224 カタストロフィ(8)
けれども腹這いのまま
水かさが増したことで俺はその選択を余儀なくされたわけだが、やはり向こうも事情は同じだったようで、瓦礫越しに垣間見る対岸の足下にはちょうどさっきまで俺がいた場所と同じように、赤茶けた水が押し寄せているのがわかる。
それが理由で、ということになるのだろうか。いくら腹這いになっているとはいえ、あちらからは丸見えに近いはずのここに、有効な弾丸は飛び込んでこない。
足場の関係でここが死角となっているのかも知れない。もしそうだとすれば、この窮屈な姿勢で撃ち合いを続けるのは決して悪い選択ではない。
「……」
しばらく撃ち合うことでその仮説は裏付けられた。
女は半壊したビル壁の裏に身を隠し、そこから顔を覗かせてはこちらに撃ちかけてくる。そこは既に水の中で、ビル壁は川の流れの中に立っているように見える。
裏がどうなっているかは定かではないが、
客観的にみて、あそこがこの蛸壷より有利な位置だとは一概に言いきれない。五分五分か、あるいは水に呑まれていない分だけまだこちらの方が有利なのかも知れない。
「……」
――そう、あの場所は既に水の中にある。周囲の水が踏み出せない深さだとすれば、あの女はもうあの場所から動けない。
水かさはまだ増している。あのまま壁の裏に留まっていても状況は悪くなるばかりだ。それでもあの女が動かずにいるのは水の深さか、あるいは何か別に理由があってのことだろうか……。
「……」
だがそこまで考えて、自分の状況も似たようなものであることに気づいた。立ち上がれば撃たれる。だからいつまでもこうして亀のように這いつくばっているしかない。
つまり俺はここから動けないばかりか、周囲を見渡すために頭をあげることすらできない。そう考えれば状況は五分ではなく、依然として俺の方が不利ということになる。
「……」
――否、考えるまでもなく俺の方が不利だ。腹這いの姿勢から動けない以上、単調に増加し続けている水かさというファクターが効いてくる。
あの女の足下がどうなっているかいざ知らず水がきても多少は動けるだろうが、俺の方はアウトだ。地面すれすれに顔があるのだから、洪水がここまで押し寄せてきたら溺死するしかない。
猶予はない。ここでまた膠着状態に陥ったら、それは俺の緩慢な敗北――というよりむしろ積極的に『死』を意味する。そのことに間違いはない。
「……」
だが予想通りと言うべきか、しばらくもしないうちに戦況は膠着状態に陥った。お互い有効に狙いをつけられないまま、形ばかり撃ち合っているのだからどうしてもそうなる。
激しさを増す天変地異と、一向に盛り上がらない殺し合い――クライマックスとアンチクライマックスの対立構造は変わらない。
演じている身としては微妙だが、観客の目にはこうした構造が興味深く映っているのだろうか。そんなことを考え、本来舞台裏からここを見つめているはずの、無責任な
「……くそ」
恐れていたように水がきたのだ。まだ俺がいる場所まではきていない。だが一段下がった道の脇に打ち寄せる波の有り様を見れば、それがここに及ぶのが時間の問題だということがわかる。
腹這いのまま泥水をすするようになるまでに五分、頭が水に潜るまでに十分……まだ時間はある。けれども、そう長く残されているわけではない。
「……」
そうして俺はまた行動の選択を迫られることになった。
もっとも、今回はそう多くの選択肢があるわけではない。ここから『動く』か『溺死する』か、そのふたつにひとつだ。
『動く』を選択した場合の道もふたつにひとつ。『前に進む』か『退く』か。
退き、水没した蛸壷に戻って意味があるとは思えない。そうなると溺死を避けるために俺が取り得る行動は、ここから動いて前に進むしかないということになる。
「……」
ビルのエントランスに続く狭い道を見た。
洪水の影響はそこにも及んでおり、半ば水没し、ほとんど通路としての
この
……だが、気が進まなかった。ビルに到達する前に撃たれる可能性が高いし、何よりそうすることであの女に背を向けることになる。
「……」
明らかに水かさが増してきているのを他人事のように感じながら、結局それが全てなのだと思った。
俺が今ここにいるのは生き残るためではない。あの女を殺すためだ。
