219 カタストロフィ(3)
――これからどうするべきなのだろう。薄暗い窓の外を眺めるともなく眺めながら、俺はぼんやりと考えた。
本当にもう何もやることがなかった。ここで俺にできることは、もう何もない。
舞台は壊れた。その修復がもはや不可能であることは、そこに立っていた俺が一番よくわかっている。
キリコさんの描いた構図は決定的に破綻した。薄氷を踏むような思いでDJを排除し、もう一人の俺をうまうまとその後釜に据え、順風満帆にきたところへこの顛末では、我が
「……」
そう。ここで俺にできることは、もう何もない。
身代わりの演技をアイネに見破られた今となっては、最早もう一人の俺として隊に戻ることは叶わない。けれどもそうする以外、俺にできることはもうここにはない。
そのあたりは昨日の段階でわかっていた……わかっていたからこそ、俺は見切り発車であの無謀な演技に身を投じたのだ。だが、それも虚しい結果に終わった。ここで俺にできるたったひとつのことが、もうできなくなった。
「……」
だから考えるまでもない。ここで俺にできることは、もう何もない。
膝を抱えて座ったまま一向に口を開こうとしない我が主の
昨日のあれが最後の賭けだったことは、もう疑うべくもない。賽は投げられ、出目が外れた。それだけのことだ。我々の出番は終わった。この舞台がこれからどんな筋をたどるのか知る由もないが、俺たち二人がそこで果たすべき役割は、もうない。それだけははっきりしている。
「……」
雨が降ろうとしている。
砂漠に降る雨を目にするのは、もちろん初めてのことだ。それはきっと凄まじい光景だろう。渇ききった、容赦なく照りつける太陽の他は何もなかった場所に、激しい雨が降ろうとしているのだ。
俺にとって、あるいはこれが最初で最後の機会になるかも知れない。多くの人間が生涯目にすることのないだろう自然の驚異が、今まさに始まろうとしている。何の因果かたどり着いたこの場所で、その稀なる光景を俺はこれから目の当たりにしようとしている――
「……」
そんなことを思ってみても、心は動かなかった。壁に穿たれた穴の向こうに広がる風景を、俺はただ虚ろな気持ちで眺めた。
疲れているのだろうか。……考えるまでもない、俺は疲れている。ただでさえ精神の休まらない展開続きでくたくたになっているところに、こんな場所で二晩も明かしたのでは疲れない方がおかしい。
……そう、俺はおそらく自分で考える以上に疲れきっている。我が
「……」
そもそも俺はなぜここにいるのだろう。鉛色の廃墟を眺めるともなく眺める意識に、もう何度目になるかわからない疑問がぼんやり浮かびあがった。
濁流のような展開にのまれてともすれば忘れがちだが、ここは舞台だったはずだ。隊長に言われるままピースメイカーのトリガーを引いたあの日曜日の舞台。その舞台と地続きであるはずのここで、俺は演技に立っているはずだった。
……そう、俺は芝居をするためにここにきた。少なくともあのトリガーを引くまではそのはずだったのだ。
その芝居は、もう終わったということなのだろうか。対面の壁に背もたれる弛緩した彼女の表情は明らかにもう舞台を降りてしまった人のそれで、無気力な薄明りが射すコンクリートの部屋には次に繋がる何かを見出すことはできない。
そうならそうでちゃんと幕を下ろしてほしいのだが、目に映る風景に変わりはない。……それとも廃墟に垂れこめるこの鉛色の空が緞帳の先触れということなのだろうか。
空は今にも落ちてこようとしている。このわけのわからなかった舞台の、それが終幕になるのだとしたら、最後の最後で少しは気の利いた演出が顔を出したと認めざるを得ない。
「……駄目だな」
我知らずそんな呟きが漏れた。口に出してから、自分が発したその言葉の意味に気付いた。
このままでは終われない。この舞台が――即興劇団ヒステリカが満を持して放ったこの舞台が、こんな中途半端な終わり方をしていいわけがない。
