第579話 桃鎧(前編)
月の砂『レゴリス』は、色も成分も噴出したばかりの火山灰に似ている。
月の岩石は風雨によって粉砕されないので岩石のまま永遠に残るように思うが、宇宙から降り注ぐ粒子サイズの隕石(大気が無いので燃え尽きないのだ)が雨の代わりとなって何度も何度も岩石を砕くため、結果としてこのレゴリスという細かな砂を生み出した。もちろん運良く月が生まれてこの数十億年の間に隕石を受けずに石としての形状を残しているものも多いが同時に、フッ!と息を吹きかければ簡単に数メートル巻き上がるようなカラカラに乾いたパウダーが堆積しているのが月である。
月は南極のように空気が澄んでいるように見えるが、それはこのレゴリスを巻き上げる
――――――
その穴を見つけたとき、マリーは一瞬だけ腕の酸素計を確認した。
『……30%か』
ビッグバグが地上に這い出た巨大穴。そこはこの灰色の砂嵐の中心部というべき場所であり、濃厚に舞い上がるレゴリスのせいで自分の手さえ見えず、酸素計を顔の前に持ってくる必要があった。
『減り方が計算できないけど…』
五里霧中、前後不覚、仲間とはぐれ、酸素だけが着々と減っている――かなり絶望的である。さすがの
『穴の壁面が固まっている? …でも水分ではないはずよ。どうやって?』
ビッグバグの穴への好奇心が勝った。
この土壇場でさすがに阿保じゃないか、と思うかもしれないが(筆者自身もそう思う)彼女にすれば「ここでエラキ達と合流しなければいけない」「どっちみち
思い出して欲しい。
今まさにマリーがいる
つまりこのビッグバグの最初の穴までは、海を割ったモーゼのようにソーラーパネルが一本道を作ってくれていたわけだ。この濃厚な灰色の砂嵐の中でも、ここでなら待ち合わせが可能なはずである。いや
『ここで待つしかない…』
ここから少しでも進めば、電気農園から離れたら合流はできなくなるだろう。何も好きで敵性生物の穴の前にいるのではない。
『幸い、敵はいないようだけど…』
ビッグバグという重機の暴走で、かなりI-SIPは混乱しているようである。「こりゃ上官に知れたら大目玉だ。恐竜人間と戦っている場合じゃない」と蟻兵が右往左往していると思うと少し可笑しい。
――――――
ダイビングには水温や水深など様々な条件があるが、中でも水中洞窟へのダイビングが最も難しいという。
難しくしている原因は
それはもちろん空間的に閉所であるというのと同時に、時間的な圧迫感もある。酸素という命のタイムリミットが刻一刻と減っていく一方で、どんな理由があれ一度踏み出してしまったら止まることは許されない。浮上はできず”目的地に辿り着く以外に生き残る道は無い”のだ。まさに時空の両方で圧迫してくるのである。
そんな恐怖とエラキ曹長、リピア少尉、そしてマリー中尉は戦っていた。
月面の五里霧中のなか、シューシューと空気が漏れる音に耐え続けられている理由を単に「三人は精神力があった」と説明するのは些か乱暴だ。
おそらくサウロイドとラプトリアンは種として哺乳類より絶望し辛いのだろう。
1億年前。白亜紀前期、哺乳類がまだネズミ(エオマイア)だった頃、彼らは絶望する…言い換えると「動かずに耐える」という生存戦略を獲得した。硬直(死んだふり)したまま食われた個体もいるだろうが、死んだふりのおかげで生き残った個体もいただろう。カロリー消費を控えられ冬を越せた個体もいただろう。川で溺れた後で(無駄に暴れて体力を使わずに)岸に流れ着いたものもいたかもしれない。
それらの世代超越経験則が「絶望する」という能力を哺乳類に与えた。
だが恐竜は違ったというわけだ。
閑話休題。
こんな長い余談で何が言いたいのかというと、
『まさかもう一周、月を回る…なんてことはないわよね』
彼女の心配事はアルテミスIIが着陸してくれるかどうかである。
『いえ、かなりレーザーの角度も低かったし大丈夫よ。少尉の翻訳が正しければ時間も予定通り…』
そう頭を整理し、また意識をビッグバグの穴の方へ向けたそのときだった。
ジジ…ジ…
何かを受信し、ヘルメットの中のスピーカーがノイズを吐き出した。もちろん「少尉たちか!」と一瞬、希望の熱が脊椎から背中へと沸き上がったが、どうも様子がおかしい。受信と言うよりは反応という挙動なのである。
何かの電磁波が…
電磁波…?
電気…I-SIP…
彼女はハッとなって周囲を見渡した!
溶けたコンクリートの中にいるような視程50cmも無い状況なので見通すことなどできないが、そうせざるを得なかった。
『高エネルギーを放っている奴が近くに…!?』
最悪なことに月は空気も無いので、相手が動いても砂煙は揺れすらしない。
『冗談ではなかった…上官がいる!』
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