207 最後まで演じきるということ(9)

 落ち着き払った声で噛んで含めるように言うキリコさんに、軍曹はまだどこか腑に落ちないような顔をしながらそれでも大きく頷いて見せた。


 それを認めるとキリコさんは座ったままのけぞるようにしてこちらに手を伸ばし、俺の足先に置かれていた例の携帯電話機を拾い上げて、言った。


⦅ただ、それもあんたがこれを持ってきてくれたおかげさ⦆


 何度見てもばかでかいティッシュのケースほどもあるそれを頭の横に掲げながら、今度ははっきりとした優しさ――と言うより感謝を込めた声でキリコさんは言った。


 その言葉に、軍曹がまた困惑の表情を浮かべるのが見えた。ただそれは文字通りの困惑に違いなかったさっきのそれとはまた違った表情で、そこへ畳みかけるようにまたキリコさんの声がかかった。


⦅あんたがこいつを持ってきてくれたおかげで、あたしたちはこうして大人しく向こうの出方を待っていられる⦆


⦅……⦆


⦅あんたが来てくれたおかげで計画を前に進められる。あんたは充分な働きをしてくれたよ。半分諦めかけてた計画にもう一度望みを託してみよう、ってこのあたしに思わせるくらいの⦆


⦅……⦆


⦅だから今はゆっくりと休んどくれ。として言わせてもらえば、あんたの傷はそう軽くない。せめて一晩くらいは安静にしてないと治るもんも治らないよ。動くべきときがきたらまた嫌でも動いてもらわなけりゃいけないんだからね⦆


⦅……はい⦆


⦅そんなわけで、とりあえず『休息』があたしからの指示ってことでどうだい? あんたにそうしてもらうことが計画の進行上、最も妥当で合理的な指示だと判断するよ、あたしは⦆


⦅……はい。勝手を申しまして大変失礼致しました、博士ドクター


 優しく諭すようなキリコさんの言葉に、自分の非を悟ったというように背筋をまっすぐ伸ばし、いかにも申し訳なさそうな声で軍曹はそう応えた。そんな軍曹にキリコさんはなおも何かを言いかけ、だが何も言わず小さく鼻を鳴らした。


 ……キリコさんが何を言おうとしたか、何となくわかる気がした。たださっきのキリコさんの言葉ではないが、こういったものにいちいち真面目に応えられていたのでは身がもたない。軍曹にとって――と言うより、むしろ俺たちにとって。


⦅ま、そんなわけで当面はここで三人揃ってお留守番ってことになるかね⦆


 しかつめらしい態度を崩さない軍曹に、鼻から息を吐きながら諦めたような調子でキリコさんは言った。それから両手を頭の裏に組み、目を閉じ大きく背をのけぞらせて誰に語りかけるともなしに続けた。


⦅いずれにしても今はに顔なんざ出せないよ。こっちもまあ切羽詰まった状況だけど、連中は連中で一歩も踏み外せない綱渡りの真っ最中だ。そんな所へあたしらなんかがのこのこ出てったら茶番もいいとこだ。役者が舞台に出るタイミング間違えたら芝居がどうなるか、そのあたりをよく考えないとねえ⦆


 あるいはそういう意図を込めてということなのだろうか、自分に言い聞かせるように呟くキリコさんの言葉にはあからさまな軍曹へのあてつけが感じられた。だが軍曹は特に反応するでもなく、背筋を伸ばしてまっすぐにキリコさんを見ていた。


 キリコさんは軍曹の方には目を向けず、頭の裏に手を組んだまま揺りかごのように上体を揺らしていたが、やがて思い出したようにまた唇を開いた。


⦅大人しく電話を待ってりゃいいんだよ。それが今のあたしらにできるたったひとつのことさ⦆


 そう言ってキリコさんはぴたりと身体を揺らすのをやめた。そうして半分瞼を伏せた下目遣いで、漆黒の窓の外をすがめながらどこか夢を見るような声で軍曹に語りかけた。


⦅エツミ軍曹⦆


⦅はい⦆


⦅これは舞台なのさ⦆


⦅舞台……と申しますと⦆


⦅役者がお芝居をする場所のことだよ。めいめいが役を割り振られてね、その役をまっとうする演技をするんだ⦆


⦅……⦆


⦅役者がいて観客がいる、そんなどこにでもあるような舞台だよ。……ああ、観客はいなかったか。いないけど舞台なんだ⦆


⦅……仰る意味が理解できかねます⦆


⦅理解しとくれとは言わないよ。ただ、そう思っといとくれ。ここは舞台で、あたしたちはめいめい役を割り振られた役者だ。あたしとはそう思ってる。あっちで頑張ってるもね⦆


