222 カタストロフィ(6)
肉の塊がコンクリートの床に叩きつけられる鈍い音と、ほぼ同時にあがる甲高い銃声。
その銃声を聞きながら俺は踵を返し、女とは逆の方向に向かい駆け出した。
ほとんど闇雲に、元来た道を全力で駆け戻った。薄暗い通路に横たわる死体をひとつ、またひとつと視界の端に見送りながら。
不思議なほど、気持ちは落ち着いていた。あの女を殺すことが目的であればこうして遠のくのは目的に反する。けれども、これでいいのだと思った。あの女は俺を追ってくる――その確信があったからだ。
俺があの女を殺したくてならないように、あの女もまた俺を殺したくてならない。何となくそれがわかった。
その一点において、舞台は成立していた。……即興劇のプロットとしては実にわかりやすい。殺意という単純明快な情動を二人きりの登場人物が互いに向け合っているのだから。
そのことにもう一度苦笑いをし、早くもあがり始めた息を整えるため、少しだけ走る速度を緩めた。
後ろを振り返ることはしなかった。その代わり、わずかでもあの感覚が来たら即反応できる構えだけはとり続けた。
光の届かない通路を走りながら、無意識に下へと降りる階段を探していた。そこでふと、それこそがいま俺がなすべきことであることに気づいた。
この建物から外に出ること――あの女を殺すためにまずしなければならないのはそれだ。
あの女がこの建物の構造をどこまで把握しているかわからない。だが共同作戦の夜に見せた手際を思えば、少なくとも俺よりはずっとこの建物を
だとすれば、建物の中で戦うのはどう考えても得策ではない。外へ出ればイーブン――などと考えるほどおめでたくはないが、俺にとってアウェイ以外の何ものでもない屋内から外へと戦場を移すことは十分条件とはならなくとも、俺があの女を殺す上での必要条件ではあるはずだ。
雷鳴が大気を震わせ、また青白い明滅が来た。
この建物を出ることで得られるもうひとつの要素――それは雨だ。
濁流のような雨はまだその勢いを弱めることなく降り続いている。その雨の中に紛れてしまえば、足音も気配もすべて呑みこまれてしまうだろう。
砂漠の雨に飛びこむのはこれが初めてだが、土砂降り程度ならあの町で飽きるほど体験している。雨の中、DJとサバゲに興じたことも一度や二度ではない。
――おそらく、雨は俺の味方をしてくれる。そんな不確かな思いに応えるように、間近に落ちたものとみえる雷の大音声がストロボとほぼ同時に俺の鼓膜をつんざいた。
だが、逆に雨が味方するのは俺ばかりではないかも知れない。
砂漠では稀少な雨もあの女にとっては見慣れたもの、ということも十分に考えられる。歴戦の彼らがなす術もなく皆殺しにされた事実が、そのあたりの事情を物語っているような気もする。
あの女があれを一人でやったのだとすれば――状況証拠からしてまずそうに違いないのだが――あの女に有利な何らかのファクターが働いていたとみるべきかも知れない。それがこの雨ということも当然あり得る……階段を下りながらそう考え、それでも俺は振り返らず藍色の闇の中を先へ先へと進んだ。
「ぐぉ……」
だが瓦礫を踏みしめてエントランスを抜け、建物の外を目の当たりにしたとき、俺は間抜けにもそんな唸り声をあげていた。
予想もしなかった――と言うより、想像を絶する光景が目の前には広がっていた。
ビルの外は、一面の川だった。
……いや、川などという生易しいものではない。それはまさに大河だった。ビルとビルの合間に、もはや地面と呼べるものはどこにも見えない。自分が立つ場所はさながら大河に孤立する中洲で、赤茶けた濁流が奔逸する周囲の情景はいつか何かの映像で見た黄河を思わせる。
どこから流れてきたのだろう、コンテナや大小の木片のようなものが物凄い速さで流れ去ってゆく。
『砂漠だから天気予報が必要なのさ』
キリコさんが言っていたことの意味を、今まさに戦慄とともに理解した。
なるほど、砂漠にも洪水はある。そしてそれが人を容易に溺死させる類のものであることも、この光景を見れば一目瞭然だ。
――引き返そうかという考えが一瞬、頭をよぎった。
上半分が崩れ落ちた出口の外に、雨は文字通り息苦しさを覚えるほどの勢いで降り続けている。……有利も不利もない、こんな雨の中に飛び出していくのは余程の馬鹿か、頭がいかれたやつくらいだ。
……そんなことを思いながらも、身体は動いていた。ビルのぐるりを取り巻くわずかにせり出して軒のようになった部分の下を、壁を背に忍者のように横歩きに一歩ずつ進んだ。
