221 カタストロフィ(5)

 そう思って、俺は冷静になった。


 ……そうだ、ここは舞台の上だ。枠組みフレームはもうどうでもいい。あの日曜のホールで隊長に告げられた枠組みがまだ生きているのか、それともここでキリコさんに与えられた枠組みで始められた新しい舞台なのか、そんなことはもうわからない。


 ただここが舞台の上で、与えられたひとつの役を俺が今が演じていること――それだけは確かなのだ。


 。だからここでアイネがどうなろうと問題ない。今どこで何をしていようとも、無残な姿で息絶えていようとも、何の問題もない。


 ここは舞台の上だ――もう一度確認して、俺は大きく息を吐いた。


 ここは舞台の上で、俺はいま劇のただ中にいる。その中でアイネがどうなろうと、それは単なる劇の要素だ。即興劇がどちらの方向に進むか、それを定める数多い要素のひとつに過ぎない。


 実際、俺は今まで何度もあいつの死を見てきた。ごく当たり前に見てきたのだ。当然、俺があいつを殺したこともある。逆に俺があいつに殺されたことも。


 ――そう、ここは舞台の上だ。そのことを思えば、こんな展開などどうということはない。


 もう一度大きく息を吸って、吐いた。そうして俺は銃を握りしめたまま、ゆっくりと歩き出した。


 生木が裂けるような大音声とともに、青白い光が死んだ男の顔を照らした。俺は立ち止まってもう一度その顔を見つめ――また歩き出し、広間をあとにした。


「……」


 暗い廊下を抜けて押し開けた扉の先では、捕虜たちが死んでいた。


 えた臭いのする汚物まみれの部屋に繋がれた、裸の女たちだ。今しがた死んでいった男と、その仲間たちにさんざん慰みものにされていたに違いない裸の女たちは、繋がれたまま全員殺されていた。


 胸を撃ち抜かれている裸もある、眼球のあたりが赤黒く落ち窪んでいる裸も。うずくまって白い尻を剥き出しにする裸、だらしなく開いた股の間から最期の排泄物を垂れ流した裸……。


 どの裸も、もう動かなかった。ここに来るまでの間に目にしてきた彼らと同じように、彼女たちも物言わぬむくろに成り果てていた。


「……これで問題解決、ってことか」


 そう独りちて、俺は息だけで軽く笑った。


 何のことはない、一昨日、昨日とあれだけ苦しめられた問題は、キリコさんとあの女が思い描いていた筋書通りに解決したのだ。そのことを思うと、腹の底から力のない笑いがこみあげてくるのを抑えられなかった。


 不謹慎だという思いはなかった。あるいはこの救いのない展開に精神がおかしくなりかけているのかも知れない。


 ……部隊を掌握できるかどうかの話ではない、その部隊自体が壊滅してしまったのだ。俺がここで演技する理由は、もうなくなった。それでも俺は捕虜の部屋をあとにし、薄暗がりの通路を更に奥へと向かった。


 恐怖はなかった。衰える気配を見せない豪雨の轟きの中にひとつ、またひとつと死体を抱え起こして顔をあらため、それが済むと死体を元通りに横たえて先へ進んだ。


 自分がなぜそんなことをしているのかわからなかった。アイネの死体を探しているのだろうか……そう思って立ち止まり、けれどもまた歩き出して死体を改める作業に戻った。


 元の顔がわからないほど損傷している死体があった。死後に呪いでも残すように凄まじい苦悶の表情を浮かべた死体もあった。


 俺は、何も感じなかった。感情が麻痺しているのか、それとも何か別に理由があるのか。


 だから奥まった突き当りの小さな部屋でリカとカラスが死んでいるのを見にしたときも、自分でも驚くほど、俺は何も感じなかった。


「……」


 つき合い始めたばかりの恋人たちがぎこちなく抱き合うように、向かい合ってお互いの身体に腕をまわしながら、二人は死んでいた。リカは胸を撃たれ、カラスは腹部を穴だらけにされて。


 二人の身体から流れ出た赤黒い血が混じり合い、だがもうコンクリートの床に浸み込んで固まっている。そんな様子から二人が殺されてからだいぶ時間が経っていることを推測して――そんなことしか考えられないでいる自分をまるで別の場所から俯瞰するように冷たく眺めた。


 それでも、俺は二人の死に何の感慨もいだくことはなかった。


「……」


 眠るように安らかな死に顔を見せるリカの隣で、思いを残すように大きく見開かれたカラスの目に、俺は瞼をおろしてやった。そうして立ち上がり、最後にもう一度だけ二人を見て、その場をあとにした。


 それからまた幾つかの死体を見た。


 頭蓋骨が割れ、剥き出しの脳髄がババロアのようにこぼれ出た死体があった。眠りに就く子供のように手足をまるめ、穏やかな表情を浮かべた男の死体があった。


 どの死体を見ても、俺はもう何も感じなかった。


 アイネの死体はなかった。だがたとえ実際にアイネの死体を目にしたとしても、俺は何も感じないかも知れない。


 そんなことを思いながら薄暗い部屋を一室、一室と覗いてまわった。何のためにそんなことをしているのかわからなかった。もはや自分が何のために、何の役を演じているのかわからなかった。


