220 カタストロフィ(4)
「……しかし、すごいなこれ」
エントランスを抜け、すぐ真向かいに建つアイネたちのアジトがあるビル。その間を隔てるものの数歩の道に、俺は思わず立ち止まり空を仰いだ。
今にも落ちてきそうな
そんな感慨にひたる俺の額にぼとり、と質量のある液体が当たって流れ落ちた。
そうしてすぐ二滴め、三滴めの雨粒――雨粒と呼ぶにはあまりにも大きい水の塊が顔に叩きつけて
すぐに豪雨となった。バケツをひっくり返したような雨、などという生易しいものではない。まさに『海が落ちてくる』というあのときのキリコさんの言葉そのものだ。
地響きのような雨の音に、自分の足音さえ聞こえない。そこへ稲光とともに雷鳴が轟く。……まったく我が
「……?」
たまさか青白い雷光が走る薄闇の通路を進み、問題の地点にさしかかった。撃鉄の音を無視して通過しなければハチの巣にされる最初の結界。
……だがなぜだろう、昨日たしかにここで耳にした撃鉄の音が、今はしなかった。
さらに進むとアジトの
「……」
思わず立ち止まった。轟音と雷鳴の中にひとしきり立ち尽くしたあと、さっきより早い歩調で俺は歩き始めた。すぐ小走りになり、警戒も忘れて通路を駆け抜けた。
自分をそうさせたものは、異常の確信だった。このアジトに足を踏み入れたのはこれが二度目でしかない。けれども今ここにある種の異常が起こっていることは疑いない。
そんな根拠のない確信が俺を走らせ、やがて後づけになるその根拠を、はっきりと俺の前に突きつけた。
「……何だよ、これ」
通路を塞ぐようにふたつの身体が折り重なって倒れていた。抱き起してどうこうできるレベルではない。片方の頭には顎から上がなく、もう片方は眼球が両目ともこぼれ出ていた。
うまくまわらない頭で咄嗟に考えたのは、自分の正体がばれたのではないかということだった。
……なぜそんなことを考えたのかわからない。ただ俺が彼のふりをして部隊を乗っ取ろうとしていた――そのためにこんなことが起きたのではないかと、ぼんやりした罪悪感の中にそんなことを思って――俺は走り出した。
「んなわけねえだろくそ!」
悪態は激しい雨の音にかき消え、頭の中にあったものも消え失せた。雷光が照らし出す通路の先にまたひとつの死体を認め、それをよく見ないまま俺は走り続けた。
広間に出た。そこに、物言わぬ身体となった彼らがいた。
不自然に手足を折り曲げて横たわる身体。壁にもたれ、口の周りにべったりと黒い血をはりつけて俯いた身体。銃を手にしたままぎこちなく固まった身体……そのどれもが、もう動かなかった。
「何だよこれ……何なんだよ」
そんな言葉が独りでに口をついて
そこに、色はなかった。薄汚れた濃い灰色のビジョンと、真っ白なビジョン。交互に繰り返されるそれらがまるで写真とそのネガのようだと思い、そういえば内戦の国を取材した写真でちょうどこんなごろごろと雑魚寝のように死体が転がっている写真があった、とそんなことを考えたところで、か細い声が耳に届いた。
「……!」
我に返って周囲を見回し、部屋の奥の隅に身体をはめるようにして半開きの目をこちらに向けている男の姿を認めた。
すぐに駆け寄った。男はようやく気づいてくれたというように口元を歪め、だが笑う代わりに小さく噎せて血を吐いた。噎せる力もない、ということがよくわかるその噎せ方に、男の死が近いことをはっきりと感じた。
服は血に染まっていない所を探すのが難しいほどで、身体のどこに穴があいているのかもわからない。白髪の浮いた五分刈りの頭と無精髭の他はこれといった特徴のないその男が、キリコさんの教えてくれたどの名前に当てはまるのか、わからない。
「……に、なぁ」
「え?」
「……みずがふって、きたなあ、ほんとに」
消え入るような声を聞きとるために、俺は耳を近づけた。反射的に顔を背けたくなる男の口臭に耐えながら、男が口にしたその言葉の意味を考えた。
水が降ってきたなあ、本当に――そう彼が言ったのだとわかった。
それはとりもなおさず、もう一人の俺がこの雨のあることを彼らに正しく預言していた証拠に他ならない。だがこの状況で今さらそんなことを確認したところで……。
何を考えていいのかわからないまま、ここへたどり着くまでの思考を虚しくなぞらずにはいられない俺の耳に、男の口からまたか細い声が届いた。
「……ついて、いってりゃ、な」
「え?」
「……あのあと、すぐだった」
「……」
「……ついて、いってりゃ」
「……」
「……あんたに、ついて、いってりゃ」
「……」
「……こんなことに、ならなかったのかもな」
「誰だ」
「……」
「みんなを殺したのは、誰だ」
自分の意思とは関係なく、言葉が口をついて出た。……そんなことを聞いてどうするのだろう、と頭の中の冷めた部分で考える自分を感じながら。
俺の質問に男はぴくりと顔をひきつらせ、そのあとぎこちない笑みとも苦しみの表情ともつかないものを顔にのぼらせて、それまでより少し大きな声で「わからねえ」と回答した。
「……うっても、きかなかった。けど、こくい、じゃねえ」
「……」
「……こくおうぐん、でもなかった。だれだか、わからねえ」
「……」
「……きづいたときには、おわってた」
「……」
「……あっというまに、みんな、死んじまってた」
男はそう言って、鼻から大きく息を吐いた。そして思い出したように噎せた。頬が触れ合うほど耳を近づけていた俺の横顔に、おそらくはなまなかでない量の血を浴びせかけて。
雷光が一瞬、男の顔を青白く照らし、また灰色の薄闇に戻った。
雨が地面に打ちつける音の他に、周囲には何もなかった。その音の中に男の言葉を聞きのがすまいと傍たてる俺の耳に、さっきよりもなお弱々しくほとんど息だけになった男の声が届いた。
「……けど、これで、よかったのか」
「え?」
「……あんたの、言ってた、ことだ」
「……」
「……なあ、これで、よかったのか?」
「……」
「……これで、その場所ってとこに」
「……」
「……あんたの、言ってた場所に、いけるのか?」
稲光の中に、まっすぐ俺を見る男の
――だが、俺は男に何を問われているのかわからなかった。
俺の言っていた場所? それはどこだろう? 今にも終わりのときを迎えようとする彼が、いったいどこへ行くというのだろう?