 そう言ってキリコさんはどこかとぼけた感じのする共犯者の目で俺を見た。その視線に、俺は思わず目を逸らした。


 話の内容に反発を覚えたわけではない。あの日の電話を皮切りに否応なく始まったを思えば、そのあたりについて軍曹に説明しておくことの必要性はよくわかる。


 ただ眉間に皺をよせじっとキリコさんを凝視する軍曹の姿を見るにつけ、その説明を彼女にとするキリコさんの魂胆は見え透いている。


⦅もう一度繰り返すよ。これは舞台なんだ⦆


⦅……⦆


⦅これは舞台で、あたしたちはそこに立つ役者だ。あたしもこの子も。今日このときからは軍曹、あんたもね⦆


⦅……台本のようなものはあるのでしょうか⦆


⦅ないんだよ、そういうのは。脚本なしのぶっつけ本番、世に言うところの即興劇ってやつさ⦆


⦅……⦆


⦅まあ、幕があがる前にあたしが書いた脚本があるにはあるんだが、それはもう使い物にならなくなっちまった。そんな筋書きなんぞ無視して物語が一人歩きしちまってる⦆


⦅……⦆


⦅そうなっちまったらもうお手上げだ。あとはあたしたちの方で合わせるしかない。どこ転がってくかわからない滅茶苦茶な物語に合わせて、与えられた役を必死に演じるしかない⦆


⦅……⦆


⦅連中をここから連れ出すためにはね⦆


⦅……はい⦆


⦅いいかい? ここは舞台だ。その舞台に立つあたしたちは役者で、与えられた役を演じきらないといけない。軍曹、あんたも例外じゃないんだよ。そのへんをしっかりと頭に入れておいておくれ⦆


⦅はい。了解致しました、博士ドクター


 おそらく話の内容について来られないでいる軍曹は、けれどもすべてを呑みこむように真っ直ぐキリコさんを見据えてそう応えた。


 そんな彼女の態度に、俺は溜息をつきたくなるような深い同情を覚えた。……こうしてこの人も、この得体の知れない不条理な舞台の枠組みにとらわれてしまった。


 いつ始まったとも知れない、何がどうなっているともわからないグロテスクな舞台。あの日、隊長が口にしていた《残酷演劇》は、今もまだに続いているようだ。


⦅けどまあ、固っ苦しく考えるこたないよ⦆


 悲壮感さえ漂わせる軍曹の様子にさすがに気が咎めたのか、再び手を頭の裏にまわしながら気の抜けた声でキリコさんは言った。


⦅なにせ台本も何もない即興劇だ。自由にやってくれりゃそれでいいんだよ⦆


⦅……⦆


⦅さっき言ってただろ。あんたには遂行すべき任務があるってさ。の中でそいつを遂行できるようにあんたの役を演じてくれりゃいいんだ⦆


⦅……⦆


⦅あんたはあんたで自分に与えられた役を演じてくれりゃいい。あたしはあたしで自分に与えられた役を演じる。そういう舞台なんだよ、ここは⦆


⦅……はい⦆


⦅この子はこの子で演じてる。あっちで頑張ってるもう一人のこの子もね。あたしたちが今いる場所はそういう場所で、それをあんたにも知っておいてもらいたかった。それだけのことなんだよ⦆


⦅……了解致しました、博士ドクター


⦅で、その舞台で今あたしらにできることは、袖で控えて呼び出しの電話を待つことだけ、ってことなのさ⦆


 そう言ってキリコさんはまた電話機を掲げた。手をいっぱいに開かなければ掴むことすらできないそれを耳の横に構え、話をする仕草をして見せるキリコさんに、軍曹はにこりともせず無言で頷いた。


 そんな軍曹をやれやれというような苦笑いで見つめ、電話機を顔の横につけたままキリコさんはなおも続けた。


⦅その電話がキューさ。あたしらが袖から舞台にあがるきっかけの⦆


 月が蔭ったのか、部屋の中はほとんど真の闇に近かった。その闇の中で大時代的な電話機を耳にあて芝居がかった台詞を口にするキリコさんは――なぜだろう、見る者を引き込まずにはいられない存在感に充ちていた。


