223 カタストロフィ(7)
「……そっちかよ!」
地面に身を伏せ、ぎこちなく反撃を試みながら、思わずそんな言葉が口をついて出た。
銃弾は対岸から来た。もはやどれほどの深さがあるかわからない目の前の濁流を隔てた、向かいのビルから狙撃されたのだ。
どこぞの百貨店ではあるまいし、連絡用の通路などというものがあるはずもない。あの女はこの雨の中、何らかの方法であちらのビルに移り、俺の虚を突いて攻撃してきたということになる。
……早々にビルを出た自分の判断が正しかったことを今、確信した。あのままビルの中で手をこまねいていたら五分と待たず俺の身体は穴だらけにされていたことだろう。
「……っ!」
そうしてすぐ、おあつらえ向きの蛸壺だと決めてかかっていた場所がその実、対岸からの銃撃にはまったくの無防備だということを思い知らされることになる。ちょうどドアのない便所の中にいて真向かいから撃ちかけられているようなものだ。
地面に這いつくばってどうにか銃弾をやり過ごしながら、どちらへ進むべきか必死に頭を働かせた。引き返すのは簡単だが、川向こうからは丸見えな上に狙いもつけやすい。あの女にしてみればそのへんを見越して対岸にまわったのかも知れない。
引き返さないのならば先に進むしかないが、そうすることで一層不利な状況に追い込まれることも考えられる。……それに、そうだ。もし俺がこの蛸壷に飛び込んだことさえあの女の描いた構図通りだったとしたら――
「……っくそ!」
それでも先に進むしかなかった。ほとんど腹這いになっていても身体をかすめてゆく弾丸の数はひとつやふたつではなく、このままここに留まっていては死を待つだけだ。
何より、これではあの女を殺せない。こんなところで防戦にかまけていては、あの女の身体に風穴を空けてやることはできない。
そう思って俺は覚悟を決め、大きく息を吸いこんだ。濁流が打ち寄せるビルのぐるりを、腹這いのまま全力でゴキブリのように駆け抜けた。
「……っくそ!」
弾丸が音を立てて身体をかすめてゆく。もとより恐怖など感じてはいないが、命中して芝居が終わる事態だけは何としても避けなければならない。
俺が死ねばこの舞台は終わるのだ。こんなところで無様に撃ち殺されて終わりでは締まりも何もあったものではない。何としてもあの女の身体に弾丸を撃ち込まなければならない。このふざけきった舞台に緞帳が降ろされる前に、何としても。
ほとんど転がり込むようにしてビルの角を曲がった。そしてすぐ壁に張り付き、銃を持つ腕だけを伸ばして反撃の口火を切った。
いつ装弾しているのかわからないほどひっきりなしだった女からの銃撃が一瞬途絶えた。もちろんそれで仕留めたなどと考えたわけではないが、とりあえず息を
「……」
――ここも決していい場所ではない。勢いこんで飛び込んだそこを見回して、俺はそう思った。
対岸から完全に身を隠せるわけではないし、足場も悪い。何より先が無い。ビルの根元に生き残った通路は角を曲がってすぐの所で水没しており、その先は周りと同じで完全に川になっている。
つまり、この先へはもう進めない。自分が今いるのは文字通りのどん詰まりで、もうどこにも逃げ場所はない。
「……」
だがそれでもさっきの蛸壷よりはましだった。対岸のビルはちょうどこの角と同じ所までで、その先はやはり洪水にのまれている。
あの女の姿が確認できない以上どこから撃ってきているのかわからないが、ここに撃ち込みたければかなりシビアな位置取りが要求されるはずだ。
実際、俺がここに飛び込んでから相手方の銃撃が目に見えて減った。あるいはあの女の方でも俺の位置を特定できていないのかも知れない。……もしそうだとすれば、状況はそれほど悪くないということになる。
「……」
ただ、この場所に留まってあの女を撃ち殺すとなると、それはそれでかなり難しい仕事になる。
向こうからこちらを狙いにくくなった反面、こちらからも向こうが狙いにくくなったのは否めない。お互い死角に入りこんで手探りに撃ち合っているようなもので、この状況が固定されてしまえば膠着状態に陥るのは避けられない。
「……」
――それでも、ここに踏みとどまってやり合うしかなかった。
銃声をかき消すほどの猛烈な雨はそのまま。雷鳴はこの世の終わりを告げるように鳴り響き続けている。ここまでの筋はどうあれ、演出だけ見ればようやく芝居らしくなってきたと言える。
……そう、思えばこの脈絡のない舞台もやっとそれらしくなってきた。この
「……」
ただ、やはりそれは不毛な撃ち合いだった。こんな適当に撃っていて
対岸も状況は変わらないのだろう。あちらからの銃撃もめっきりまばらになり、やがてそれはときどき思い出したように撃ち合うといった感じの、気の抜けたものになり果てた。
