第98話 司軍法官の女(中編)

 保存液に満たされた水槽に浮かぶ宇宙生物エイリアン死骸サンプル…。

 月の低重力のせいで保存液はさも粘性があるように振る舞い、その死骸はタプンタプンと気持ちよさげに揺蕩たゆたっているよう見える――それが、水槽の小窓を覗き込んだゾフィのファーストインプレッションだった。


 その水槽の小窓の位置は小柄な彼女には少し高く、小窓を覗き込むには背伸びというほどではないが背筋をシャンとする必要があった。

 そんな幼気に見える彼女の背中に、低い声がかけられる。


『もうそれほど用は無いそうだが…』

 声の主は彼女の傍らに立った屈強なラプトリアンだった。

 ただでさえサウロイドとラプトリアンの体格は違うのに、その上で小柄な女と大柄な男である。体重は五倍ほども違うかもしれない。

『検体が終わったから?』小窓から振り向きつつ、ゾフィが訊き返した。

『そうらしい』

『なにか分かったの?』

『知らん』

『ええ!?知りたいと思うでしょう普通。だって宇宙生物エイリアンなのよ!?』

『い、言われてみればそうだが。興味が湧かなかった』

『……ねぇ。エラキ』彼女はため息交じりに言った。

 人に向かってため息を吐く者には三種類いて、ため息が失礼になると気づかないか、ため息が失礼になると知っている上で何らかの効能(挑発や威圧などだ)を狙って敢えてため息を吐くか、ため息が失礼になると知っているが自分のだけは違うという才能チャームをアピールしたいというのどれかである。二番も三番も含め全てなのは間違いないが彼女の場合、性質的には一番の「愚か者」であった。

 もっともその点を、我々おとこは天真爛漫と言い換える事もできてしまう。語弊を恐れずにいえば……

 美人は得である。


『…ねぇ。エラキ。なんであなたが案内役なのかしら?』

 ゾフィはため息を吐きながらヤレヤレと首を振ってみせた。このエラキというラプトリアンが、科学への造形も愛想も無い男だったからだ。

『レオ司令は忙しいんだ。また科学クルーも忙しい。テクノレックスの改修は昼夜を問わず続いている』

『ふぅん。まぁ確かに忙しいのはそうででしょうね』ゾフィは隣の水槽を覗きながら言った。『ばけ学も工学もできなきゃならないんだから、月面の科学者は本当に選りすぐりよね』

 隣の水槽には、エースに倒されたエイリアンが浮かんでいた。MMECレールガンよりフレアボールの方が威力が低いのは間違いないが、ばっつり勢いよく両断されているMMECで撃たれた死骸サンプルより、コチラのフレアボールで仕留められた死骸の方の損傷は激しかった。エイリアンの胸から上は形を留めておらず、おぞましい巨大花のようになっている。


『暇なのはアナタのような生粋の戦士だけって事ね』

『地上戦になるとは思えないがな』

 うーん、とゾフィは一頻り考えたあと『でも健康そうに見えるわね』と言った。

 でも、という接続詞の意味が分からずエラキは一瞬沈黙した。「地上戦になるとは思えない」という意見と「健康そうに見える」という感想が、逆説でもで繋がっている理由は彼女しか分からないだろう。

 ゾフィは、こういう少し捉え所のない女性なのである。

 ただしこれは彼女が阿呆だからという事ではなく、むしろ頭の回転が早すぎて表に出る言葉がそれについてこれないという風であった。


『…というと?』

 エラキは正直に疑問した。彼もまたこういう男なのである。「文章が繋がっていない」と難詰もしなければ、虚栄心で早合点もしない。

『つまり健康そう…というのは?』彼は実直に訊き返した。

『え?月に長くいるのにとても健康そうよ?』

『……』

 少なくとも凡人からすれば、それもまた「地上戦になるとは思えない」という意見と「健康そうだ」という感想が逆説でもで繋がる答えにはなっていなかったが、ゾフィーは事も無げに微笑むばかりだった。


――ついていけん…

 エラキは諦めて、彼女の「健康そうだ」という感想にだけ答えることにした。

『特別なトレーニングのおかげだ。特別な部屋に、特別な器具に、特別なトレーニングメニュー…』

『聞いているわ。その生理化学こそが一番の功績だと言う人もいる』

 ゾフィは動物園の子供のように、幼気なカニ歩きをしながら次々に水槽の小窓を覗き込んでいく。小柄ゆえに小窓を覗き込むときに少し背筋を伸ばす仕草が何ともいじらしく、頭の回転の速さや舌鋒の鋭さを感じさせない不思議な魅力を持った女である。

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