俺はいったい彼に何を話したのだろう? もう一人の俺は彼らに何を話し、彼らをどこへ連れていこうとしていたというのだろう?
「……ああ、そうだ」
けれどもすべての疑問を飲みこんで、俺はそう返事をした。その返事に男は安堵のためだろうか、口の端をわずかに持ち上げて笑みを浮かべようとし、だがそうする前に咳きこんでまた少し血を吐いた。
さっきよりも量が少ない。あるいは、もう出ないということなのかも知れない。それでも男は納得したように――あるいは自分を納得させるように二度、三度うなずき、それから小さな声でぽつりと、「なら、おくってくれ」と言った。
「え?」
「おくってくれ。あいつみてえに」
……なぜだろう。今度は男の言っていることがわかった。『おくってくれ』という言葉の意味が、考えるまでもなくはっきりとわかった。
彼は、俺に殺せと言っているのだ。
俺の手で殺してくれと、そう言っているのだ。
いつか、俺が別の誰かをそうしたように。おそらくこれと似たような状況で死にゆくものを前にした俺が、彼らの見守るなかでそうしたように。
脂汗と砂にまみれた薄汚い顔に、燃え尽きようとする蝋燭を思わせる苦悶の表情が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
……状況はわかっている。彼はもう助からない。俺がそうすることが彼にとって救いになることもわかる。
だから、彼は『おくってくれ』と言っている。苦しい息の中で切実に、俺がそうすることを求めている。
……逃げることはできなかった。ほとんど喪心に近い中で俺は懐に手を入れ、ホルスターから拳銃を抜き出して眼の前に構えた。
「……」
照星を男の胸に合わせ、引き金にかけた指に力をこめようとし――そこで俺は不意に戦慄を覚えた。
身体の芯の一番深い部分で覚えた、それは文字通りの戦慄だった。
俺が人を殺す。その現実が圧倒的な質量をもって胸に迫った。
俺が人を殺す。この手で、目の前にいるこの男を殺す。脂汗を流し、最後の命のともしびを燃やし、弱々しくもまだ息をすることをやめない、この人間を殺す――
手が動かなかった。人間を殺すのは初めてではなかった。俺はこれまでにもう何度も、何人も人間を殺してきた――演技の中では。
そう、一度や二度ではない、演技の中では俺は何度も人を殺してきた。逆に殺されたことも……殺そうとして殺されたことも。
自分がいま立っているここが舞台であることは疑いがない。自分はいま演技の中にいて、演技の上で人間を殺そうとしている。これまで何度も繰り返してきたことを、いつも通りになぞろうとしている。
トリガーにかけた指に力をこめればいい。そんなに強くこめる必要はない、ほんの少し。それだけでいい。それだけで俺は、俺に求められる役を正しく演じることができる。いつも通りに。いつも自分が舞台の上でごく自然に、何の気なしに演じてきたように――
そう思っても手は動かなかった。指先に少し力をこめるだけ――それがどうしてもできなかった。
手の中で、急に銃が重くなるのを感じた。自分の意思とは関係なく銃を下ろそうとする腕を必死になってもたげた。そうなってしまえば自分が男を撃てなくなることがわかったから。
大きく息を吸って、吐いた。銃を両手に構え直し、再び男の胸に照準を合わせた。
「いいか?」
男に問いかけた。返事はなかった。照星越しにもう一度男を見つめた。
そこで、男が既に死んでいることに気づいた。
「……」
そのことに気づいた後も、俺はしばらく銃を下ろすことができなかった。
どれほど時間が経ったのだろう、稲光が男の顔を青白く照らした。
同時に雨の音が戻ってきた。一向に弱まる気配をみせない激しい雨の音。その音を聞きながら、俺はようやく銃を下ろした。
轟音とともにもう一度、雷光が男を照らした。
俺は、動けなかった。呆然と立ち尽くしたまま、もう動かなくなった男をただじっと見つめていた。
「……アイネ」
ふと、名前が口をついて出た。
アイネ……そういえばアイネはどうしているのだろう?
そう思った瞬間、全身が総毛だった。
直後、猛烈な吐き気を覚えた。銃を取り落して右手を口にあて、胃の中のものがえずきあがってくるのを必死に堪えた。……なぜそうしたのかわからない、吐いてしまえばよかったのかも知れない。
アイネがもう死んでいるかも知れないこと。
ここまで見てきたあの死体の群れの中にアイネのそれがあったかも知れないこと。
あるいはこの先のどこかで無残なアイネの死体を目にすることになるかも知れないこと。
――少し考えれば当たり前のその事実が俺の胃を締めつけ、絞りあげようとしていた。なぜそうするのかわからないまま、俺は必死になってその吐き気に堪えた。
アイネが死んだ? それがどうした? そんなことになぜ俺が取り乱さなければならない?
アイネが死ぬことだってあるだろう。なぜなら、ここは舞台の上なのだから――
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