そう、俺はこのままでは舞台を降りることはできない。たとえその舞台がもう壊れてしまったのだとしても。いや、舞台が壊れてしまったのならもっとはっきりと、それをこの目で確かめるまでは――
「……どこへ行くんだい?」
立ち上がり、扉へ向かおうとする俺にキリコさんから力のない声がかかった。思わずそちらを見た。何かに怯え、縋りつくような眼差しがじっとこちらを見ていた。
「どこって、決まってるじゃないですか」
半ば呆れるような気持ちで、俺はそう返した。どこへ行くも何も、俺が行くべきところはひとつしかない。
雨は降ろうとしている。彼らが見たこともない激しい雨が、今まさに降りだそうとしている。何もかも終わってしまった状況にもし一縷の望みを見いだせるとしたら、この雨を置いて他にない。この雨を逃せばこの舞台における我々の活路は、文字通り完全に閉ざされることとなるのだ。
「……お腹、減ってないのかい?」
その言葉を無視し扉を開けようとして――だがそこで俺は耐え難いほどの空腹に気づいた。耐え難いというよりそれは実際に痛みを覚えるほどで、同時に気づかされた渇きと相まって部屋を出ようとする俺の脚をすくませた。そこへ、またキリコさんの声がかかった。
「降り出すのは……そうだね、あと一時間といったところか」
深いため息にのせて、何かを諦めたようにキリコさんは言った。そうしておもむろに立ち上がり、俺の脇を抜けて扉を開けた。「なんか見繕ってくるよ」と言い残し、部屋を出ていった。
……どうしようかとも思ったが、飢えと渇きは現実問題としてかなり深刻のようだ。それに、雨が『まだ』なら急ぐ必要はない。ここは大人しく我が
◇ ◇ ◇
「あたしのためかい?」
「え?」
キリコさんが持ち帰った水と食糧――相変わらずのカロメもどきとペットボトルで補給しているなか、唐突にキリコさんがそんなことを言った。何のことかわからず黙って咀嚼を続けていると、彼女はもう一度その言葉を口にした。
「あの子たちのところへ行くんだろ、これから」
「まあそのつもりですけど」
「それは、あたしのためかい?」
「……」
「あたしのために、ハイジはもう一度あの子たちのところへ行ってくれるのかい?」
向かいにあぐらをかいて座るキリコさんは背を丸め、コンクリートの床に視線を落としたままさして興味もなさそうに言った。
そう言われてはじめて、彼らのもとへ向かおうとする自分の中にそうした気持ちがまったくないことに気づいた。
正直、キリコさんのためではない。俺がこれから再び彼らのもとへ向かおうとしているのは役者としての自分のためであり、もっと言えばはからずもこのわけのわからない舞台に立ってしまった役者としてそうせざるを得ないからだ。
それでも俺はあえて「まあそんなとこです」と返し、また食糧を咀嚼する作業に戻った。
「アイネちゃんを殺すのかい?」
思わず頭を跳ね上げた。口に半欠けのカロメもどきを咥えたまま、じっとキリコさんを見つめた。その眼差しが一瞬こちらに向けられ、また力なくコンクリートの上に落ちた。
唐突な言葉にさっきと同様、最初は何を言われたのかわからなかった。
だがしばらくもしないうちに、わかった。自分がこれからとろうとしている行動とキリコさんの口から出た言葉が、一本の線でまっすぐに繋がった。
「……しませんよ、そんなこと」
カロメもどきを飲みくだし、ペットボトルの水をまた少し口に含んだあと、感動もなく俺はそう返した。
なるほど考えてみれば、それは確かに有効な手段だ。……と言うより、ここから俺があの部隊を掌握するための、あるいはそれが唯一の手段なのかも知れない。
俺が彼――あの部隊の隊長だったもう一人の俺でないことを、アイネには見抜かれた。けれども現時点でその事実をアイネが周囲に広めたかどうかは未知数だ。俺の知る彼女は、そういったことを軽々しくふれまわる人間ではない。
だとすれば今のうちにアイネの口を封じてしまえばいい。そうすることで、俺が彼の役を演じてあの部隊を掌握できる可能性は、まだわずかながら残されている。