相手の居場所を探りながらだましだまし撃ち合うそれは銃撃戦と言うよりかくれんぼか何かに近い。あるいは他の客が帰ってしまったのを知らずに惰性で踊り続けているダンスパーティーだろうか。
そんな役者たちのテンションとは裏腹に気を吐く雷雨の
映画のセットですら裸足で逃げ出す豪奢なお膳立てにこの演技ではもったいないし、役者として心底情けなく感じる。けれども差し当たり撃ち殺されないためには、ここに踏みとどまってどうにかするしかない。
「……」
そして予想通りと言うべきか、撃ち合いは膠着状態に陥った。決め手がないまま退くことも進むこともできず、穴蔵にこもるようにして惰性でトリガーを引き続けている。
そんな不毛で気の抜けた銃撃戦を続けながら、いつかもこうしてビルとビルの狭間に身をすくませて似たようなことをしていたな、と思った。
そう……あの夜だ。DJを捕縛すべく臨んだあの作戦の夜、同じく《蟻》に扮したもう一人の俺を相手に、俺はちょうど今と同じようなことをやっていた。
「……」
あのときもまるでこんな感じだった。雨こそ降っていなかったがビルの谷間を駆け回った挙げ句、ちょうどこんな場所にはまりこんで身動きがとれなくなった。あのとき、俺はどうやってあそこから抜け出したのだろう……?
ぼんやりとそんなことを考え、不意に今朝の夢で目にした彼女の顔が脳裏に蘇った。
彼女だ。クララ――ではなくベロニカと名乗った彼女の介入があったから、千日手になりかけていたあの状況から俺は抜け出すことができたのだ。
「……」
もっとも、彼女の出現で膠着状態を脱したのは確かだが、事態が好転したわけではなかった。実際、俺はそのあと彼女の凶刃から死ぬ思いで逃げ回るはめになったわけで、そのときのことを思い出すと今でも鳥肌が立つ。
……ただそれでも、あれで事態を打開できたという事実に変わりはない。彼女という外因によって俺たちはあの穴蔵を抜け、物語を先へ進めることができた。
今、あのときと同じような膠着状態に陥っているのであれば、状況を打開するためにはやはり何らかの外因が必要なのではないか? ――それが事態を好転させるものであると、あるいはその逆であるとを問わず。
その外因がもたらされなければ、俺たちはいつまでもこの馴れ合いにも似たしょっぱい撃ち合いを続けるだけなのではないか――
「……?」
だがほどなくして、その外因は予想外の形でもたらされることになった。
最初の変化は銃撃の際に足を踏み替えづらくなったことだった。足下に目をやるとブーツが半分まで水に浸かっていた。あたりを見回す――そこには水しかなかった。
そうして俺は、いつの間にか洪水のただ中に立っている自分に気づいた。
「……」
降りしきる雨に濁流が水かさを増し、俺のいるその場所を呑み込もうとしているのだ。
相変わらず気の抜けた撃ち合いを続けながら、その外因が自分にもたらすものについて考えた。
……考えるまでもなかった。俺はすぐにでもここから離脱しなければならない。だが、どこへ?
元々水に浸かっていた道の先は濁流に呑まれ、もうどこにあるかさえわからない。戻るとすればあの蛸壷だが、そもそもそこに問題があったからこの場所へ移ってきたのであり、戻れば状況はまたさっきのそれに戻ってしまう。
いや、新しくもたらされた外因を考えると、状況はむしろさっきよりも悪くなる。わざわざ確認するまでもなく、足場の高さはここもあそこも似たようなものなのだ。
「……」
それならばいっそのことここに居続けても同じではないかという思いが頭を過ぎった。そんな思いに流されて――と言うより思考停止のまま、ほとんど川となったその場所に俺は踏みとどまった。
時を追うごとに水かさが増してきているのがわかった。やがて膝まで水に浸かり、足を踏み替えることさえ難しくなった後も、俺はまだその場から動けずにいた。
「……駄目だな」
思わずそんな呟きが漏れた。
完全に詰んだ――そう思わざるをえなかった。退けば蜂の巣、進めば入水、進まなくても水の中。
天の底が抜けたような雨はあとからあとから降り続いており、水かさが更に増してゆくことは疑うべくもない。撃ち殺されて終わりならまだしも、砂漠の洪水に呑まれて水死というのは、いくら滅茶苦茶な即興劇といえどもありえない。
そんな結末では俺自身が納得できない。なにより楽屋に戻って仲間たちに合わせる顔がない。
「……はっ、はは」
思わず力のない笑いがこぼれ落ちた。
この期に及んで俺は何を考えているのだろう。舞台が跳ねたあとのこと? 楽屋に戻ったときどんな顔で仲間たちと会えばいいか?