生温かい水滴――と言うより質量のある水の塊が鼻先をかすめ、やがてそれは容赦なくシャツの中に入りこんでくる。ジーンズはすぐずぶ濡れて真っ黒になり、脚に張りついて歩くのもままならない。
やはりビルを出たのは失敗だったか……そう思い始めたところで、行く手におあつらえ向きの場所が目についた。壁の一部が崩れて穴倉のようになった空間の前に、崩れた壁の一部だろう、瓦礫が小山をなしている。穴倉は大きめの便所ほどの広さで、身を隠すには浅すぎるが少なくとも雨宿りはできそうだ。
とりあえずその場所に駆けこんでから、やはりそこがおあつらえ向きの場所であることを知った。ここまで横歩きしてきた細い道とこの穴倉との間に瓦礫が堆く積もっており、身を屈めれば瓦礫に隠れつつその細い道を狙い撃ちできる。
あの女がのこのこ出てくるとも思えない。……思えないが、可能性はゼロではない。
顔を上に向け、雨の中に無防備な頭を突き出す――上方からの狙撃はない。窓が空いていないのだから、いつかの誰かのように上から降ってくるのは不可能だ。
目の前には河、背中には壁。……なるほど、いきおいで飛びこんでみたにしては、なかなか出来のいい蛸壺だったようだ。
「……ふう」
小さく息を吐いて壁に背もたれ、俺は状況を整理することにした。
ビルを出て雨の中をここまで来たこと――おそらくだが、これは正しい選択だった。
あのままビルの中に対峙を続けていれば、遅かれ早かれ俺は撃たれていた。
自分の能力を過信する気はない。《訓練》で身についたあの感覚があるとはいえ、ろくに実戦経験のない俺はずぶの素人。反対に相手は曲がりなりにもプロの軍人である。まして俺にとっては迷宮に近いあのビルの中でまともな勝負ができると思う方がおかしい。だから建物の外に出たこと、これは正しかったと考えていいだろう。
あの女を見捨ててビルをあとにしたこと――これも多分、間違った選択ではない。
あの女の狙いが俺にあるのだとしたら、どこにいようともいずれ俺の前に姿を現す。逆に狙いが俺になかったのだとしたら、俺がやっているこれが文字通り一人芝居に終わるというだけの話だ。
「……」
そこまで考えて、思い出したように汗が噴き出してきた。
砂にまみれた顔から身体から、全身の毛穴が一斉にひらいたように、大量の汗が身体中を流れ落ちてゆく。
生ぬるい洪水のようなその汗が、衰える兆しもみせないこの雨のようだと思った。身体に降りかかった雨と汗とは混じり合い、不快な奔流となって全身を流れ落ちてゆく。
急ぐ必要はない――ビルの合間に
……そう、何も急ぐ必要はない。あの女を殺せばこの舞台は終わる。
その先にはもう何もない。わずかに残っていた希望は、あの女がきれいに片づけてくれた。キリコさんの計画は完全に
あとはあの女を殺せばいい。あの女を殺せば、それですべてまるく収まる。
「……」
そこでふと、ひとつの疑問が今さらのようにぽっかりと意識に顔を出した。
俺はなぜあの女を殺したいのだろう?
あのとき俺の中に生まれた殺意は、今もこの胸にある。あの女の影がわずかでも視界に入れば俺はすぐさま行動をとり、あらゆる手を尽くして殺しにかかる。
そのことに間違いはない。生まれてこの方、誰かに対して殺意を持ったことなどこれが初めてだが、自分の中にあるものがそれであることは疑いようもない。
たとえどんな手を使ってでも、俺はあの女を殺したい。何と引き換えにしてでも、地べたを這いずりまわってでも。
だが、それはなぜか――
「……」
あの女に殺された彼らの敵を討つため……思い当たる節があるとすればそのあたりだが、なにぶん妥当性に欠ける。
俺が彼らと過ごした時間などたかが知れている。リカやカラスとは長い付き合いだが、その『死』に俺が何かを感じたのはあいつらではなく、あくまで彼らだ。そして彼らは俺にとって、ラビットという例外を除けば誰とも接点を持っていない、ほとんど赤の他人に等しい。
そんな赤の他人の敵討ちのために命を張れるほど俺はお人好しではないし、熱い魂の持ち主でもない。つまり、俺は彼らの敵を討つためにあの女を殺そうとしているのではない……そう考えていいだろう。
だがそうなると、俺がなぜこれほどまでにあの女を殺したいのか、いよいよそれがわからなくなってくる。
「……」
疑問はもうひとつある。そもそもあの女を殺すことに何の意味があるのだろう?
