218 カタストロフィ(2)
――目覚めたとき最初に感じたのは、濃厚な雨の気配だった。
じっとりと空気が濡れそぼっている、まるで絞れば水がしたたり落ちるように。実際、いつも通り砂がはりついた寝起きの顔には、明らかに汗とは違う水滴のようなものが付着している。
少し舌をのばしてその水滴を吸い取り、塩気を含んだわずかばかりの水が乾ききった喉を嚥下してゆくのを感じた。そうして俺は、薄暗い部屋の隅にうずくまるようにして座るキリコさんの姿を認めた。
向かいの壁の、ちょうど俺のいる場所の対角となる位置に、キリコさんは膝を抱え座っていた。魂が抜けたような虚ろな表情は、昨夜、俺がこの部屋に戻ってきたときのそれと変わらない。艶のないぼさぼさの髪も、薄汚れた肌の色も。
身体を起こした俺にはもう気づいているだろう。だが、キリコさんから声はかからない。少し考えたが、俺から彼女に声をかけるのも、やはりやめておいた。……必要があれば向こうから声がかかるだろう。それに、この期に及んで「おはよう」などと声をかけあうのも白々しいというか、あまり意味がないことのように思える。
「……」
改めて、周囲に立ちこめる異様な湿気を肌で感じた。
手の甲を見る……やはり濡れている。誇張ではなく、服に覆われていない肌という肌がうっすらと湿りを帯びているのがわかる。
眉を指でなぞると、朝露のような滴が手の中にこぼれた。その滴を、唇に近づけて吸い取る。かすかな塩気と、ざらついた土臭さが口の中に広がった。それでも俺はその滴を吐き出すことはせず、さっきと同じように飲み下した。
「……」
窓の外に目をやった。いつもなら過剰なほどの陽の光が溢れるそこは、見慣れない真っ黒な雲に覆われていた。
今にも泣き出しそうな空――と言うより今にも音を立てて落ちてきそうな空だと思った。『海が落ちてくるようなもんさ』と、いつかのキリコさんの言葉が蘇った。
……本当に雨が降ろうとしているのだ、この砂漠に。
はっきりとそれを感じ、窓の外をもっとよく見ようと腰を浮かしかけたところで、キリコさんが一言、ぽつりと呟いた。
「夢を見たよ」
「夢?」
反射的に聞き返した。けれども、キリコさんからの返事はなかった。こちらを見ないままうつむき加減に、ぼんやりした虚ろな表情を浮かべている。それきり何も喋らない。しばらく眺めていても、どこか遠くを見ているその目がこちらに向けられることはない。
「……」
あるいは聞き違いだったのかも知れない。そんなことを思い、けれどもその夢を見たという言葉に、ふとさっきまで自分がいた場所のことを思い出した。
――俺も夢を見た。あの場所にいたときはそれが夢かどうか判然としなかったが、今ははっきりとあれが夢だったことがわかる。
ついさっきまで、俺は夢を見ていた。なぜそんな夢を見ていたのか自分でも首を傾げたくなるような、何とも脈絡のない奇妙な夢を――
「……」
……あれはいったい何だったのだろう。その夢のことを思い起こしながら、俺と同じ歯車に乗ってぐるぐる回転していた二人の少女のことを考えた。特に、ベロニカと名乗った彼女が残していった謎めいた忠告のような言葉のことを。
L102室付近の暗証番号が82062、L773室のデスクには青酸の結晶……なぜだろう、まだ覚えている。意識して覚えたわけではないのだから普段の自分ならばとうに忘れてしまっていても不思議ではないのに、彼女が俺の耳元で囁いた言葉のひとつひとつが、妙に生々しく俺の耳の奥に残っている。
「熱帯魚の夢だよ」
「え?」
「熱帯魚の夢さ。もう見ないと思ってたのにね。また見ちまった」
俺の回想を遮るように、ため息にのせて一息でキリコさんは言った。相変わらずその目は俺の方を見ない。けれどもその言葉が独り言ではなく、俺に向けられたものであることは明らかだった。
俺は黙って話の続きを待った。しばらくして、キリコさんはおもむろにその夢について語り始めた。
「棚の上に水槽が置いてあるんだよ。古くて背の高い棚――本棚じゃなくてタンスみたいなやつを思い浮かべてくれりゃいい。その上に水槽が置いてある。中にはちゃんと水が入ってる。何年替えてないかわからない水がね。ガラスにはべっとりと藻が
