226 カタストロフィ(10)
弱々しくかすれるマリオ博士の声に、キリコさんは応えなかった。
博士は泥塗れの地面に両脚を投げ出し、ジープのタイヤに背もたれていた。降り続く針のような雨が、その皺の多い顔を濡らしていた。
いつもの白衣ではなく、作業服のような浅黄色の上下。その上下には、腹部を覆うように赤黒い染みが広がっていた。
⦅……いい雨だ。さっきまでは少し
⦅……⦆
⦅こうしてやさしい雨にうたれていると故郷を思い出す。私も歳をとったかな。それとも――⦆
⦅珍しいじゃないか。あんたがここに来るなんて⦆
苦しげな博士の独白を見かねたように、穏やかな声でキリコさんは切り出した。その言葉に博士はうっすらと笑みを浮かべ、だがすぐに咽せて血を吐いた。そんな博士に歩み寄ることもせず、傍らに佇んだままキリコさんはなおも続けた。
⦅のこのこ出てきてその有様じゃ世話ないね。ご自慢のボディガードはどこいっちまったんだい?⦆
⦅……それなんだが、私にもわからないんだよキリコ⦆
⦅これまでさんざん尻尾振っといていざとなったらトンズラかい?⦆
⦅……それさえもわからない。逃げたか、死んだか。あるいは裏切ったか⦆
⦅で、一人寂しくこんなとこにドライブかい?⦆
⦅……いや、ドライブはこれからの予定だった⦆
⦅一人で?⦆
⦅……デートだよ。ここで待ち合わせということだったのだが⦆
⦅待ち合わせにやってきたのは彼女じゃなくて弾だった、っていうオチかい?⦆
⦅……まあそういうことさ⦆
⦅だったらあんたの腹にその弾を撃ち込んだのは――⦆
⦅そんなことはどうでもいい⦆
⦅……⦆
⦅そんなことはどうでもいいんだよ、キリコ⦆
今度はマリオ博士がキリコさんの言葉を遮った。弱々しく静かな、だがそれまでの饒舌とは変わって真剣な声だった。
そこではじめて、マリオ博士の目がこちらに向けられた。光の消えかけた眼差しが何かを探すようにあちこちと彷徨ってから、我々のいる場所とは違う一点を見つめた。
⦅……誰が私を撃ったのかわからない。だがそんなことはどうでもいいんだ⦆
⦅……⦆
⦅……見ての通り、私にはもうそれほど長い時間は残されていない。そこで、私のなかにあるものをキリコに渡したい⦆
⦅……⦆
⦅……キリコにとって有益な情報ばかりではない。その逆もあり得るだろう。だから選択はキリコに委ねたい。受け取ってくれるかどうか……⦆
⦅聞かせておくれ⦆
キリコさんの返事は早かった。その反応にマリオ博士はぎこちない笑みを浮かべ、また二度三度湿った咳をしてから、おもむろにその話を始めた。
⦅……キリコにはもうわかっているのだろう。私が《プロトタイプ》を起動した理由は、我々の研究所を破滅に追い込むためだった。ジャックが去ってからというもの、あの場所で意味のある研究はひとつも行われていない。誰かが幕を引く必要があった。だから、私がその役を果たそうと考えたのだ。
⦅……もちろん、綺麗事ばかりではない。私は『本部』の人間との間で密約を交わしていた。あの場所を破滅に追い込むことで、相応の見返りを受けるというものだ。裏は取ってあった。確証もあった。だが今にして思えば、私は踊らされていたのかも知れない。誰に踊らされていたかまではわからない。だが、それももうどうでもいい。私がキリコに伝えたいのはそのことではない。
⦅……私がキリコに伝えたいのは《黙示計画》についてだ。結論から言えば計画は外部に漏れていた。いや、もっと正確にはその全貌が外部に把握され、外部の手によって別のものに置き換えられていた。帰還した彼――ジ
⦅その指令とは我々の研究を壊滅させるためのものだ。研究所をではない、研究をだ。我々の研究を無かったことにするため、彼には幾つかの具体的な任務が与えられた。彼は、その任務を遂行するため『試験場』に戻された。……ジャックが把握していなかったはずはない。そして、少なくとも彼が主導した施術が、彼の意に反して不完全なものだったとは考えがたい。……そうなればどうしてもひとつの結論を導き出さざるを得ない。
