第56話 瑠璃色の三日月(後編)

 ――地球!


 同じ距離であっても「地球から見る月」と「月から見る地球」のサイズはワケが違う。

 それは何というか、そう圧倒的だった。


 圧倒的な威圧感で、そのは彼の視界のほとんどを被っていた。太陽を浴びる面が徐々に広がっていけば、大陸の形さえも見えるようになっていく。そのは、彼の故郷である地球とそっくりであり…いや同じであり、彼の故郷であるラマラ大島(我々の世界の呼び名で言うとマダガスカル島)も見えた。しかしなぜ――!


 しかしなぜ、こんなにも神経を逆撫でするのだろう。


『ああ…』

 動悸が早まっている。過呼吸の危険性を知らせるアラートがヘルメット内に響いている。今にも押しつぶされそうだった。


 ――落ちてくるのではないだろうか。


 彼は不思議なイメージに駆り立てられた。古代人のような非科学的な、しかし心に迫る強いイメージだった。

 頭上に覆い被さるように浮かぶその見知らぬ地球は、どんどんパワーを溜めて巨大化し、ついに全球になったら落ちてくるのではないだろうか。


 理屈などではない。

 仏の掌というイメージに近いだろうか。視野の全てを覆い尽くすほどの形容しがたい巨大なモノが、轟音を伴いながら、大地に寝転ぶ自分の上に落ちてくるイメージが彼の中で迸っていた。


『どうしたんだ…』

 エースは本当に声に出して、自分に言った。

 こういう精神不調は経験したことがない。初めて訓練で月面遊泳をしたときもヘッチャラだったはずだ。


 すでに過呼吸のアラートはその音色を注意報から警告のものへ変えている。

 体はなおも大地に投げ出したままだが、心は湧き上がるイメージをかき消そうと必死だった。しかしいくら科学的理屈を針に使って、地球が落ちてくるというイメージの泡沫を潰しても、その泡沫は抗いようもなく次々に湧き上がってきた。


『くそ!』

 彼は諦めて、起き上がることにした。


 情けない最終手段だった。

 仰向けから起き上がって空を見ないようにすれば、この動悸が収まるのは分かっていたものの、過呼吸になるまでそうしなかったのは、できるなら精神力だけで恐怖を御したいと考えていたからだ。

 なぜなら、の根幹が、そのに根ざすと気付いていたためである。


 それを克服したい――。

 それこそが、人間と違い肉食一本で進化してきた頂点捕食者プレデターとしてのプライドであったのかもしれない。

 だが同時に、エースは飄々とした人物でもあった。


『いやいやいや…』エースはキッパリと諦めをつける。『くだらねぇよ』


 彼は何ともあっけなく、腹筋を使ってバッと起き上がった。

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