「……その魚ってのはね、あたしが棄てた熱帯魚なのさ。もうずっと昔、あたしがまだ年端もいかない子供だった頃に。捨てたくて捨てたわけじゃないんだ。家の事情でどうしても手放さなきゃいけないことになって。そんな手のかかるペットを友達にもらってくれとも言えないし、ショップも駄目だ。成長しちまったもんは売り物にならないから引き取っちゃくれないんだよ。水族館にもかけあってみたが相手にされなかった。思いつく限りのつてをたどって、どれも駄目だった。そんであたしがどうしたかって言うと、迷った挙句に家の前にあった暗渠の
「生態系にとっちゃ一番やっちゃいけないことだね。けど、そんときはそんなことまで考えられなかった。ただどうやって片づけるか、それだけしか考えられなかった。冬のはじめだったか、寒い季節だったことだけ覚えてるよ。水が凍ってもおかしくないほどだったし、そんななか
「毎回、覗こうとはするんだよ。横は藻でべったりでも上はあいてるから、脚立でも使えば上から覗きこめる。その水槽の中が実際どうなってるのか、確かめてやろうと思って動こうとする。けど、動けないんだ。水槽の前に立ち尽くしたまま、あたしは動けない。水槽の中を覗きこもうとして、どうしても覗きこめない。……怖いんだよ。あたしが捨てた魚たちがあの中でどうなってんのか、それを見るのが怖いんだ。怖いけど、逃げられない。その水槽の前から、あたしは離れられない。ただじっと見ているしかない。あたしが捨てた魚たちが生き続けてる、中のよく見えない水槽を、ただじっと。
「……そんな夢を見るんだよ。繰り返し繰り返し、何度も。そいつを見るたびに考えるんだ。あの水槽の中で魚たちはなに食って生きてるんだろう、ってね。餌くれるやつなんかいないだろうし、藻を食って生き延びられる種類の魚じゃない。だとすりゃ共喰いだが、あれから十年以上は経ってることを忘れちゃいけない。すぐに喰いつくされたんじゃ今日までもたない。その長い年月、何世代にもわたって生んでは喰い、生んでは喰い、あの魚たちはそうやって命を繋いできた。……そんなことを考えるんだよ。馬鹿馬鹿しいってわかっててもね、考えちまうんだ。
「寒い中、魚いれたバケツ抱えて家の裏の真っ暗な
それだけ話し終えると電池がきれたように、キリコさんはまた口を閉ざした。生気のない表情は変わらないまま、虚ろにどこか遠いところを見ている。
周囲にたちこめる湿気は一段とその濃さを増したように感じる。おそらく天変地異に近いものになるだろう砂漠の雨を前に、つい先日それを鮮やかに予言してみせた彼女の面影は、どこにもない。
そんなキリコさんの姿を眺めながら、今しがた終わったばかりの彼女の夢の話について考えた。
なかなか興味深い夢だと思った。何回も続けて見ているというだけあってリアリティがあるし、ある種の寓意のようなものさえ感じられる。
――いや、そこにははっきりと寓意がある。ことにいま我々が置かれたこの状況を重ね合わせたとき、その夢の話をあえて俺に語って聞かせたキリコさんの遠回しなメッセージさえ読み取れる、そんな気がする。
「……」
そんなことを思って眺めるキリコさんの顔に、けれども俺の疑念は立ち消えになる。遠回しなメッセージなどどこにもないことは、魂の抜けたようなその表情がよく物語っている。
魂の抜けたような――と言うより、浮浪者のような、という表現がしっくりくる。曲がりなりにも惚れた女に我ながらひどい形容だが、そう見えるのだから仕方ない。
薄汚れた服をまとって駅の階段に座りこみ、何をするでもなくただ道行く人々を眺めている……ちょうどそんな表情だった。既に白衣とは呼びがたくなった浅黄色の胴衣と、砂埃にまみれた肌の様子がその印象をいっそう強めている。
「……ふ」
そこまで考えて、自嘲のために俺は小さく鼻を鳴らした。浮浪者のような、という表現がしっくりくる人間が、少なくともこの部屋にもう一人いることに気がついたからだ。
汗がべとついて痒みさえ覚える身体に、もう何日も着替えていないごわごわのシャツとジーンズ。鏡がないのでわからないが、表情も似たり寄ったりということになるのだろう。
……実際、そうに違いない。何をするでもなく
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