295 出撃と葬送(8)
俺のその一言に、アイネは驚いたような顔で俺を見下ろした。そんな彼女に俺はもう一度、押し殺した声に決意をこめて言った。
「助けに行こう、あいつらを」
「……命令忘れたの?」
「覚えてる。けど、じゃあ俺たちは何でさっきからここにいるんだ。あいつらを助けるためじゃないのか?」
「『鉄騎』が現れるかも知れないから」
「……」
「ちょうどこんな感じの、小規模で乱戦になってるとこへよく割りこんでくるの、『鉄騎』は」
それで終わったとばかりにアイネは視線を元の闇に戻した。
「どこにもいない」
と、彼女を真似た淡々とした口調で俺は呼びかけた。アイネの目がまたおもむろに俺を見下ろした。
「『鉄騎』なんてどこにもいない」
「これから現れるかも知れない、って言ってるの」
「ああ。けど、最後まで現れないかも知れない」
「もう一度聞くけど、隊長の命令、忘れたの?」
「ちゃんと覚えてるよ。『鉄騎』がいて、うまくいきそうだったらやってみろ。気楽にいけ、おまけみたいなもんだ、ってな」
アイネは今度は黙った。暗闇にあって燃え立つように輝く目でじっと俺を見つめている。
やがてその唇が動いた。咎めるような、だがどこか迷いのある声で「命令違反はできない」とアイネは告げた。
「してない」
「え?」
「命令には違反してない。『鉄騎』が現れたときの命令は受けた。けど、それが現れないときの命令は受けてない」
「……」
「他部隊との戦闘も禁止されていない。ここで俺たちが出ていっても、命令に違反することにはならない」
俺を見下ろすアイネの表情は変わらない。けれどもその変わらない表情の下で彼女が迷っていることはわかった。
あともうひとつプラスの要素が加わればアイネは考えを変える。ただそれはあくまでアイネの中でプラスになる要素でなければならない。今のアイネの中でプラスになり得る要素となると――
「逆に」
「え?」
「逆にここで俺たちが出ることが、命令を守ることになるんじゃないか?」
「……どういうこと?」
「この戦闘を長引かせるべきだろ。さっきのアイネの話が本当なら」
「……」
「今のままだとこの戦闘はすぐに終わる。そしたらここで待ってた時間が無駄になる」
「……」
「けど、ここで俺たちが割って入れば違ってくる。きっと乱戦になるだろうな。『鉄騎』をおびき出すためには格好の」
アイネはしばらく応えなかった。唇を固く結び、挑むような目で俺を見つめ続けた。
どれくらいそうしていただろう、アイネはやがて目を閉じ、小さくひとつ息を
「
「……! ああ、わかった」
「後ろを
最後に小さくそう言うと、アイネは低く身をかがめて小走りに駆けだした。鳴りやまない銃声の中、それでも決して足音を立てないように、全神経を靴の裏に集中してそのあとを追った。
銃声は徐々に大きく、近くなっていった。
やがて闇の中に明滅する小さな灯が現れた。銃声よりわずかに早く、同じ時間差で断続する
ビルのエントランスに黒い人影らしきものが垣間見える場所まで来てもアイネは立ち止まらなかった。その代わりに歩調をめいっぱい遅め、ほとんど地を這うようにしてゆっくり、ゆっくりと進んだ。
俺はただ必死に音を立てないことだけを考え、そのあとについた。
永遠とも思える時間があって、ビルに出入りする人影の表情を窺えるほどに近づいたところで、さっき身を隠していた路地よりも更に狭いビルの切れ間にアイネはすっと滑りこんだ。
あとを追って俺がその路地に入るのとほぼ同時に、耳をつんざくような轟音が三発立て続けに響いた。短い男の絶叫が三発目の銃声に重なる。
目を向けたときアイネはもう壁に背を預けて路地の中にあった。瞬間、アイネの身体のすぐ横、壁際のすれすれを夥しい銃弾が通過していった。見えはしなかった、だが俺ははっきりとそれを聞いた。
気がつけば、戦闘は始まっていた。
弾幕という言葉そのままに、ほとんど継目なく闇を
あんな撃ち方で
「え? ……ああ!」
一呼吸遅れて俺が叫び返すと、アイネは滑るように俺と壁との間を奥に抜けた。入れ替わりに俺がアイネのいた位置に動く。
そこではじめて自分が何を言われたのか、何をしなければならないのか理解した。
躊躇している時間はなかった。
「ぐあ……!」
爆音と共に大きく腕が跳ねた。
思い切り腕を引かれたような衝撃に、骨の髄までびりびりと痺れが来る。銃を取り落とさなかったのは奇跡だと思った。そう思う端から、そんなことを思っている場合じゃないという声が頭に響く。
……そうだ、そんな場合じゃない。悠長にそんなことを思っている場合じゃない! 考えろ! 考えろ!