⦅だがその結論について、この場で議論することはやめよう。『試験場』に戻された彼は、首尾よくその任務を遂行したようだ。君が教えてくれたとおりここの座標が洩れたのも、囚われの姫君がいつの間にか消えていたのも、彼の任務の通過線上にあったと考えていいだろう。私は私で『本部』との密約を果たすため、秘密裏に行動する中で、その事実を掴んだ。
⦅……正確にはつい今し方、キリコが姿を見せるほんの少し前に、私のなかにあった複数の点が線でつながった。君が現れてくれて幸運だったよキリコ。そして情報の受け取りに同意してくれたことに感謝する。もし君が現れなかったならば、あるいは君に情報を拒絶されていたならば、私は自分の中でようやく見いだしたものを、誰にも伝えることなく去っていかなければならなかったのだから⦆
⦅で、これから何が起きるんだい?⦆
穏やかなキリコさんの一言が、いつ果てるともないマリオ博士の言葉を遮った。
博士は一瞬、放心したように虚空を眺め、それから光のない目をこちらに向けた。無理に笑みを浮かべようとする口元がひきつり、細かく震えている。その皺の多い面差しに、針のような雨が降り続いている。
⦅……核だよ⦆
⦅核?⦆
⦅小規模な地下核実験が、あの研究所の直下で行われる⦆
⦅……⦆
⦅……時代の遺物のような古い型の核だ。遠国の地震計によって捉えられることもないだろうし、放射能が洩れることもない。なかなかのものだとは思わないか、キリコ。あの研究所を大地に葬る方法として、これ以上の手段は他に思い浮かばない⦆
⦅……⦆
⦅……準備は、おそらく今日明日にも完了する。阻止することは、もはや不可能だろう。我々の研究は灰燼に帰す。我々がここにいた証拠とともに。私が君に伝えたかったのはそれだけだ。……それだけだよ、キリコ。聞いてくれてどうもありがとう⦆
きれぎれの息の下、絞り出すようにマリオ博士は言った。
博士にしてみれば、もうそれで打ち止めのつもりだったのかも知れない。だが我が
⦅で、どうしてなんだい?⦆
⦅……ん?⦆
⦅どうしてまたそんなことをあたしに⦆
⦅……どうしてだろう。私にもわからないよ、キリコ⦆
⦅あんたらしくもないね。どうせまた対価として何かあたしにさせようってんじゃないのかい?⦆
⦅……私が君に何をさせようと?⦆
⦅そうだねえ。ま、考えつくところとしちゃ、その核だかなんだかの企てを阻止しろ、とかさ⦆
⦅……阻止するのは不可能だとさっき言ったばかりだろう。私が君に望むものがあるとすれば、その逆だよ、キリコ⦆
震える口元にもう一度笑みを浮かべ、どこか満足そうにマリオ博士は呟いた。仰ぎ見るように彼方に目を遣り、それから目の動きだけで背後のジープを顧みて、言った。
⦅……ここはもはやこれまでだ。キリコ、君はこの車で逃げたまえ⦆
⦅逃げる?⦆
⦅……そうだ。君は一刻も早くここから逃げなければならない⦆
⦅そう言われてもねえ。あたしにどこへ逃げろっていうんだい?⦆
⦅……そっちの彼にでも聞くといい。私はもうエスコートもできないものでね⦆
⦅……⦆
⦅……この期に及んで自分の気持ちを偽っても仕方ない。本音を言えば、我々が心血を注いできた研究が無かったことにされるのは、少々悔しくもあるんだよ⦆
⦅……⦆
⦅君に、どこかでまた我々の研究を続けてくれなどと言うつもりはない。だが君という人間が生き続けている限り、我々の研究が無かったことにはならない。……感傷主義者のたわごとと笑ってくれていい。これが掛け値のない私の本心だよ、キリコ⦆
マリオ博士はそう言って、もうどこを見ているかわからない目を閉じた。
その息はきれぎれというより、ちょうど寝入りばなの人の寝息がそうであるように、静かでゆっくりしたものに代わっている。……それが何を意味しているか、明らかだった。
耳を澄まさなければよく聞き取れないか細い声で、少年が気の置けない友だちに話しかけるようにマリオ博士は続けた。
⦅……君とはよく競い合ったものだな、キリコ⦆
⦅……⦆
⦅……あの頃は、楽しかったよ⦆
⦅……⦆
⦅……君は苦々しく思っていたかも知れないが、私は楽しかった⦆
⦅……あたしも楽しかったよ、マリオ⦆
⦅……そうか⦆
⦅あんたの言う通り、最初の方、まだここに来たばっかの頃はね⦆
⦅……⦆
⦅むきになってあんたと張り合ってたあの頃は楽しかった⦆