 ひきもきらぬ雨の音と雷光。やがてその雷光がまたひとつ通路の隅にうずくまる薄汚れた死体を照らした。ぎこちなくこちらに向けられたその顔には見覚えがあった。


 それは、ラビットの死体だった。


「……逃げたんじゃなかったのかよ」


 思わず言葉が口をついて出た。そこではじめて、自分の中にひとつの感情が生まれるのを感じた。……それは、寂しさだった。胸が締め木にかけられたような、堪らない寂しさだった。


 昨日、アイネのもとに向かう通路で出会い、短い会話を交わしただけの男。ただそれだけの関係に過ぎない男の死に、俺はすぐには動きだせないほどの寂しさを感じた。


 リカやカラスの亡骸を見たときには感じなかったその寂しさの理由わけがわからないまま、俺はゆっくりとラビットの死体に近づき、その傍らにかがみこんだ。


「……」


 わずかに見開かれた目は砂埃に覆われていた。裂けた唇とつながった鼻孔のまわりには乾いた血が黒々とへばりつき、これだけはまた生乾きの血とも涎ともつかないものが口の端に泡をつくっていた。


 ……醜い顔だった。死に顔であることを差し引いても、こうして眺めているのが苦痛なほど醜い。それでも俺は目をそらさず、その醜い顔を見つめ続けた。


 稲光が白くその顔を照らした。だが雷鳴も篠突く雨の音も、もう俺の耳には届かなかった。


「……」


 手を伸ばし、短い髪に触れた。土埃と脂にまみれほとんど粘土のようになったその髪を、俺は何度も指でくしけずった。……そんなことをする自分を堪らなく滑稽なものに感じながら。ろくに知りもしない男の死体を抱きかかえ、まるで死んだ恋人の亡骸にそうするように。


 けれども、俺はそうせずにはいられなかった。どこから来たものかわからない寂しさは今、俺の意識を真っ黒に塗り潰し、それが理由で立ち上がることさえできない。この舞台に立って初めてもたらされた感情は、砂漠に降る雨よりもなお激しい勢いをもって俺をどこかへ押し流そうとしている。


 ――不意に、その濁流が動きを止めた。


 俺の中で化け物のように大きくなった寂しさがふと我に返ったようにその膨張をやめ、そこから急速に小さくなっていった。


 ……その変化をもたらしたものの正体には、すぐ気づいた。


 だが、はっきりとが来るまで、ラビットの死体を抱えたまま俺は動かなかった。腕の中にあるそれは、もうただの薄汚い死体だった。それを見つめるふりをしながら、じっとが来るのを待った。


 そして神経をじかに逆撫でされるようながもたらされた瞬間、俺は振り向きざま通路の奥に数発の弾丸を見舞った。


 銃声に呼応するように稲光が通路の先を青白く照らした。そのわずかな光の中に、身をひるがえす黒い影をはっきりと捉えた。


 それは《蟻》だった。


 そこで、俺はすべてを理解した。きれぎれの断片が繋ぎ合わされ、構図が明らかになった。


 誰がその構図を描いたのかわかった。この豪雨に乗じてアジトを襲撃し、無抵抗の捕虜を含め彼らを皆殺しにしたの者の正体に、俺ははっきりと思い至った。


「……てめえかッ!」


 短く吠え、俺は《蟻》が消えた通路の先に向かい駆け出した。右手に銃を構え、左腕にはラビットの死体を抱えたまま。


 小柄で痩せこけたラビットの死体は子供ほどの重さで、片手で首を掻き抱いてどうにか走ることができた。――銃撃戦において、死体は銃弾に対する有効な楯となる。映画や小説の中ではほとんど常識と言っていいその知識を、こうして実践する日が来るとは夢にも思わなかった。


 けれどもその事実に、俺は何も感じなかった。ついさっきまでその死を悼み、押し潰されそうな寂しさを覚えていたラビットの死体を弾除けに使いながら、罪悪感はおろかそれを残酷だと思う気持ちさえ、少しも湧きあがっては来なかった。


 ――ただ噴きあがるような殺意だけがあった。


 つい先ほどまで俺を押し潰そうとしていた寂しさは、そのままの大きさで殺意に置き換わった。頭のてっぺんから足の先まで全身を満たすその新たな感情は、怒りでも憎しみでもない、だった。青白く燃え立つ冷たい炎のような、自分でも驚くほどクリアな感情だった。


 そうして俺はこの舞台で初めて、自分が演ずるべき役が降りてきたことを知った。


 ――あまりにも明確でわかりやすいその役に思わず苦笑いしながら、通路の先に向けてまた数発の銃弾を撃ち込んだ。


 反撃はなかった。そこで俺は立ち止まり、死体を抱えたままこの先の展開について思いをめぐらせた。


 改めて確認するまでもなく、自分が手にしているこの銃には弾丸が入っていない。けれどもここまでの経緯から、この銃であの女を殺傷することは可能と考えていい。一方で、あの女の手にする銃は火薬入りの銃弾がこめられた通常の銃とみるべきだろう。撃たれれば致命傷を負いかねないことはこちらとしても変わりはない。


 けれどもその構図はその実、俺の有利を意味している。弾をこめる必要がないからだ。その証拠に最初の狙撃のあと通路の先に消えてから、あの女は一向に姿を見せようとしない。


 ただ、あの女は俺がここにいることを把握している。逆に俺にはあの女がどこにいるかわからない。その非対称の関係が変わらない限り、このまま死体を楯に走り続けたところで俺があの女を殺すことはできない――


 そのことを悟った瞬間、俺はラビットの死体を担ぎ上げ、目いっぱいの力でそれを通路の先へ放り投げた。

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