第300話 円環山脈(クレーター)の底 後編

 円環山脈クレーターの内側、山が少しなだらかなった麓に墜落した二番艦デイビッドはいま、船体をまるごと青いスライムによって覆われていた。ブルーハワイのゼリーにコーティングされた、バニラの棒アイスのような見た目である。


 このスライムは月に墜落する二番艦デイビッドを救うために、謎の知的生物がとしてまとわせてくれたものだが、用が済めば雨上がりのレインコートのように邪魔である事この上なかった。


「それで…触ってみましょうか?」

 船体を覆うスライムの一点にくような形でなんとか緊急用ハッチをこじ開けた真之とマイルズの眼前はまだ、アメーバ状に扉の上下、左右を横断して手を繋ぎ合っているスライムがしている状態だった。

 

 マイルズは「触ってみましょうか」と背後の副艦長のアニィに訊きつつ、視線はもうグニュと引き延ばされ色を薄くしているスライムに集中していた。

「なるほどな…」

 艦長の真之も、マイルズが手にしているライトが照らすスライムの一点を一緒に観察するため、グッと彼に体を寄せた。二人はほとんどヘルメットの側頭部を擦り合わせるように顔を並べて、スライムを凝視する。

「見てください」

「ああ…」

 よく見るとスライムはプチプチと発砲していて、よく膨らんだパンの断面図を拡大したような構造になっていた。つまり、ぎっちり詰まっているのではなくアメーバが手足を繋ぎ合っているような状態で、内部は細かい空間が無数に含まれている。つまりアメーバ状のフラクタル構造で、ハッチの上下左右を腕を広げた巨大タコのように力強く覆っている一方、そのタコの腕のごく1cmの範囲を見てもまた、そこには腕を広げたタコの形状になっているのだ。きっとそしてまた、その1cmのタコの中もまた……と仏教の無限イメージのようになっているに違いない。


「アニィ、どうだ?」

 真之は振り向いて「触っても良いか」ともう一度訊いいた。

「大丈夫に決まっているでしょう」

 アニィは肩をすくめた。

 当たり前だ。触った瞬間に手袋が溶ける…なんて事は起きないだろう。なにせそれは墜落した二番艦を守るほどに頑丈な緩衝材であり、電気バーナーで焼き切れるかすら分からないほどだから困っているのだ。


「そうだな。…ん?うわ、固い!」

 アニィの予想通り、スライムは見た目に反して異常に固かった。

 力いっぱいに押せば歪みはするが、絡み合うアメーバ状の繊維が延びるだけで引きちぎるのはとても無理そうだ。


「どうかな?」

 と、ちょうどそこへ艦内を見回った後のボーマン司令が現れた。

 なお電波通信トランシーバーは繋がっているので、クルー全員の会話は共有されている。だからボーマンは既にだいたい何が起きているのかを把握していたので「危険はなさそうだ」という認識を元にした穏やかな口調である。

 文化祭の準備を見回っている先生のようだ。


 また、互いの表情が見えるためのヘルメット内のライトがボーマンの顔からシワやシミを消し去り、彼をとても若々しくしていた。無重力でパンパンに膨れた顔も月の重力で良い具合にすっきりしている。

「あ、ちょっと難しそうです」

「ほう?」

「簡単に言うと閉じ込められました。見てください」

 真之はハッチの前を譲って、ボーマンにスライムを見せた。まるで記録的豪雪で埋まってしまった家の玄関のドアを点検する家主のように、ボーマンはハッチをガチャガチャと押したり引いたりした。

「はは。うん、確かに開きそうにないね」

 ボーマンは少しのんびりと言った。艦隊戦の重責から開放されてか、リゾートにでも居るような口調だ。


、何もできませんよ」

元気なアニィはまだ職務モードである。

「神様とやら、どういうつもりなのかしら!」

「はは、神様か。…どうだ、いったんムーンマンと呼ぼうではないか」

「月面で見つかった7万年前の人骨…ですか?」

 この物語の発端となった‟7万年前に月で死んだ男”、それがムーンマンである。

「ああ。ムーンマンの一族がそのまま月で暮らしたと考えたら、こういう謎の素材スライムを作るなんて造作もないだろうからね」

「にわかには信じられません」

 アニィは首を振ったが

「いやぁただの呼び名だよ。多神教の君でもと呼ぶのは嫌だろう。我々の、二番艦デイビッドの救い主だったとしても」

 とボーマンに笑顔で言われては、納得せざるを得ない。

「まぁ…。それはもちろん」


 ともかく、この時点で人類は――

 月に高度な文明がとは分からなかったが、少なくとも月に高度な文明が事を知ったわけである。……しかも2つだ。恐竜型のロボットを使った方と、スライムを使った方である。


「さて…。もしムーンマンが我々を助ける気ならば」

 真之はさっそく、ムーンマンの仮称を使って言った。

「この事態はのはずです」

「と言いますと?」

 ボーマンの代わりにマイルズが反応した。

「だからさ、緩衝材(スライム)によって我々が閉じ込められてしまうことさ。そんな間抜けな事を彼らがするだろうか?」

 そうだ。時速300kmで墜落する宇宙船を守るほどのショック吸収素材は頑丈過ぎて、今度は脱出不能になる。それは簡単に想像できよう。

「いやぁ、違うかもしれないわ。私たちはムーンマンと会ってもいなし話してもいないけど、SALと彼らの会話を思い出してみてよ」

 アニィが全員に問いかけた。

「ほら、ムーンマンは”墜落から助ける事”だけ約束したでしょう?」

「おいおい…」

 真之だけでなく、ボーマンもマイルズも笑ってしまった。

「そんな意地悪あるか?助けるって言ったら最後までだろう?」

「うぅん。人間の価値観でいえば…そうだけど」

 アニィはこれにも同意しかねるようだが、しかしムーンマンの心情推測をこれ以上しても無駄なのも理解していたので、ため息ののち彼女は気持ちを切り替えた。

「ふぅん…まぁいいわ。でもムーンマンの真意が何にせよ、今はこのハッチを塞ぐスライムを何とかしないといけないわ。ムダなエネルギーは使いたくないけど、電気切開をしてみましょうか?」

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