第502話 シロイルカに「俺」という一人称は似合わない

『すまない。俺たちは火に弱くてね、


 小さな薪ストーブの灯が消えたところで、この広大な空間へやの明るさが変わる事はなかったが、ストーブの前で足を温めたマリー少尉の視界…いやその心象風景には微かな変調があった。空間の温度と湿度は完璧に制御されており、相変わらず初春の日向のように生理的に安心できるものだが、薪の炎が消えてしまうとどこか余所余所しい冷ややかな印象になってしまった。オフィスに植物を置きたがるようには少しのカオスを好むが、この部屋はCの和音のように完璧すぎて逆に不安にさせるのである。


――それともDSLとはそういう完璧さ好む種族なのだろうか?

 この土壇場にあって、マリーは不思議とそんなことを考えながら、声の主に振り返った。

『ええ。もう足は大丈夫だから…』

 こういうときに平静を装いたがるのは人間もラプトリアンも同じようで、彼女はスパイ映画の中で黒幕に囚われた主人公がそれでも汗一滴流さずに敵のボスに微笑むようなニヒルな態度で応じた。

「こうでもしないと君に会えなかったからね、ボンド君」

「手荒な歓迎だな、ブロフェルド…」

 とか

「久しぶりだね、ホームズ君」

「私が再開を喜ぶとでも思ったか?モリアーティ教授」

 といった感じのそれである。


――――――――

―――――――


 だから、背後を振り返ったマリーが悲鳴をあげたりすることは無かったが

『……っ!』

 視界に飛び込んできたのは確かに未知の知的生物ひとであって、その驚きは隠しようがなかった。


 その未知の生物は、猿人間ホモサピエンスと同じ順関節の膝を持った二足歩行で、身長は2テール(メートル)に届かないほどだ。乳白色のワンピースを纏っているせいで膝から上の骨格は正確には分からないが、二本の腕は猿人間よりさらに長そうだ。逆に肩幅は自分達ラプトリアンよりさらに狭く、頭と肩の模式図を猿人間の場合は「凸」だとすると、この知的生物はほとんど△になっていた。(サウロイドとラプトリアンはその中間ぐらいだ)

 ワンピースから出た腕や足や顔を見る限り、肌は全身均一にゴムのような質感を持っているようで毛は一切無い。剃っているとかそういう風でもなく、そもそも毛穴も汗腺も無いという様子である。そして肝心の顔は……


 顔は喩えようがなかった。

 強いて言うなら、サウロイド文明にも娯楽として宇宙人を想像するSF文化があるが、その中に登場するタコ人間(タコは6700万年前にすでにいたので、サウロイド世界にもいるのだ。むしろ人間世界より大型のタコがいる)に似ていた。


 顔はつるんと丸く、鼻が無く、白目の無い真っ黒な瞳が顔のほぼ側面についていた……。


『もっと驚いてほしいな。なにせはずだ』

 しばらく体を観察させていたDSL(Deep Sea Lives。以下、海底人)は、さすがに堪り兼ねて苦笑した。……たぶん苦笑だ。

『どういうこと?』

 苦笑には声どころか「ふふふ」といった吐息も含まれていない。それに目の周りも全く動いていない。海底人の笑顔とは口の形だけで表現するもののようだ。

『俺の素体ベースはシロイルカという動物でね。君たちの地球にはいない、猿人間の地球にいる生物なんだ。だから猿人間が俺を見れば「シロイルカが立って喋ってる!」と驚いてくれるだろう。遊園地にいたら猿人間の子供に囲まれるかもしれない』

 シロイルカという言葉はサウロイドの言葉に無いので、海底人はそのまま「シロイルカ」と発音した。

『シロイルカ…? 本当にそうなの?』

 マリーは「アンタは知っているの?」とゴールデンスキンに視線を送る。

 ゴールデンスキンはその視線に気づいて目を合わせたが、無言のまま屹立しているばかりである。

『いや、使徒はシロイルカを知らない。彼は月面で生まれたから地球の記憶が無いんだ。それにどっちみち彼が生まれた時代にはシロイルカは絶滅している』

『月面で…?』

『では、答え合わせといこう』

 そう言うと海底人は腰かけた。

 透明度が異常に高いガラスの椅子でもあるのだろう――本来は驚いてもいい事柄だが今は椅子ごときに構っている暇はない。彼女はそう思ってスルーした。


 しかし、カメラが引くとなかなか奇妙な構図が出来上がっている。

 逆関節の足を投げ出して床に座り込んだ恐竜女と、ローマ彫刻のように立ち続ける金色のホモサピエンスと、透明な椅子に座る純白のシロイルカが鼎談しているというなんともドラッギーな光景である。

 フロイトなら一体、どんな夢判断をするだろう。


『まず……海底人おれたちが押さえている月面の次元跳躍孔だ。これは話したように「時間共役タイプ」なんだ。しかも不安定。しかけているせいで。子供の頃、数学で「直線y=x^2-4x+8の上を動く点Tがあります。この点Tと直線○○が…」なんて問題があったろ?』

『ずいぶん、詳しいわね』

『この時代のサウロイドの文明のことはよく知っているよ。暇だからね』

『…まぁ、いいわ』

『うん。それでこの動く点Tというのが、つまり俺たちの持つ次元跳躍孔なんだ。こいつは順行するTと、約24倍ので逆行するT†の点が共役関係にある。まぁ時間軸の逆行を速さと表現するのはいささか変だがな』

『というと…!?』

『想像の通りだ、この次元跳躍孔にT側から飛び込めば過去に出ることになる。これがタイムマシンの正体だ。天然のな』

『順行と逆行の双子という事は……起点があるわよね。スタート地点が。ある日、ある瞬間、ある場所の時空が歪んで従来通りに未来に進むTのほかに、過去に進むT†という双子が生じた。跳躍孔が生まれる瞬間を海底人あなたたちは知っている事になる』

『その通り、理解が早いな。だが落ち着け。順に説明しよう』

 シロイルカは足を組みなおした。もっとも人間ほど股関節が柔軟ではないようで、脛の辺りをクロスしているだけである。

『まず…おれが生まれたのは今から2500年後。起源4500年だ。そしてその時分ではすでにTとT†は7.5万年ほど離れていた。つまり、シンプルに言えば、俺が次元跳躍孔に飛び込むとそこは7万年前の地球だったのだ。その頃はホモサピエンスは遺伝子的にはもう完全に現代人と同じだが、文明は発達しておらず死肉を焼いて食うような生活をしていたんだ。……なぁ、使徒よ』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る