表する人々が知った情報は「ムーンマンの骨が持ち帰られた事」と、中国政府の「各国の垣根なく、協力してムーンマンの正体を解明する」という宣言だけだった。
そこからの1ヶ月は玉石混合に様々な憶測が飛び交ったが、どれも片足を(あるいは全身をどっぷりと)オカルトに突っ込んだような仮説に次ぐ仮説で、唯一全ての説に共通する確固たる見解は、骨の解析を待つしかない、というものだけだった。
6月の終わり「ムーンマンの骨が米、英、仏、独、日、印に送られ、それぞれの研究所で個別に分析を行うことになった」というニュースを最後にムーンマンは2ヶ月の間沈黙を続ける事になり、その間に世間の熱も冷めていった。
7月から8月、米国を例に上げれば世間の話題の中心は、国家規模の水素燃料精製所の建設プロジェクトに不随する政治家のスキャンダルに取って代わられた。そのようにして、終わることのないロバと象の戦いがヒートアップしている最中、遂にその日が来たのだ。
2029年8月。そのニュースは国連によって世界中に同時に発表された。
「ムーンマンが死んだのは7万年前」である…と。
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