⦅……⦆
⦅ああ、あの頃は楽しかったねえ。あたしも楽しかったよ、マリオ――⦆
マリオ博士の心に応えるように、はにかんで思いのたけを伝える少女の声でキリコさんは返した。
けれどもその声が博士の耳に届いていたかはわからない。キリコさんの言葉に、マリオ博士は何も返さなかった。口元に穏やかな笑みを浮かべ、もう動かなかった。
やわらかな雨は降り続いていた。
どれほどそうしていただろう。事切れたマリオ博士を眺めていたキリコさんは、やがて思い出したように俺の方に振り向いて、言った。
「……おや、あんたいたのかい」
「いましたよ」
半ば呆れ気味の溜息にのせて、わざと素っ気ない調子で俺は返した。そんな言葉とは裏腹に、内心ではキリコさんが戻ってきたことに喜びを感じていた。
――そう、キリコさんは戻ってきた。たった一言で、俺にはそれがわかった。
俺の理解を裏付けるように、いかにも面倒という表情で頭の裏を掻きむしりながら、力の抜けきった気怠げな口調で「まだ有効かい?」とキリコさんは言った。
「何がですか?」
「契約だよ、契約。あんたが何でもあたしの言うこと聞くっていうあれだよ」
「……ああ、あれですか」
「その代わり、すべてが終わったらあたしがあんたのどんなアブノーマルな要求にも応えるってことだったっけね」
「なんか微妙に違ったような気もしますけど」
「で、どうなんだい? まだ有効なのかい?」
「……ええ、まあ」
「有効かどうか、って聞いてんだよあたしは」
「有効です、もちろん」
「なら、あんたに最後の命令を与える」
そうしてキリコさんはその最後の命令を俺に告げた。けれども告げられる前から、俺にはその命令の内容がわかっていた。
「これから研究所に戻って、マリオが言ってた核だかなんだかの企てを阻止する」
「はい」
「具体的に何すりゃいいかわからないし、行き当たりばったりになる。勝ち目はないよ、ほぼゼロだ」
「わかってます」
「
「だって、そういう契約だったじゃないですか」
「……」
「最初からそういう契約だったと思いますけど違いましたっけ?
久しぶりにキリコさんをその名前で呼んだ。劇が始まったばかりの頃は専らそう呼んでいた、その名前で。
キリコさんはぎょっとしたような顔で俺を見て、すぐに視線を外した。そうしてどこか苦しそうな表情を浮かべ、うつむき加減の目で誰もいない道の端を見つめながら、言った。
「……まったく、悪魔だねあたしは」
「悪魔?」
「あたしは悪魔だって言ったんだよ」
「悪魔と契約結んだのは俺ですから」
「え?」
「その悪魔と契約結んだのは、他の誰でもない俺自身ですから」
「そうかい……考えてみりゃそうだね、まあ」
そう言ってキリコさんは黙り、そのあと何がおかしかったのか笑い出した。それはあの部屋を出るときに聞いた哄笑とは違う、どこか自嘲気味な感じのするキリコさん本来の笑いだった。
首の皮一枚で繋がった最後の舞台。希望などかけらも残されていないその舞台に、キリコさんがどんな思いで挑もうとしているのかわからない。
それでも俺の中には、まだ演じられるのだという安堵があった。
一度は蹴落とされた舞台。二度目で終わりを目の当たりにした舞台。その舞台に三度目があるというのならば、俺がそこに立たない理由はない。
「あはははは、あはははは――」
どこでスイッチが入ったのか、キリコさんはなかなか笑い止まなかった。最初は呆れて眺めていた俺も、やがてつられて笑い出すはめになった。
何がそんなにおかしいのかわからない、高校の文化祭の準備で徹夜明けに、面白くもないことを言い合いながら妙に笑えて仕方ない高揚したハイな気分――自分が今はまりこんでいるのはそれだと思った。
既に暗闇となった廃墟に、絹のような雨は降り続いていた。どこか優しい感じのする薄笑みを浮かべ俯いたマリオ博士の顔を、その雨が濡らし続けていた。
そんな中、俺とキリコさんは周囲も憚らず、もはや何がおかしいのかわからないまま、冷たく潤った夜の底で文字通り腹を抱え、げらげらといつまでも笑い続けていた。
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