第294話 熱を見る(前編)

 降りかかったゲートと床の隙間はもう30cmほどになっていた。

 

 その隙間でいま綱引きが行われている。

 それは、ゲートの外に逃げ延びたいネッゲル青年とゲートの内に引きずり込みたいサウロイド達の綱引きであり、綱はネッゲル青年の右足だった。


 筋骨隆々、たくましい胸板のネッゲル青年の体にその30cmの隙間を潜らせるにはかなりの力技になるがサウロイド達は諦めず、彼らは鷹か鷲のように器用で強靭な3本の足の指で青年の右足をガッチリ掴むと、強引にゲートに下から彼の体を引っ張り出そうとしている。もちろんネッゲル青年はそれに抵抗し、ゲートに両手と左足をつけて何とか踏ん張っていた――!


 こうなれば、もう度胸比べである。

「どうだ!?俺は死んでもいいんだぞ。え!?どうする!俺の血の除染が大変だろうなぁ!!」

 ゲートが彼の右足をギロチンにすれば、こっちの確率次元の地球パラレルワールドの生物の体液(いろいろな細菌やウィルスが含まれる)が基地を汚染し、それに少しの免疫を持たないサウロイド達は大いに困るはずだ。

「ええ!?どうなんだぁぁぁ!!」

 触覚で分かる。すでにゲートの向こうに引きずり込まれている右足は、膝も足首も脛も、あらゆる箇所をサウロイド達の手(いや足)に掴まれていて、複数人がかりで彼の体を引っ張っているようだ。ゲートの下端で片足スクワットをするように踏ん張っている左足は1トン近い負荷がかかっているかもしれない。もう股関節が砕けそうになっていた。

 それでも彼は耐え続けた。

 捕虜に戻るのだけは嫌だったのだ。恥辱どうこうより役立たずに戻りたくなかったのだ。ロード・オブ・ザ・リングのエオウィンの言葉を借りるなら「怖いのは檻だ。勇気を試す機会すら与えられない事が最も怖いことだ」である。

「うぉぉ!」

 彼は決めポーズを決めるボディビルダーのように血管を浮き上がらせながら全力でそれに抗った!ここが踏ん張りどころだった!

 と、そのときだ。

 いよいよ下りるゲートと床の隙間が20cmほどになったとき、右足がフッと解放されたのである。


 あぁ…サウロイド達が根負けをしたのだ。

「!?」

 ネッゲル青年は軽くなった右足をゲートの下から引き抜き、お尻と両手と左足を使って座ったポーズのままゲートから逃げ延びた。

「はぁ…はぁ…」


 驚きが安堵に代わり、安堵が思考に代わる。

 そして彼は敵のを知っておきたいと思い、座った体勢から右に寝転ぶようにして下りるゲートの隙間から向こうの様子を見た。ならもう一度すぐにゲートを上げて追撃に来るだろうし、なら「彼らが去っていくならば別の迂回路があると見ていいだろう」と思いながら見ると、


 ――!


 ホラー映画のような光景が目に飛び込んできた。

 閉じかけるゲートの隙間から鋭い眼光でこちらを睨んでいる歩兵隊長ラプトルコマンダーと完全に視線が交差したからである!


 お互い床に伏せた状態で、閉じかかったゲートの隙間から睨み合う形となった。

『逃がさんぞ…!』

 と、そのラプトリアンは静かに怒っていた。

 もちろん言葉は通じないものの、何か言ったという事だけは分かったネッゲル青年は真摯に頷くと、あとはゲートが閉まり切るまでの刹那、睨み合いに応じてやったのだった。


 そして――


 ズゥーン!

 両者を分断するようにC棟のゲートが降りきり、ただっ広いジャンクションホールに汗まみれで全裸のネッゲル青年だけがポツンと取り残された。


「はぁはぁ…暑い。しかし汗を拭かねば…すぐに凍ってしまうぞ」

 その部屋は零下10度ほどである。

 見事に真四角の大広間で、部屋の一辺は25mのプールと同じぐらいの長さ、床から天井までは15mほどでだった。少し潰れたサイコロのようなあり空間である。部屋には本当に何も無く、壁は照明にエアダクト、暖房装置や配電管、そして梯子と細い足場が張り付いているだけだった。


 まだ持ち主に引き渡す前の、建て売りの巨大ガレージという雰囲気である。

「まぁ…」

 まぁ何か増築する予定なのだろうが今は関係ないことだ――とネッゲル青年は白い息を吐きながら周囲を素早く見回した。

「どうする?何ができる…!?」


 電気と給気は生きているが暖房は切られているようなので、この室温はどんどん下がっていくだろう。部屋が大きいぶん零下10度で済んでいるが外は月面なのだから、全裸では一時間も持つまい。右足の流血より先に低体温症が死因になるだろう…!


「む…?」

 そのとき、耳をピンと立てたイヌがごとく、彼の全開になった感覚器官があることに気付いた。


――暖かい空気の流れがある?


 それは、人間の感覚器官の中ではを差し置いて、によるファインプレイだった。

 背中の皮膚で微かに暖かい空気の対流を感じた彼は、その空気の細糸を断ち切らないようにソッと振り向き、そして掌を前に出した。

 エスパーを騙るペテン師のようである。


 ――どこから?

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