225 カタストロフィ(9)
キリコさんの待つ部屋に戻ったときはもう黄昏だった。
降り止まない雨のなか道がわからず、ずいぶん長く彷徨っていた気がする。どこをどう回って帰り着くことができたのか、自分でもわからない。
部屋に入ってきた俺を認めて腰を浮かしかけるキリコさんを手で制して、俺はどっかりとその場に座り込んだ。そして全ての望みが絶たれたことを、短い言葉で事務的に彼女に伝えた。
反応はなかった。キリコさんはさして驚いた様子もなく、浮かしかけた腰をゆっくりとまた元に戻して、薄闇の部屋の隅に膝を抱えてまるくなった。
――雨は降り続いていた。だがもう往時の勢いはない。あれほど鳴り響いていた雷も、もう聞こえてはこない。あるいは、これで止む方向に向かっているということなのかも知れない。
突如として砂漠にもたらされた洪水は足早に去ろうとしている。その水は砂や瓦礫と一緒に、わずかに残されていた我々の希望をきれいに跡形もなく押し流してくれた。それから、アイネの死体も――
「……」
俺がアイネを殺した。その事実を、なぜか俺はそれほどの抵抗もなく受け入れた。
俺が偽物であることを知る唯一の存在であるアイネを、俺がこの手で殺した。皮肉な話だが、俺の出立前にキリコさんが示唆した通りの結果になったと言える。
ただ予定通りにいかなかったのは、掌握する部隊自体がなくなったこと――そして俺がアイネを殺したのは、それを知った後だったということだ。
キリコさんへの報告の中で、俺はあえてそのことを彼女に話さなかった。
俺が殺したいと願った相手は別にいた。アイネが《蟻》の格好をしていたことでその相手と取り違え、手にかけてしまった。……簡単に振り返ればそれだけのことだ。
アイネがなぜあんな格好をしていたのかわからない。そうでなければ、俺があいつを殺すことなどなかった。
……もっとも、アイネの方では俺を殺したがっていた。俺の腕の中で最期に呟いた言葉を思い返せば、あいつがなぜ俺を殺したかったのか、そのあたりも何となくわかる気がする。
アイネが俺を殺そうとしていたのは構わない。そうだったのならば望み通り殺されてやりたかったという思いは募るが、気にかかるのは彼女がなぜ《蟻》の扮装などして俺の前に現れたか、ということだ。
そこに俺はあの女――エツミ軍曹の影を見る。俺にはどうしても、あの女が裏で糸を引いていたように思えてならない。
束の間の演技で盛り上がった役の感情は宙ぶらりんのまま、殺意の残滓だけが心の底にくすぶっている。
もしこの筋をあの女が描いたのだとしたら、俺もアイネもただ踊らされていただけ、ということになる。……そう思えばなおのこと怒りは募る。あの女はどこへ消えたのか。何の理由あって部隊を壊滅させ、何のために俺たちをあの嵐の中で殺し合わせたのか――
だが少しもしないうちにその怒りも立ち消えになる。……全ては俺の憶測に過ぎないからだ。
アイネの件にあの女が噛んでいることは、何の根拠もない俺の憶測に過ぎない。そもそも部隊を壊滅させたのはあの女なのか、それとも他の誰かの仕業なのか、それさえはっきりしない。
確かなことがあるとすれば結果として部隊は全滅したこと――そして、その一名であるアイネは俺がこの手で殺したこと――それだけだ。
俺がアイネを殺した。
その事実に、俺の心は全く動かなかった。悲しみもなければ、罪悪感もない。逆に劇の物語上、当然のことをしたという気さえする。
……考えてみればそれが自然なのかも知れない。俺はあの場でもう一人の俺という役に立っていた。アイネがどんな役をもってあの場に立っていたのか今となっては知るよしもないが、俺たちはお互いの役をもって向き合い、お互いの役として殺し合った。
アイネの死をもって――正確には自分が撃ち合っていた相手がアイネであったことを知って――俺に与えられた役は解除された。芝居が終わっても作った役から抜け出せないほど、俺は大層な役者ではない。だからあいつを殺して平然としていられる今の俺は自然で、とりたてて疑問に思うことなどないのかも知れない。
……そう、俺の役は終わった。最後の最後でようやく与えられた役らしい役は、わずかに残った蝋燭が燃え尽きるようにこの舞台から喪われた。
見せ場がなかったわけではない。この世の終わりを思わせる砂漠の嵐と、夥しい死体。その中で繰り広げられる二人ぼっちの銃撃戦、そして予想外の結末。
……案外、悪い芝居ではなかったのかも知れない。銃撃戦のくだりを思えばもう少し何とかならなかったのかという悔いが残りこそするが、やるだけのことはやった。もう一人の俺という役に全力で取り組み、文字通り命懸けで演じきった。そのあたりは認めてもいいだろう。アイネを殺したことに何も感じないのも、俺が正しく役に没入できていた証拠ではないだろうか。
