第275話 転進とは敗北の粉飾類語(後編)

 30秒ほど時間を戻す――。


 運が良い事に、A棟の北の端で月面車整備棟ドックから這い出てきた揚月隊と睨み合う装甲機兵サウロイドに、レオの命令が届くのは一瞬だった。レオが「この辺りの廊下に誰かいるはずだ」と適当に鳴らした電話が、ばっちり一人の装甲機兵の手の届く壁にかかっていたからだ。


『電話だと!?』

 ピカピカッという強い光が呼び出しベルの代わりである。人類がこの区画とドックを区切るエアロックを開いたせいで、この廊下は真空だったためだ。


『…ええい、仕方ない!』

 電話に近かったサウロイドは一瞬迷ったが、責任をもって隠れている部屋からサッと半身を出すと廊下の壁の受話器に手を伸ばした。この廊下の長い直線ストレートが攻防の舞台になっていて、廊下に体を出すとすかさず敵の射撃があったが、さすがに遠く、壁や床でチュンチュン!と火花が散るだけで当たらなかった。

 彼はサッと受話器だけを取って部屋の中に逃げ戻って続けた。


『誰だ、まったくこの忙しいときに』

 彼は不平しながら接続端子を露出させ、それをヘルメットの側頭部にある穴(ジャック)に差し込んだ。真空なので普通に受話器を使う事ができないためである。


『こちら装甲機兵のナファ中尉です!あ、司令!?』

 この瞬間、ナファ中尉は少し笑顔になった。

 というのも、この区画でのフレアボールの使用許可が無く、さっきから敵の鉄片投射器アサルトライフルに撃たれるばかりだったからだ。きっとレオの指令は「構わん。フレアボールを使え!」か「MMECを撃ち込むからもう一度、撤退だ!」など、A棟の損害を許容する攻撃命令が下るものと、彼は思ったのである。

 しかし、レオからもたらされた情報は意外なものだった。

『え、B棟が…!?墜ちた!?』


 レオは受話器の向こうで「そうだ。B棟の援護に向かってくれ。A、ジャンクションホールを襲っている敵の背面を奇襲せよ。敵の数は20だ」と下命してきたのだ。


『わ、分かりました…!』

 ナフォ中尉は努めて冷静に頷いた。

『距離はありますが月面そとを経由するなら装甲機兵の本領が発揮できる。300…いえ200秒で参戦できます!次の防衛陣の段取りができているなら、すぐに移動を開始しますが…』

 装甲機兵じぶんたちが移動したら、この区画は揚月隊じんるいに制圧されるが、隣の区画の防御は大丈夫か――と彼は訊いたのだ。だが訊くまでもなく、レオの答えはもちろんYESである。

 隣の区画には、もう砲術士官達を武装させて配置しているという。


――予備役の雑魚だろ…大丈夫か?

 ナファ中尉は一瞬そう思ったが、レオを信じて何も言わず返答した。


『承知しました…!では仲間に指令を伝え、移動を開始します!』

 電話口のレオは「頼みましたよ!そのB棟の敵を排除できれば、我々の勝ちです」と強く激励した。

『はっ!』


 しかし……

 この8B

 不幸にも月面に出るや否や、あのエラキを襲った4人の海底人を迎えに来たUFOマシンに鉢合わせしてしまったからである。

 しかもそのUFOには「暴れたがっている」と揶揄されたが乗っていたのである…!



 では、UFOの中に視点を変えよう――


――――――

―――――


 この‟マザーマンタ”は海底人の巡艦で、前後にも左右にも50mほどのサイズを誇るが、面白いことに


 機関室や武器庫(ウエポンベイ)やエアロックやコクピットという区別はなく、ただ70平方メートル(学校の教室ほど)の円形の部屋が全てである。人類が想像する巨大宇宙船のイメージとはかけ離れていて、そのに操縦席があり、ベッドがあり、食料庫があり、簡単なキッチンがあり、トイレすら備わっていた。宇宙船だというのに気楽なキャンピングカーのような作りだった。


[この乗り心地の良さはお前の腕か]

 例の王子が戯れにパイロットに話しかけた。


 彼は床に直接座っていて、大きなクッションを右脇に抱えながら座位と肘枕の中間ぐらいのポーズで寛いでいる。なんというか、そのポーズも相まって、部屋全体がモンゴル帝国やイスラム王朝が遠征先で用いる王族用のテント(ゲル)をイメージさせた。

 サラディンもこうやって座って、部下と談笑していたかもしれない。


[あ、いえ。まさか]

 パイロットは「まさか手動で姿勢制御をしているワケではないだろう」と苦笑した。苦笑ごときの失礼を怒るような人間ではない――王子の器の大きさがよくあらわれているやりとりである。

[だろうな。じゃ立っていることが仕事か?]

[王子だって、寝て食べているのが仕事でしょう?]

 パイロットの侍従も毒舌に遠慮がない。

[なははは!お前らを食わないだけ幸せと思え]

[いやぁ。私達も肉食ですから美味しくないですよ。肉食動物の肉はマズイそうですから]

[いやいや!、俺にとってはお前達は美味かもしれんぞ。がははは!]

 王子は右を下にして寝転がったまま、空いた左手で、そのゴムのような白黒の肌の腰のあたりをペチン!ペチン!と叩いて笑った。

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