そのためにはここに留まって戦うしかない。その選択が戦略的に正しいのかわからない。ただ演劇として考えたとき、俺がこの場から逃げ出すことは、少なくとも俺のセンスではありえない――
「……」
だがそう考える一方で、水がそこまで迫っていることは紛れもない事実だった。
ここから動かないのであれば溺死を避けるためにどのみち立ち上がるしかない。だが、それが自殺行為であることは確認するまでもない。弾は今も俺の頭すれすれを飛び交っているのだし、立ち上がろうとした瞬間が俺の最期となるのは火を見るより明らかだ。
ここであっけなく撃ち殺されるくらいなら溺死した方がいい。だがこのまま手をこまねいていて溺れ死ぬのなら立ち上がって撃たれるのと何も変わらない。
これが演劇であることを忘れてはならない。溺れ死ぬなら溺れ死ぬで、そこに確たる意義がなければならない。そう、どうせ溺れるのであれば――
「……いや」
ふと、ひとつの考えが天啓のように浮かび、けれども俺は反射的にそれを頭から消そうとした。
……恐ろしい考えだった。この状況を打破するために俺が
「……無いだろ。いくらなんでも」
どうせ溺れるなら俺はこの濁流の中に飛び込む。
危険な――と言うよりほとんど狂気の沙汰だった。半端な流れではない。今も巨大なコンテナと思しきものが猛スピードで目の前を通過していった。
ここに飛び込もうというのだから我ながらどうかしている。だがどこからやってきたのかわからないその滅茶苦茶な考えが、いつまで経っても頭から離れない。
「……」
――もっとも、有効な策ではある。
こうして無意味な銃撃戦を続けなければならない理由は、俺とあの女の相対的な位置関係にある。お互いの距離がもう少しだけ縮まれば、状況は全く違ってくる。2メートル――いや、1メートルでいい。あとそれだけ縮まれば、俺の方では十分に狙いがつけられるという確信がある。
それは相手にとっても同じことかも知れない。だがあの女もまさか俺がこの水に飛び込むとは思わないだろう。意表をついた行動が戦術的奇襲となる可能性はある。だから、俺がそうすることには意味がある。
……そう、有効ではある。確かにそれは有効な作戦ではある。
「……けど、マジでやるのか?」
思わず弱々しい呟きが漏れた。眼前に猛り狂う濁流を眺めていれば、そんな弱音を吐きたくもなる。
一歩前に出れば狙いがつくにしても、この河に飛び込んで撃つことなどできるのか? トリガーを引く前に流されるのがおちなのではないか?
そもそもそれはここで立ち上がって撃たれるよりも確実な自殺行為――と言うより普通に入水自殺なのではないか……。
「……」
そんなことを考えているうちに――なぜだろう、俺はだんだんと腹が立ってきた。そうしてすぐ、それが煮え切らない現状への苛立ちであることに気づいた。
実際、こうして腹這いで悩んでいる間も俺たちはしみったれた撃ち合いを続けていた。砂漠に突如としてもたらされた雷雨と洪水。これだけ劇的なお膳立てをしてもらったというのに茶番もいいところだ。
――決行すれば少なくともこんな腑抜けた掛け合いを続けなくともよくなる。ほとんどその思いだけで、俺はその気狂いじみた作戦の実行を心に決めた。
「……って言ってもなあ」
だがやると決めたところで、実際に行動に移すとなると簡単ではなかった。
俺が腹這いで伏せっている場所の目の前には小さな瓦礫の山がある。それが対岸の銃撃から俺を守ってくれていたわけだが、河に飛び込むとなるとその瓦礫の山を越えていかなければならない。
脇を通り抜けられないこともないのだが、一瞬は相手に無防備な姿を晒すことになる。這っていくのではそれほど素早く動けない。上から越えるという選択肢もあるが、それはどう考えても標的になりにいくようなものだ。
「……」
無気力な撃ち合いを続けながら、慎重にチャンスを窺った。水はもう顔の近くまで迫っていたが、それももう気にならなかった。
不思議と気持ちは落ち着いていた。おそらく――と言うよりほぼ確実に次の行動でこの戦闘の勝敗が決まる。その事実が、却って俺を冷静にさせた。雷鳴のなかにひとつの音も聞き逃すまいと耳をそばだて、その時を待った。
だがそこで、俺は奇妙なことに気がついた。
「……なんだ?」
――雷鳴の瞬間、対岸からの銃撃がやむことに気づいたのだ。
稲光に遅れて、雷の音が鳴るときに銃声が途絶える。もちろんほんの束の間、だがはっきりと空白の時間ができる。そのことに俺は気づいた。