ひゅん、ひゅんと音を立てて弾丸が飛んでゆく。冗談のようなその音を聞きながら必死になって俺は考えた。
……そう、
そもそも俺は本物のこいつを撃つのは初めてなのだ。そんな俺がアイネのようには……いや違う、初めてではない。初めてに等しいが初めてではない。
そう、俺はこいつで人一人撃ち殺している。思い出せ! 俺があのときどうやってこいつを撃ったかを!
「く……」
壁越しに闇の向こうを見た。
ビルのエントランスに見え隠れする人の影……そうだ落ち着け。あそこから撃つ以上、あの影が完全に死角に入ることはない。撃つ瞬間には姿が見える。そして姿さえ見えれば、この距離なら狙えば中る。
そう――必ず中る。本当の銃撃は初めてに等しい。だが本物のこいつを撃つための訓練は、こうした場面の訓練はこれまで飽きるほど繰り返してきたのだ。
「……っ!」
刹那、弾幕が途切れた。その瞬間、俺は転げるように路地から飛び出した。
地面に片膝を立て両手に銃を構える。敵は一瞬驚いたように手を止め、だがすぐに狙撃が再開された。俺はその影に素早く照準を合わせ、トリガーを引いた。
「……くっ!」
一発。鋭い音を立てて弾が頬をかすめてゆく。
二発。真っ直ぐに伸ばした腕から骨を砕くような衝撃が来る。
三発! 弾道は見えない、けれども照準は合っている。これで中らないはずがない!
四発! 五発! 中らないはずがない! 中れ! 中れ! 中れ!
……中った!
「え……うわっ!」
黒い影が銃を落としうずくまるのを認めた瞬間、俺は強い力で腕を引かれた。
何が起こったかわからないまま俺は路地の暗闇に引き戻され、尻もちをついた。「ばか!」というアイネの声を聞くのと、俺がさっきまでいた場所を弾丸が霰のように通過していく音を見るのがほぼ同時だった。
「何してるのよ! ばか!」
「……え?」
「ばかな真似しないで! 死にたくないなら!」
「……」
鋭い声でそう叫びながら、アイネはもう銃撃を始めていた。
さっきと同じように壁を背に、手首だけ出して背後を撃つその姿を、俺はしばらくただ呆然と眺めた。そうしてアイネが今、俺に叩きつけた言葉について考えた。
ばかな真似をしないで、死にたくないなら。
――死ぬ? 誰が?
ひび割れたビルの壁に背中を預け、開いた両脚を真っ直ぐにアイネは立っている。弾幕のショールを肩に銃声のエールをまとって、今、この舞台の中心に立っている。
そこで俺は、また自分がこの舞台から落ちかけていることに気づいた。
……そう、アイネはちゃんと舞台に立っている。この舞台で彼女の役を見事に演じている。だがそんな彼女にこうして
「……っ!」
そのことに気づいてすぐ、即興劇の舞台に立つ役者の本能で、俺はほとんど必死になってその舞台に立ち戻るための修正作業を開始した。
――そうだ、まず信じろ。すべてはそこからだ。
目の前のこれを信じろ。自分を取り巻くこの状況を受け入れ、そのただ中に立っていることを信じろ。
砂漠に建つ廃墟の夜に、激しい戦場が繰り広げられている。これは現実だ、信じろ。
その戦場にあって、アイネが敵と撃ち合っている。これも現実だ、信じろ。
背後をとって奇襲をかけ、今こうして戦いのまっただ中にある。信じろ!
これはすべて現実だ、信じろ! そして今ここで俺が何をすべきか考えろ! 考えろ! 考えろ!