……いや、わずかではない。ねっとりと肌にまとわりつくような湿気を感じながら、キリコさんが口にしたそれが、現時点でとりうる最も有効な手段であることを思った。
今のうちにアイネの口を封じてしまえばいい。そうすれば、この天気が活きてくる。空から水が落ちてくる――あの部隊の中で彼がそのことを少しでも口にのぼらせていればいいのだ。もし彼がそうしていたのであれば、俺は文字通りの
今すぐ戻りさえすればいい、確実に彼らの心は掴める。アイネさえいなければ。俺が彼でないことを知る唯一の存在であるアイネの口を封じてしまいさえすれば。けれども――
「あいつを殺すくらいなら、俺があいつに殺されますよ」
カロメもどきを咀嚼しながら、思わずそんな言葉が口をついて出た。
今度はキリコさんが弾かれたように頭をあげ、ぎょっとした表情でこちらを見た。あえて視線を返すこともせずカロメを食べ続けながら、案外それが俺の本音かも知れないと思った。
あいつに殺されるために、俺は再びあの場所に戻ろうとしている――あるいはそういうことなのかも知れない。そう考えれば目のない演技にあえて向かわずにはいられないこの衝動にも説明がつく。
……そう、そもそも目のない演技なのだ。舞台はもう壊れている。カーテンコールはかからない。あまつさえ登場して一幕もたずに化けの皮が剥がれる三文役者が、一度は蹴落とされたそこにのこのこ這い上がっていこうというのだからどうかしている。まともな演技になどなるはずがない。だが、あいつに殺されるために戻るのならば、悪くない。
そう……あいつに殺されてこの舞台を去るのなら、それも悪くない。
そう思って俺はほくそ笑み、自嘲気味に軽く息を吐いた。わけもわからないまま放り込まれ、さんざん弄んでくれたこの舞台への
ただ、俺はもう一度アイネと会いたかった。会って話がしたかった。あのとき俺が彼女を前に軽率に口に出してしまったこと。そのために自分の演技ばかりか彼女の演技まで壊してしまったかも知れないこと。そのことが今もずっと心に引っかかっている。
戻って何ができるのかわからない。あるいは俺が戻ることでアイネの演技をさらに損なってしまうことも考えられる。……それでも、俺はもう一度アイネと向き合いたかった。もう一度真正面から向き合って、それであいつに撃ち殺されるのなら、それも悪くない。
そこまで考えて――ふとあのときの彼の姿を思い出した。真正面からキリコさんに向き合い、撃たれて死んだもう一人の俺の姿。
その姿は、今もはっきりと目に焼きついている。今、自分が置かれている立場は、あのときの彼と似ていると思った。……もちろん細部は違う。けれども退きも進みもかなわない状況にあって、向う見ずの勇気で立ち向かわざるを得ない今の俺の立場は、たぶんあのときの彼とよく似ている。
あいつもこんな心境を味わったのだろうか。そう思って、わけもない共感に胸が熱くなるのを覚えた。そうして俺は再びはっきりと、あのときの彼の最期の姿を脳裏に思い描いた。
背筋をのばし、胸を張り、振り返ることもせず堂々と彼は舞台から去っていった。あの演技は、いま思い返しても身震いするほど素晴らしかった。
あんな演技は俺にはできないとそのときは思った。だが、今ならばできる気がする。あのときもう一人の俺が見せたような――いや、それとも違う俺にしかできない演技が、今の俺ならばできる気がする。
いい演技ができそうだ。そう思って、俺は立ち上がった。
「……帰ってきておくれ」
扉へ向かおうとする俺の背中に、ひび割れたようなキリコさんの声がかかった。
反射的に振り向いた。一瞬、眼差しがぶつかり、すぐに彼女の方で視線をそらした。
「死なないで帰ってきておくれ。頼むから」
絞り出すようにそう言って、キリコさんは口を閉ざした。その目はもう俺を見なかった。
返事を返さないまま俺はドアノブを回し、部屋を出た。きい、という音に続いて扉が閉ざされる重い音が、何かの宣告のように薄暗い通路に響いた。
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