……最初は気のせいだと思った。けれども間断なく鳴り響く轟音のたびにそれが起こるのを認めて、決して気のせいではないことを俺は確信した。
次に思ったのは、罠かも知れないということだった。その事実に気がついた俺が、雷鳴に合わせて飛び出してくるのを、あの女は待ち受けている――
……罠にしてはお粗末だった。とてもプロの軍人がはるべき罠とは思えない。それを言うなら雷鳴のたびに動きが止まるというのも不可解なのだが、事実、そうなっているのは疑いないようだ。
「……よし」
考えが煮詰まる前に、俺は覚悟を決めた。
勝機があるとすれば一瞬だった。腹這いのまま尺取り虫のように身体を縮め、いつでも飛び出せる体勢をとった。
雷光ではなく雷鳴なのがせめてもの救いだった。雷光を基準にすれば雷鳴がくるタイミングをある程度予想できる。よほど近くに落ちているのだろう、若干の誤差はあるが、雷鳴はほぼ雷光の直後にわずかな時間をあけて来る。一秒はあかないことが多い。だが、二秒ほどあくときもある。
だから、正確にはわからない。雷がどこに落ちるかは神のみぞ知るわけだからそれは仕方ない。いずれにせよ雷光をトリガーとする飛び出しのタイミングは俺にとってギャンブルになる。
そう思って、俺はもう考えるのをやめた。尻だけ突き出した腹這いのまま、全神経を集中してその時を待った。
「――っ!」
幾度めかの雷鳴。その後にきたひときわ激しい閃光と同時に俺は飛び出した。
果たして、何かが爆発するような雷鳴がそれに重なった。河に飛び込んですぐ、俺は足がつくことに気づいた。腰まで水に浸かりはするが、足はつく。
濁流の底を踏みしめて対岸に向き直った。壁から半分身体を出した《蟻》のゴーグルがこちらに向けられるのと、俺がトリガーを引くのが同時だった。
「きゃ――」
短い女の悲鳴がそれに続いた。反撃はなく、黒い襤褸がその場に倒れ伏すのが見えた。
――なんか、聞き覚えのある声だな。
濁流の中にある自分の状況も忘れて、俺はそんな感想を持った。
どこかで聞いたことがある――いや、毎日のように耳にしていた声。
それに気がついたとき、俺は真っ直ぐに対岸を目指していた。
ほとんど泳ぐようにして濁流を掻き分け、
「アイネ!」
黒い襤褸を無造作にまくりあげた、その下にはアイネがいた。
裸だった。たった今、俺が穿ちこんだ
雷光が辺りを照らす度、白いアイネの身体と赤い血のコントラストが明らかになった。命に関わる創であることは、流れ出る血の量でわかった。
どうすればいいのか――何を思えばいいのかわからなかった。俺はただぎこちなくその身体を抱きかかえ、何もできず固まった。
アイネの右手は俺の左手にそっと添えられていた。その手が、俺の手を掴んだ。
「……アイネ! アイネ!」
必死になって呼びかけた。ぼんやりと虚ろな目を半分開いたまま、アイネは事切れようとしていた。
俺の手を掴む手に力が入った。口元が小さく動いた。
彼女が何かを伝えようとしているのだとわかった。俺はもう矢も盾もたまらず、弱々しく震えるその口元に耳を近づけた。
「……ハイジ」
消え入るような声で、アイネは俺の名を呼んだ。
「俺ならここだ! アイネ、しっかりしろ!」
頭を離して大声で呼びかけ、それからまたアイネの口元に耳をつけた。ほとんど耳を唇に押し当てるように。
やがて、耳に触れる唇が動いた。
そしてさっきよりもなお小さな声で、もう一度、アイネはその名前を呼んだ。
「……ハイジを、返して」
我知らず頭をあげた。真上から見下ろすようにアイネの顔を見つめた。
うすく開かれた唇は、もう動かなかった。俺はただ虚ろに、その顔を見つめ続けた。
どれほどそうしていたのだろう。アイネはもう動かなかった。そのことを確認して、俺はアイネの裸にもう一度襤褸を纏わせた。
その場に死体を横たえるつもりで抱え上げ――だが自分の意思とは関係なく、俺はそれを濁流に投げ入れた。黒い襤褸に包まれたそれはすぐさま水に呑まれ、浮き沈みを繰り返しながら急速に流れ去っていった。
どこか遠くで雷鳴が鳴り響いていた。
立ち去ろうとして、けれどもしばらくの間、俺はその場から動くことができなかった。
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