「――!」
そのとき、視界の端で何かが動いた。反射的に俺はアイネの腕を掴み、引き寄せた。
小さく短い声と一緒にその身体が俺に倒れ込んできた直後、銃声とは違う癇癪玉が弾けるような軽い音が立て続けに起こり、細かな石の破片が盛大に降り注いできた。
思わず目を閉じ、だがすぐに開けてアイネの身体のあった場所――大小幾つもの穴が穿たれた壁を目にした。そうしてすぐ、再び乾いた音と共にえぐられた壁の欠片が雹のように降ってきた。
「放して」
「え?」
「腕、放して」
胸のあたりに小さな声を聞き、自分がアイネを腕にかき抱いていたことを知った。慌てて腕を放すと、アイネはおもむろに頭を起こし、これ以上ないほど真剣な目で刺すように俺を見た。
「挟まれた」
「……らしいな」
「早くここ出ないと」
「この奥で待ち伏せ、ってのは?」
「意味ない。撃ちまくられて死ぬだけ」
「そうか」
「どっちかに穴開けて逃げるしかない」
「……」
「ハイジが後ろ、わたしが前。いい?」
また頭上に壁が爆ぜた。降り注ぐ砂礫の中にもアイネは目を閉じずに、じっと鋭い眼差しで俺を見つめていた。その眼差しの意味はよくわかった。だから俺はすべての言葉を呑みこんで、「わかった」とだけ返した。
それからまた一頻り壁の砕け散る音あって、その音が止んだ瞬間に俺たちは動いた。
「く……」
俺たちの反撃に一瞬収まった敵の銃撃は、すぐまた一層激しく襲いかかってきた。
応戦するアイネの銃声を背中に聞く。その姿を俺は見ない。敵の位置がわかっている以上、場慣れしたアイネが撃たれることはないはずだ。
何より俺にそんな余裕はない。彼女を気遣って後ろを振り返る余裕など、今の俺には欠片もない。
「……っ!」
俺は俺でどうにか死角を見いだし、そこから出て撃ちかけ、またその死角に戻ることを繰り返した。
両手でしっかりと構えて撃つしかない以上、連射はできなかった。死角から出て仁王立ちで撃ち続けていれば、絶好の的になることはわかりきっている。弾幕の間隙をついて安全地帯を出る。闇の中に動く黒い影を瞬時に見極め、それ目がけて狙い撃つ。そして敵の反撃が始まる前――実際は始まったあとに必死で死角の中に逃げこむ。その繰り返しだった。
「くそ……」
だがそんな俺の攻撃は、どうやら敵にまったく被害を与えられていないようだ。
さっき前方の敵に対して俺たちがそうしたように、背後の敵は有利な位置を選んで奇襲をかけてきたものと見え、ここから狙うには相手の死角が大きすぎる。壁の角度からしてもう少し外に出ればうまく狙えそうだが、その前にこちらが蜂の巣になるのがオチだ。
何よりろくに本物の銃を撃ったことのない俺が、こんなまともに狙いもつかない撃ち方をしていて中るわけがない。
「ああ、くそ……!」
やらなければならないことはわかっている。この死線を突破できなければその先はない。今まさに始まったばかりの舞台は、それがいったい何だったのかもわからないまま早々に幕が降ろされる――俺のために。
そう、俺のために! 俺がこの舞台で自分の役をうまく演じられなかったばかりに!
「あ……」
何度目かに死角を出て銃を構えトリガーを引いたとき、俺はその「ばしゅっ」という音を聞いた。
……よく聞き慣れた弾切れの音だった。マガジンの中に詰まっていたBB弾がなくなったのだ。
俺のデザートイーグルは演劇用に改造してあるから、弾がなくなっても遊底が戻ったきりにはならない。だが当然もう弾は飛ばない、ただ銃口から虚しくガスが吐き出されるだけだ。
「――」
我に返ったとき、俺は銃弾の飛び交う中に立ち尽くしていた。
そしてまた自分がこの舞台から落ちかけていること――そのぎりぎりの瀬戸際に立っていることに気づいた。
すぐに立ち直らなければならない。そう思い……だが立ち直ることができなかった。降って湧いた現実の前に、俺はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
……弾切れ? なぜそんなことが起きる?
弾はいらないんじゃなかったのか? 弾が入っていないモデルガンで敵を撃ち殺すことができる、それがここのルールじゃなかったのか? それなのに、なんで……!
「……」
どうすればいいかわからなかった。自分がなぜここに立っているかさえわからなくなった。完全に落ちる寸前だ……そのことを理解し、俺はもう開き直るしかないと思った。
……そう、開き直るしかない。
舞台の上で台詞を忘れた役者にできることはただひとつ、開き直ることだけだ。そう思った瞬間、思いがけない考えが天啓のようにふっと頭に浮かんだ。
――弾? 弾とは何だ? それはいったい何だ?
「……」
俺の周りに飛び交っているこれはいったい何だ? 弾の入っていないモデルガンで人を撃ち殺すことができるなら、これはいったい何なんだ?
今ここでこれに中ったら俺も死ぬのか? こんな右も左もわからない世界で? 始まったばかりの――まさにたった今、始まったばかりのこの舞台の上で?
「……そうだ」
そこでようやく、俺はそれを悟った。
俺がここで死ぬはずがない。目が覚めたようにはっきりと、そのことに気づいた。
そうだ、俺が今ここで死ぬはずがない。なぜ今までそんな簡単なことに気づかなかったのだろう? 少し考えればわかることだ。こんなところで意味もなく俺が死ぬはずがない。
なぜなら、この舞台は今まさに始まったばかりなのだ!
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