第353話 狩猟目標・乙(前編)

 その透明な宇宙人は、さながらホラー映画のように、ほとんど足音も立てにスゥッと居住棟ユニットの中に侵入してきた。


 ス… ス… ス…

 頑丈に作られているはずの月面服の靴底が音を立てないというのは、その宇宙人の着ている宇宙服が高度な科学力によって作られている事と、その宇宙人自体の身のこなしがヒョウのように滑らかである事を証明していよう。


 ジュラシックパークでラプトルに追われる姉弟が厨房の戸棚に隠れるシーンがあるが、まさにそのようにアニィはデスクの下できつく体育座りを作って丸まって、なんとかその宇宙人が立ち去るのを待ったが……

「!!」

 そんな彼女の目の前にが立ち止まった!


――そんな…!

 アニィとしては「宇宙人はきっと安全を期すために、居住棟ユニットの中に誰もいない事を点検しているだけだ」と思っていたが、そうではないようだ。むしろ宇宙人は、何の迷いもなくアニィの隠れるデスクの前で立ち止まった。彼女がこの居住棟に隠れていることを初めから知っていたようにである。


 もうだめだ――アニィはそう思った。

 もし訓練された人間なら万に一つに賭けて攻撃に転じるべき状況だが、アニィにはそれが出来なかった。顔を膝に埋めて震えているしかできなかったのである。


 と。

 シュィーーン…という妙な音が、この息の詰まる沈黙を氷解させた。

「…!?」

 何の音かは分からない。

 相手が何か武器を取り出した音かもしれない。電気的な音なのでライトセイバーのような未知の武器を充電する音かもしれない。…だがアニィはもう何も考える気にはならなくて、ただ「凶器なんて何でもいいわ。殺るなら早く殺ってちょうだい…」と震えながら月面の居住棟ユニットの白い床だけを見つめている。


 ……しかし

 そんな彼女の最後となるはずの「真っ白な視界」の中に妙なモノがスライドインしてきたのである。彼女の視野の中にヌゥッとが現れたのだ。


――ね、猫…

――いえ……だわ

 そう。妙に生っぽく流麗に伸びてきた、それを透明宇宙人の足であると気付くのに少しの間を必要とした。そうつまり、さっきに「シュィィン」の音は透明化を解除したときの音だったのだ。


「……!」

 もちろん、アニィの視線は足に釘付けとなった。

 その23cmはレザーでも金属でもない素材で覆われ、やはり先ほど「靴音がしない」という話題があったようにズボンと靴という境目はなかった。アニィはサブカルチャーを全く知らないので彼女が想起したワケではないが、我々のために言うなら、それは「黒いウルトラマン」か、あるいは「ブラックパンサーの全身スーツ」のような見た目の意匠になっている。

 ただ、それだけではない。

 その宇宙人はさらに、アニィの視界の中で人形劇でも演じるかのようにもう一足いっぴきをスライドインさせると、二つの黒い足を仲の良い黒のように行儀良く寄り添ってみせたのである。つまり全体像としては、体育座りで膝と膝の間に顔を埋めて震えるアニィの真正面に、その宇宙人はバレリーナのように足を揃えて真っ直ぐに立っている形だ。


 挑発か、戯れか、友愛か……


 宇宙人の意図は分からないが、これには絶望に沈んだアニィの心も再びは拍動せざるを得なかった。アニィは依然として死を覚悟していたが、一方、目の前に揃えられた両足が優しく誘っている気もして「どうせならブルースのように宇宙人を見てから死にたい!」と好奇心にも駆られた。

「…うん」

 アニィは微笑みと恐怖の中間の透明な表情で、ゆっくりと視線を上げてみる事にした…!


――――――

―――――

――――


 ここで視線を真逆にする。

 で、アニィを見下ろしてみよう。


「…やれやれだわ」

 その宇宙人は、両足を揃えた何とも美しい立ち姿で、足元にうずくまるアニィを見下ろしていた。

 ハサンを切り裂いたスライド式のクローは、いまは手首の辺りまでスライドバック(後退)して固定されており、そこから流れた血が手の平を伝い、最後には小指の先からポタポタと滴っていた。

 血の滴は、粘性の高いオイルの中を色水が上がったり下がったりする鑑賞用インテリアのそれのように、月の重力に引かれてゆっくり落ちては、居住棟の無個性な白色の床で弾け続けている。


「やっと2を見つけたのに…」

 宇宙人はアニィの無防備すぎる後頭部を見つめながら、事に地団太を踏んでいた。

「まったく…」

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