第239話 竜の歩兵長(中編)

 サウロイドの月面基地は床面積の八割が地下施設となっていて、人類が地球から観測していた以上に広かった。その迷路のように入り組んだ廊下では、侵入した人類の揚月隊員とラプトリアンの歩兵との不期遭遇ゲリラ戦が行われ、一進一退の攻防が続いていた…!


 そしてこのエラキ歩兵長もまた、今まさに二人の揚月隊員をしようとしたところであった。うち一人はすでにフレアボールで瞬殺、そしてもう一人は……


「た、立てない…!!?」

 肩を踏みつけにし、床にはりつけにしていた。

「いや立てないのではない!動けないぞ…!」

 男は床に転がったライフルに手を伸ばそうとのたうち回ったが、まるで捌かれる前のウナギのように事に気付いた。そうだ、ラプトリアンの体重が300kgあろうとここは月だから実質体重は50kgであり、ただの踏みつけならそれを跳ね退けられないはずはないのだ。

 これはただの踏みつけではない。

「か…肩が。右腕がぁ…!」

 ただ踏みつけているのではなく敵の鷹のような足は彼の肩をガッチリと掴み、さらにバナナのような巨大な爪は肩甲骨を貫通した上で格子状の床を握っているようだった。

 鎖骨と床の格子を一緒に握られているような格好である。


『戦士よ…安らかにあれ…』

「っ!?」

 その揚月隊員は、ここでようやく自分の身に何が起きたのか知った。

 仰向けのまま天井を仰いだ彼は言葉を失った。

 彼の瞳には、天井の紫の照明を背景にして宇宙服を着た恐竜人間が自分の顔を覗き込んでいる光景が映し出されていたのだ。

「ああっ…!!」

 気持ちの糸が切れる……という表現があるがまさにそれだった。

 諦めた脳が臨戦態勢アドレナリンを解いた瞬間、肩の激痛とともに彼の心には恐怖と絶望感が津波のように押し寄せた。

「ま、待て!」

 彼は床に押さえつけられている右腕の代わりに自由な左手を天井に掲げて制止を求めた。

 ここで「命乞いをした」とか「慈悲を請うた」といった表現は適切ではない。単に力の勝負に負けただけの者が、単に力が強かっただけの者にそこまでへつらう必要も無いし、そういう表現を平然と行う本や映画を私は嫌う。

 はずだ。

 だから――

 彼はただ単純に、人間の反射行動として五本の指を大きく広げて見せる事で戦いの意志がない事と相手の冷静な対応を求めた――と著わそう。彼は戦士として十分に良く戦ったからだ。


「待て!待……っ!!」

 しかし相手は、ラプトリアンの歩兵長のエラキは冷静な判断として容赦なく手を下した。

 ナイトはポーンを殺さねば移動したことにならないからだ。


 エラキは彼の右肩を床に押しつけている左足一本で器用に立つと、左足を彼のヘルメットを踏んだ。当然ながらここまでは月面服のヘルメットは耐える事ができる。しかしエラキの狙いはそれではない。エラキはそうやって踏みつけながらバナナ大の親指の爪を、ヘルメットのバイザー部分に鎌のように振り下ろしたのである。


 バリン!!

 バイザーが割れた。

「わぁぁ!!」

 割れた瞬間に揚月隊のよくできたヘルメットは、そのヒビ割れを塞ごうと「プシュー!」と生分解性プラスチック粒子を自動で噴射したものの、ラプトリアンの爪のサイズの大きな穴はどうにもならなかった。

「わぁぁ!ああ…あ………」

 真空に晒された肺は内側に潰れ、彼の悲鳴と命の炎はどんどんに小さくなっていった。

 一方、戦いの勝者であるエラキは

『しぃぃ…』

 まさに鷹がウサギにするように、両足ではを押さえつけたまま150度ほども回る首は周囲の警戒やフレアボールの点検をしながら絶命それを待った。


 そして――

 ついに男が動かなくなるとエラキは右足を肩の肉から、左足をヘルメットのバイザーから引き抜いて一息を吐く。右の爪は寒さで凍った血が付いているが、これはすぐにパリンと割れるからいい。しかし左の爪には、もう硬化を始めている生分解性プラスチック ――煮込む前の牛スジのような感じだ―― がまとわり着いていて彼は心底迷惑そうに呟いた。

『またこれか…』

 また、ということは既に何人かを同じ方法で倒したのだろう。エラキは仕方なさげにしゃがみ込むと、爪の‟牛スジ”を剥がしながら

『エース大尉の話では、敵は50近いはずだ。まだまだ私が削らねばな』

 と独り言を呟きながら状況あたまを整理した。

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