――このわけのわからない舞台で自分に与えられた役を、俺はどうにか正しく演じきることができた。もしそうであったならば、俺も少しは救われる。だがもしそうでなかったとしたら……そう思うと、全身がばらばらになるような深い疲労をどうすることもできない。
ともあれ、俺の舞台は終わった。幕が下りていないところをみるとまだ舞台は続いているのかも知れない。だがそれは俺のあずかり知らないところで、俺たちとは無関係に続いているということなのだろう。
……少なくとも俺にとって、この舞台は終わった。この舞台で俺が考えるべきことは、もう何もない。
そう……もう何も考える必要はない。そう思って俺は考えるのをやめた。頭の裏に手を組んで仰向けに寝そべり、口の中の砂を唾液と一緒に飲み下した。
「……」
ぼんやりと天井を眺めながら、雨の音を聞いた。
あれほど激しかった雨はもうかろうじて雨音が聞きとれるほどのものに変わっている。弱まってゆく雨と入れ替わるように、宵闇がその密度を増してきているようだ。普段にはない厚い雲の下、闇がいつもよりも濃く、重苦しいものに感じられる。
降り続いた雨に濡れそぼつ、冷たい闇。それがまた元通り乾ききったものになるのはいつのことだろう、とわけもなくそんなことを思ったところで、不意に狂ったような哄笑が暗闇に響いた。
「あはははは、あはははは――」
堰を切ったようなキリコさんの哄笑に、俺は驚かなかった。ただ寝転がるのをやめてあぐらをかき、暗闇の中に笑うキリコさんの姿を眺めた。
ひいひいと苦しげな息さえ漏らしながら、キリコさんは
「終わった終わった。ご苦労さんだったね、あんたも」
そう言ってキリコさんは部屋を出ていこうとした。俺は立ち上がり、何も言わずそのあとに従った。
稲光の途絶えた通路は完全な闇の中にあった。その闇の通路に、つかつかと早足で歩くキリコさんの靴音が響いた。俺はただそのあとに着いて歩いた。
「……着いてこなくていいよ」
歩調を緩めず、振り向きもせず、吐き捨てるようにキリコさんは言った。俺はその言葉を無視した。
階段を下り、また長い通路を抜けてエントランスに出た。
外はまだかすかに明るかった。雨は降り続いていた。だが一頃の勢いはなく、霧雨に近いものになっている。洪水はもう引いていた。汚泥にぬかるんだ道には、どこから流れてきたとも知れない空き缶や、紙片のようなものが埋もれているのが見えた。
その汚泥の道に、キリコさんは躊躇なく降り立った。俺もそれに従った。ぬかるみに足をとられそうになりながら、キリコさんのあとを追った。
「着いてこないでって言ってんだよ!」
絶叫が廃墟の薄闇をつんざいた。俺は足を止めなかった。
キリコさんは歩調を速め、ほとんど小走りに汚泥の道を進んでゆく。その後を追いながら、よくこのぬかるみの中をあんなスピードで歩けるものだと場違いにもそんなことを思った。俺の方では何度も転びそうになりながらどうにか彼女のあとを追った。
どこへ向かっているのかわからなかった。あるいは、キリコさんにも向かう宛などないのかも知れない。
やわらかに降り注ぐ霧雨は、歩き続ける俺の身体をずぶ濡れにした。濡れそぼつ眉をぬぐい、頬を伝い落ちてきた水を口に含んだ。
半壊したビルの向こう側、雲の切れ間から光がさしているのが見えた。
遠い地平の果てにさすその光は、我々の立つこの廃墟には届かない。もう見慣れた灰色のビルの群の上、黒々とした雲を裂いて漏れ出でた光の筋が、奇妙な感動をもって俺の胸に迫った。立ち止まっていつまでも眺めていたい、そんなことを思わせる光景だった。
だから前を行くキリコさんが突然立ち止まったとき、単純にそれを見るために足を止めたのだと思った。
「……」
キリコさんが立ち止まってすぐ、彼方の光の筋は消えた。それでもキリコさんはしばらくその場から動かなかった。
そこで初めて、俺は道の前方に一台の車が停まっていることに気づいた。
暗闇の中にはっきりとはわからないが、ジープのようだ。ちょうどあの作戦の夜に我々がここまで乗ってきたような――
そこでまたキリコさんは歩き出した。さっきまでとは違い、ゆったりとした足取りで。
車に近づくにつれ、地面に座りこむ黒い陰が目に入ってきた。充分近くに寄るまで何かわからなかったその陰は、マリオ博士のものだった。
⦅……やあ、キリコ。久し振りじゃないか⦆
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