第351話 光学迷彩(中編)

 アニィが居住棟ユニットの外に飛び出ると、そこに血の地獄が広がっていた!


 彼女が居たのは通称コントロールルームと呼ばれる、第二基地ドーム内の設備の諸々を管理する居住棟ユニット(コンテナハウスのような形状だ)で、その眼前には基地の中心でポッカリと口を開けるを臨む。

基地ドームの中央に縦穴があるのではなく、縦穴があったところに基地ドームが被さっているというのが正しい。サウロイドが造った縦穴と地下施設を調べるため、まずはそこをドームで覆い、ドームのとばりの中に調査員の寝食のための居住棟ユニットを並べたのがこの第二基地だ。基地というより発掘現場というのが適切で、のもそのためである…)


「ああ!!」

 縦穴の上には、地下に降りるゴンドラリフトを引き上げための支柱塔が跨っていて、コントロールルームを飛び出したアニィは否応なくその塔を見るわけだが…

「いったい何が!?」

 そこではもう、何か只ならない事が進行していた。東京タワーを15mほどに潰したような支柱塔の、メンテナンス用の階段の各所から血の噴水が上がっているのである。ゴンドラを修理するために集められた作業員が次々に首を搔っ切られていて、階段の途中で倒れているのである。

 と、またガンファイヤが起きた。

 見れば、支柱塔の階段の最上部にハサン(月面服の腕章でわかる。副長だからだ)が立っていて、階下に向かって銃を放っているのである。


――いったい誰を撃っている!?

――見えないけど…?


「あれは…!?」

 アニィは、ハサンの放つ弾丸の射線ヒントを目で追い、そこを凝視することで謎の”空気の歪み”を認めたのである。


――透明人間ですって!?


 いや完全な透明ではない!

 蜃気楼かプリズムか……モヤモヤと人の形に空間が歪んでいるのが凝視すれば分かった!おそらくはアニィは、遠くから他の多くの被写体と一緒にそれを見比べているからこそ、透明人間を見つける事ができたのだろう。しかし――

「あぶない!!」


 しかし見つけたと言っても、ハサンに何をしてやれるわけでもない!

 アニィは、その透明人間がヒョウのような華麗さでピョンピョンと飛び跳ねながら階段を昇り、ハサンに迫っていくのを見ているしかなかったのである。このときアニィはただただ「ラッキーでもいい。弾が当たってくれれば」と願い、また事実としてハサンの射撃もトンチンカンではなかった。彼ももその透明人間を蜃気楼のような空間の歪みとして多少は見えているようで、銃撃はそれなりの正確さで飛んでいたのだ!

 だが相手は、そもそも透明であるかどうか以前に‟速すぎた”!

 月面だからといってそんな動きができようものか、透明人間は左に右にと階段の手摺りの上をパルクールしながらハサンに飛びかかると、その勢いのままハサンの喉元を一突きにしてしまったのである!

 ピョン!ピョン! ザッ!!


 一撃、一撃だ。

 その一撃はハサンの頸動脈を過不足無く完全に分断した。

 まるで高名な料理人が魚を美しく絞めるような精度で、最小限の力で、最小の痛みしか与えない暗殺術だった。華麗なその技を見るに、ことは分かったが、同時に確固たる殺意を持っていることも明らかである。


「ひゃ…っ!」

 墜落する宇宙船の中でも感じたことのないな恐怖がアニィの脊椎を直撃し「きゃぁ」と「わぁっ」が合体したような悲鳴が漏れた。たぶん我々がアウストラロピテクスだった頃、仲間が古代ライオンに襲われる様を見殺しにするときにも今と同じような無力感と恐怖心に苛まれていた事だろう。


 アニィはもう、ただただホラー映画のように自分の両手で口を塞ぎ、腰が抜けるように屈みこみ、そして。つまり、あっさりと仲間を諦めたのである。


――私が戦っても無駄だもの…!


 そっとコントロールルームの扉を閉じたアニィは、さらに種々の計器類や操作ボタンが並んだコンソールデスクの下に隠れて息を殺した。

「…はぁ…はぁ……くっ…」

 青い地球を背景バックに、ハサンの首から噴き上がる鮮血とそれを浴びて輪郭を露わにする透明人間……そんな光景が脳裏に焼き付きを起こしていて上手く思考が働かず、どっくん、どっくん、と強く打つ自分の心臓の音だけが聞こえていた。


――考えなくては…!なにか考えなくては…!


 しかし愚かしい事に、混乱する彼女の心が最初にしたのは、仲間を見捨てて隠れた事への自己弁護だった。


――これは卑怯な行為じゃあないのよ

――私が何をしても無駄にやられるだけじゃない…


――そう、ボーマン司令だって同じ事をするはずよ!

――私は正しい。 いまは生き延びる事が正しいはず…!!

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