それこそありえない。この目の前の凄まじい光景を眺めていれば嫌でもそれがわかる。
この三文芝居に片が付いたとして、それで何事もなかったように俺があの町に戻る――そんなことがあるはずもない。
実際にここで死んだ場合、何がどうなるのかなど俺の知ったことではない。だが少なくとも、何事もなかったかのようにあの町に戻るなどという御都合主義の展開を信じられるほど、俺は素直な人間ではない。
「……」
――そういえばアイネはどうなったのだろう。
もはや何をやっているのかわからなくなってきた自分の状況を棚に上げて、俺はふとアイネのことを考えた。
アジトに転がっていた死体の中に、あいつのそれはなかった……俺が確認したものの中にそれらしいものは見当たらなかった。
アイネはまだこの舞台に立っている――そう思っていいのだろうか。
もしそうだとすればあいつは今、どこにいるのだろう。おそらく俺と同じように生まれて初めて見るに違いないこんな雨の中、あいつは今どこで何をしているのだろう――
「……」
アイネばかりではない。DJこそどこで何をやっているのだろう。
あの夜の作戦で捕らわれ、よくわからない流れで俺と絡んで、最後に逃げ出したきり姿を見せない。
同じ舞台に立てるとは夢にも思わなかったから、俺はあいつと
「……」
ペーターもいない。彼女に至っては影も形も見えないばかりか、名前すら出てこない。
ヒステリカでの初舞台だというのに、あいつが物語に絡まないなどということがあっていいのだろうか? そんな不条理が許されて、本当にいいのだろうか?
――それもこれもみんな隊長のせいだ。
そう、みんな隊長のせいだ。こんな特殊極まる舞台だというのに、隊長がろくに説明もせず俺たちの前からいなくなってしまったのがそもそもの原因だ。
そんな愚痴を言ってもはじまらないことはわかっている。だが、この舞台のどこかでまだ役に立っているかも知れない仲間たちのことを思うと、胸の奥に小さなざわめきを覚える。
アイネもDJもペーターも隊長も、共に舞台をつくっているはずの仲間たちがどこで何をしているのか、俺にはまるでわからない。
そもそもこれは何だ? 俺が目にしているこれは本当に舞台なのか?
俺こそ何をしているのだろう? こんなわけのわからない場所で、いったい俺はどんな演技をしているのだろう――
「――」
そう思ったとき、自然と身体が動いていた。
ほとんどつんのめるようにしてビルの角を飛び出し、蛸壷までの狭い道を駆け抜けた。
不意をつくことができたのだろう。対岸からの銃撃が一瞬途絶えた。それが再び前以上の激しさを回復したとき、俺は既に蛸壷に飛び込んでいた。
洪水はまだ蛸壷の中にまで押し寄せてはいなかった。俺は腹這いになって瓦礫の山ににじりより、標的となるものの影を荒れ狂う流れの対岸に探した。
「……いた」
大きく崩れ落ちたコンクリートの裏に動くものを見つけ、続けざまに弾丸を撃ち込んだ。
反応はなかった。滝のような雨のためにその姿もはっきりとは認められない。だが攻撃の手が一瞬止むことで、狙撃する対象を
身体が動いた訳――危険を冒してこの蛸壷に舞い戻った理由は考えるまでもない。
仲間たちのことはどうでもいい。俺は俺で、自分の演技をしなければならない。……そのことに気づいたからだ。
このわけのわからない舞台で俺に残された最後の存在理由。あの女を殺すために、俺は今ここに立っているのだ。
「……」
……そう、俺にはもうそれ以外、何も残されていない。
物語は進まない。この舞台はもうどこにも辿り着かない。
そんなぼろぼろの舞台で右往左往していた俺に最後の最後で与えられた明確な配役――俺にはもうその役しかない。
空が落ちてこようが世界が崩れようが、俺はその役にすがりついて最後まで演じきるしかないのだ。
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