 それが彼女のだと気づくまでに時間はかからなかった。今はまだ袖にいて舞台に立つのはこれから――口ではそんなことを言いながらも、おそらくは軍曹を俺たちと同じ舞台に立たせるために、キリコさんは今まさに渾身の演技をしているのだ。


⦅そいつがかかってきたら出番だ。そんときゃ待ったなしだよ⦆


⦅……はい⦆


⦅期待してるよ、あんたがどんな演技見せてくれるのか。寄せ集めの劇団で旗揚げ公演といこうじゃないか。ああ、何だか楽しみになってきたねえ。どんな芝居になるんだろうねえ⦆


⦅……ひとつ、質問してもよろしいでしょうか⦆


⦅なんだい?⦆


⦅その電話はいつ頃かかってくるものなのでしょうか。正確な時間がわからないことは存じておりますが、おおまかな目安としていつ頃なのか伺っておきたいのです⦆


 やはり時間が気になるのだろうか、それだけはどうしても聞いておかなければならないというような切迫した口調で軍曹は言った。


 月明かりが戻ってきた。キリコさんはさっきまでの調子で何か返そうとし、けれども脱力した様子で電話機を持つ手を下ろした。


 ……その理由はよくわかった。軍曹にはまったくものとみえる演技を早々に投げ出し、ここのところ見慣れた感のある無気力な表情で頭の裏を掻きながらいかにも面倒くさそうにキリコさんは言った。


⦅なに、あたしの見立てじゃそう先の話でもないよ⦆


⦅……⦆


⦅せいぜい待って一日。早けりゃ夜が明ける前にかかってくる。逃走した元隊長が戻ってるようなら話は別だけどね。まあさっきも言ったように、そうなりゃどのみち計画はご破算だ⦆


⦅確証はあるのでしょうか⦆


⦅ん?⦆


⦅一両日中に電話がかかってくるという確証はあるのでしょうか⦆


 軍曹の問いは執拗だった。こうなるとキリコさんばかりでなく傍で聞いている俺の方まで力が抜けてくる。


 いちいち真面目に応えていたのでは身がもたないという言葉をもう一度思い出した。……まるでブーメランだった。キリコさんは興ざめを隠そうともせず、弛緩した表情に薄ら笑いを浮かべ、どこかあざけるような調子でぶっきらぼうに応えた。


⦅んなもんありゃしないよ。確証もなけりゃ保証もできないね。三日経とうが五日経とうがかかってこないかも知れない。あたしは神様でも何でもないから、そんなことはわからない⦆


⦅……⦆


みたいなもんだよ。連中の状況とこれまでの経過。そういったものを織りこんで考えれば、近いうちに電話がかかってくるだろうってだけの話さ⦆


⦅……⦆


⦅軍曹。さっき言ったことの繰り返しになるけど、もう少し落ち着いて構えてみちゃくれないかい? まだかまだかと待ってるうちはかかってこないものが、待つのをやめた途端にかかってくる。世の中そんなもんじゃないかい?⦆


⦅……はい。申し訳ありませんでした、博士ドクター


 そう言ってまた意気消沈したようにこうべを垂れる軍曹に、キリコさんは追い打ちをかけるように⦅まったく世の中そんなもんだよ⦆と、気の抜けた声で呟いた。


⦅待ち人が現れるのはいつだって待つのをやめたときって相場が決まってるのさ。そういやそれを学説に仕立てようとしてたやつまでいたっけね。現象として捉えた場合、一般論にまで拡張する余地が充分にあるだとかぬかし始めて。最初にその論文読んだときにゃ思わず吹き出しちまったんだが、あれは確か――⦆


 唐突に電話の呼び出し音が響いたのはそのときだった。


 手元で発せられたその音に小さく身を竦ませてキリコさんは話すのをやめた。一瞬、信じられないものを見るように手の中の電話機を眺めて、それから真っ直ぐにそれを俺の方に差し出した。


 俺は無言で受け取り、闇の中に目を凝らして通話を開始するためのボタンを探した。それと思われるボタンを押して耳にあてると、「もしもし」とが聞こえた。


 それだけ確認して俺はその電話機を、目の前に突き出されたキリコさんの手に載せ返した。

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