俺があの女を殺したところで、壊滅した部隊は元に戻らない。キリコさんの計画は完全に崩れた。その計画にどうにか望みをつなぐために再度乗り込んできたこの俺の存在理由とともに。
考えてみれば――いや考えるまでもなく、俺が演じているこの役にもう意味などない。
掌握すべき隊はなくなり、演ずるべき目的は消え失せた。えせ預言者は導くべき民衆を失い、預言通り割れた海を前に一人立ち尽くしている。
理由のわからない殺意を抱え、ようやく掴んだはずの役にも見放され、あとからあとから降りしきる雨を眺めながら途方に暮れている。
俺の置かれた立場を客観的に見れば、そういうことになるだろう。
「……」
そうして、俺はまた根源的な疑問に立ち返る。もう何度繰り返したかわからない、ある種のお約束にさえなりつつある疑問。
ここはいったい何なのだろう。俺が立っているこの場所はどこで、何のために俺はこの場所に立っているのだろう。
……ふと気を抜くと心に舞い戻ってくる、決して答えにたどり着かない疑問。シュルレアリスムのアートにも似た砂漠の驟雨を眺めながら、俺はまたその疑問に捕らわれることになった。
……今はただ、どこにいるかさえわからずに立っている。
自分がこの場所に存在する理由――というより自分という存在がどういったものだったかということさえ、赤茶けた濁流にのまれ、消え失せていくようだ。
「……」
――もう一人の俺もそうだったのだろうか。ふとそんなことを思った。
この雨を預言するだけ預言し去っていった彼も、やはり今の俺が抱いているのと同じような疑問を抱え、このわけのわからない場所に立っていたのだろうか。
「――あ」
そこまで考えて、不意に自分の中にある殺意の理由に思い当たった。
それは、もう一人の俺の殺意だった。
それならば辻褄は合う。もう一人の俺ならば、仲間である彼らを殺されたことであの女に殺意を抱くのは当然だ。
そしてこの俺が演じていたのは、他ならぬもう一人の俺だったのだ。
壊滅した隊を目の当たりにするまで、俺はもう一人の俺としてあの場所に立ち、もう一人の俺を演じきろうと、ただそれだけを考えていた。
だから俺は彼らの死に憤った。彼らを殺したあの女を殺したいと心から願った。
それは実に自然で単純な構図だった。もう一人の俺を演じていたから、俺はあの女に殺意を
「……へへっ」
思わず間抜けな息が漏れた。それからしばらく、ひとり忍び笑いをした。
なんだ、俺はちゃんと
……そんな思いが、場違いな忍び笑いの理由だった。もはや演じることに何の意味もなくなったその役を、けれども俺はあのとき、確かに演じていた。自分でもそれと気づかないうちに、正しく演じることができていた。
そのことを思い、俺は素直に感動を覚えた。決して小さくない、それは感動だった。
もちろん、今はもう落ちている。こんなことを思って悦に入っている時点で、演じるべきもう一人の俺からは大きく乖離している。
だがそれでも、もう一人の俺の殺意は消えなかった。誰もいない廃墟にひとり空しく含み笑いしながらも、あの女を殺したいという思いだけはじりじりと胸の奥を焦がし続けていた。
……これでいいのだ、と思った。すべてが壊れてしまったあと、最後に残ったものがこの配役だというのならば、俺はこの配役にすがりついてもう一人の俺を演じきる。
もう一人の俺として、あの女だけは必ず殺す。
収まるべきものが収まるべきところに収まった。そう思った。
ほとんど無意識に身をかがめた俺の頭上を、一発の弾丸がかすめていったのはその
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