第200話 機械恐竜の爪痕
死者にとって死は死でしかない。
死人に口無しというように、死体にとっては丁重に埋葬されようが、焼かれて灰を海に撒かれようが、はたまたネズミに食われようが、別にどちらでも構わない。死体は不平不満を言わないからだ。むしろ
つまり死体の幸不幸を決めるのは生者なのである――。
日本人の同調圧力というのはまさに狂気で、沖縄戦では手榴弾の効果的な節約術として、一つの手榴弾に家族が抱き合って自害するという‟方法”(うまい言葉が思いつかない)が推奨されたワケだが、その無念呪詛も死んでしまった者には通じず、むしろ生者であるアメリカ人を多いに苦しめたという。
狂ってやがる……と。
死者にとっては死は死でしかないので気楽なものだが――
午後の木漏れ日が差し込むベッドで老衰により死んだ老人の亡骸と、銃撃戦の末に死んだ戦士の亡骸と、手榴弾を兄妹に抱かせてそれに母と祖母が覆い被さって死んだ亡骸というのは生者にとっては意味が全く違う。
そして、さて…。
月面で機械恐竜に噛み殺されて死んだ亡骸というのは、
幸い一人を除いて皆即死であったため、生に縋るようなうめき声を聞かずに済んだものの、草にも土にも抱かれずに転がる死体は不憫そのものだった。虫も雑菌もいない灰色の大地は清浄そのものだが、同時にまるで失敗した手術のオペ室のように暖かみを欠いて
「ウィル、俺達はまだやらねばならない事がある」
「は…はい」
ノリスは不幸にも即死できなかった一人、ウィル・ローソン少尉の手を握ってやりながら言った。ウィル少尉はもう虫の息である。機械恐竜に肩を噛まれた彼は、脇の下の大動脈が切れて大量の出血をし、皮肉にもその血の量によって宇宙服の気密が守られる事で生き長らえてしまったわけだ。
だが、それももう長くない。ここでは処置の施しようがないのだ。
「さぁ打つぞ。お前が俺達の斥候だ」ノリスは安楽用の注射を取り出した。
「sir...」ウィル少尉は本来なら「天国とやらを先に偵察しておけっていうんですね。まったく隊長は人使いが荒くって!」とでもジョークを飛ばすだろう陽気な男だが、もうそういう余裕は無いようだ。
「大尉。脈が弱くなっています。薬を脳まで運べない」
と、注射を腕に刺そうとしたノリスの手を医学の知識を持つキム中尉が止めた。
「だめだ。首元に打ってやってください」
「そうか。そうだな」
ノリスは注射器の狙いを腕から首元に変え、そっと突き刺した。
宇宙服を貫通するためのバイブレーションと発熱の機能を持つ電動の注射針は、少しの抵抗ののちウィル少尉の鎖骨辺りに侵入した。そしてその針から体内に注ぎ込まれた安楽死の液薬は弱い血脈に乗って脳幹に届くと、それらを機能不全にあっと言う間に
ものの30秒の出来事である。
ものの30秒でウィルという人間の定義は霧散して肉の塊になった。
優しい薬だ――とノリスは握り合うウィルの手の触り心地の変化をつぶさに感じながら思った。それは生者の精神を脅かさない穏やかな変遷だった。死者にとって死は死でしか無いが、生者にとってその安楽は、一つの手榴弾に家族が抱き合って爆死した死体や、ガス室からトンボで掻き出される裸の死体とはワケが違うのだ。
「すまん…亡骸は置いていく。ウジ虫に貪られる事はないだろうよ、ウィル。許せよ」
そう声にならない声で呟いて、ノリスは立ち上がった。
「さぁ、みんな出発だ…!」
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