第192話 原罪。月面のカインとアベル(後編)
千載一遇のチャンスが、文字通りネッゲル青年の手からこぼれ落ちた。
ネッゲル青年が締め落とすまでに手間取っている間に、敵のエース(分かり辛いがエースという名前である)はフレアボール投光器を使ってネッゲル青年が背負っていた遠征用バックパック(液体酸素やバッテリー)を加熱し、爆発させたのである。
一気に膨張した空気は暴風となって二人を引き離し、吹き飛ばし……
二人の男は空中でギロリと視線が交え、そしてそのまま10mほどの距離を置いて共にドサッと俯せに倒れた込んだ…!
「はぁはぁ…」
ネッゲル青年は背中の火傷はともかくとして、生存の可能性が無くなったのは間違いない。長期作戦用の追加バックパックが無くなっては、あとは宇宙服の素の生命維持のみだからだ。もって30分だろう。
一方、
『痛てて…。まったくバカ野郎が…』
エースは辟易して眼前の敵に悪態した。
――バカが…。なんで諦めなかったんだ…!
彼は刺された腹を押さえながら『なんで科学技術の粋を集めた宇宙服を着て、こんな原始人のような殺し合いを演じなければならねぇんだ?コイツらの価値観が分からねぇ』と声にならない独り言を吐いた。
しかし相手は待ってくれない。殺意も止まらない。
エースは眼前の相手がヨロヨロと立ち上がるのを見て焦燥しつつも、それに呼応するように立ち上がった。まるで「ロッキー2」のラストラウンドのように、倒れた2人は決着をつけるべくフラフラになっても立ち上がるしかないのだ。
『ハァ……。ったく、最期までやりたいんだな』
ここでもうエースは覚悟を決めた。彼はまず「状況を説明せよ」とか「大丈夫か」とか騒がしい司令室との通信をブツッと切ってしまった。そして腹を刺されているのが嘘のように、彼は目の覚めるような青い太陽を背景いっぱいに背負ってスクッと立ち上がった。
『相手になってやる…!』
こうして、二人は西部劇のように睨み合う形となった。
真っ黒な
――どっくん…! どっくん…!
石のように固まっていた二人だが、先に動いたのはエースだった。
彼はインコやカラスなどの頭の良い鳥がやるように、首をクイックイッと上下に振った。それが「頷き」ではなく「来いよ」という手招きに似たジェスチャーであることは人類(ネッゲル青年)にも容易に分かった。
決闘とは妙なもので、殺し合いだというのに一方では親友のような以心伝心であり、エースの「来いよ」というジェスチャーに対し、ネッゲル青年は「わかった」と頷いていた。
穏やかに決闘の火蓋が落とされる。
ネッゲル青年は名前の通りドイツ系だが、熱心なプロテスタントで日曜日には欠かさず教会に通う家で育った。だから本来なら神に祈っても良いところだが
「ダニエル、ヨハン、マイケル……俺に力を貸してくれ」
このとき彼は、散っていた戦友に懇願した。
どちらにしても助かる道はないので、もう勇気は必要なかったが彼の篤実な性格がその死んだ仲間への誓いを言わせたのだ。地球を背負うエースとは対象的に彼の背後には真っ暗な宇宙だけが広がっているものの、そこには地球で見るより遙かに明るいカシオペア座の三連星が輝いていた――。
――母さん、僕は…
「いく!!!」
ネッゲルは猛然と走り出した!
緊急作業用の刃渡りわずか3インチのスペースナイフを丸太のような腕二本で保持した彼は、あらゆる防御と精度を捨て、ただ豪腕を以て相手の装甲ごと貫通しようという構えである!
エースはその突貫をまず‟他人行儀な遠い目”で見つめた。肩を撃たれ脇腹を刺されボロボロの彼は何とも言えない悲憤に包まれて、その蛮勇に辟易とした。
『なぜこうも…』
なぜこうも、この生物は愚かなのだろう。
なぜあれだけの科学技術を持っていながらにして、こんなに愚かなのだろう―!
彼はそう苛立ったあと、いったんのゆったり瞼を閉じると、次に開いたときには鋭い眼力へと豹変させた。ジャリと軸足になる左足の3本の爪には地面を掴む以上に力がこもる!
『せめて一撃で仕留めてやる…!』
普段、縦長の彼の瞳孔は極限まで拡大し、どんな刹那も逃すまいとほぼ真円になっていた。空間把握能力に優れる中脳に大量の酸素が送られ、まるでマトリックスカメラのように自分と相手の位置関係をあらゆるアングルで如実に
ズバッ!
突撃してくるネッゲル青年の両足が月の大地を離れた瞬間(スキ)に、エースは一挙に踏み込んだ!
その距離は実に3m。とても人間には届かない距離だが、サウロイドの足は鞭のように伸びてしなり、ネッゲル青年の側頭部を完全に捉えた!
「っ!?」
『キェッ!』
エースは人間の口では形容し難い力みを発しながら、全力で足を振り抜いた!
祖先から受け継いだ形質として爪は下向きについているので、この足の甲でキックは切り裂くものではないが、その力学的破壊力は凄まじい!ネッゲル青年の頭はもうサッカーボールのように吹っ飛び、その後で辛うじて体がくっついていく…という非生物的(ゴム人形)な動きを演じる事になった。生き物としての抵抗が許されないレベルの衝撃だったから、まるで車の事故の再現映像で見るダミー人形のように運動エネルギーの洪水に押し流されるだけだ。ジャパニメーションの得意な技法で、迫力を出すために誇張された一コマを挿入する事があるが、それと同じように人間の首はこんなに伸びるのか、という異様なポーズでネッゲル青年は吹っ飛んだ。
……。
『嫌な…感触だ』
彼の宇宙ブーツと相手のヘルメットを通してもなお、相手の肉と骨格を感じ、さらに首(頸椎)が外れるようなグニッという触感を受けたからだ。
彼は紛れもなく殺すつもりでそのハイキックを放ったのだ……相手のためもあって。
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