217 カタストロフィ(1)

 くるくる、くるくる。


 ――歯車が回っている。平らに置かれた歯車の上に、俺と少女が真向かいに座っている。


 軸のないその歯車はくるくると回り、俺と少女はそれにつられてくるくる回る。まるでコーヒーカップに乗る恋人たちのように、向かい合わせに見つめ合ったまま回り続けている。


 くるくる、くるくる。


 歯車が回っている。昨日、明け方の夢に見たのと同じ、あの歯車だらけの空間だ。


 けれどもなぜだろう、あのときのようなリアリティはない。ここが今まで何度も訪れてきた《歯車の館》なのか、それともただの夢なのかわからない。


 くるくる、くるくる。


 歯車の音はなかった。ここへ来るたびに聞かされていたあの耳障りな鉄と鉄が擦れ合う音はない。


 それもそのはずで、周囲の歯車はみなその動きを止めていた。ただ俺と少女が乗っている、他のどの歯車とも噛み合わない一枚の歯車だけが音もなく回っていた。くるくる、くるくる。くるくる、くるくる、と。


 回り続ける歯車の上に少女は膝を抱えて座っている。つまらなそうに俯いて。どこか不機嫌な感じのする、いつも通りの表情で。


 向かいに座る俺との間にはそれほどの距離もない。コーヒーカップに向かい合って座る恋人たちの距離だ。少女が俺の喉笛を切り裂こうとすればそれは簡単なことだろう。あそこから躍り上がってそうするまで、おそらくものの一秒もかからない。


 くるくる、くるくる。


 だが、少女はそうしなかった。回り続ける歯車の上に、何もせずただじっと座っていた。抱えた膝の間に顎をおとし、俺と二人きりのコーヒーカップを楽しもうともせず。


 そんな彼女を眺めるうち、自分の口から軽い笑いがこぼれるのがわかった。まったくの無意識に――と言うよりくぐもった他人の笑い声を間近に聞くように。


 もっとも、自分が笑ってしまった理由はわかる気がした。その理由は、少女だった。


 くしゃくしゃの亜麻色髪と白い服から覗く手足。ふて腐れたように俯いて膝を抱え、歯車に乗りくるくると回り続ける少女の姿はまるでいつかの『壁の花』だ。その姿はたぶん、誰が見てもひとつの言葉で形容せずにはいられない。そう、と。


 今度ははっきりとその少女のに笑った。笑う俺に少女は眉をひそめ、いっそうつまらなそうに顔を膝の間にうずめようとする。


 そんな様子がいっそう、俺はさらに笑ってしまう。声に出して笑っていたのかも知れない。あるいは、にやけた表情を顔にはりつけていただけかも知れない。


 自分がしているのがそのどちらかもわからないほど、すべてが曖昧でぼんやりしていた。くるくると回り続ける歯車の上に。くるくる、くるくる。


 かわいらしいものを見守る笑顔で、ずっと少女を眺め続けた。そうしながら、この分では少女に殺されても仕方ないと思った。


 これまでの経緯を考えれば、ここは俺たちにとって紛れもなく戦場で、戦場にいる以上、殺されても文句は言えない。ましてこんな風にへらへら笑いながら少女を眺めていたのでは、殺してくれと言っているようなものだ。


 むしろなぜ少女がそうしないのか、そのあたりが疑問に思えてくる。ぼんやりしたとりとめのない疑問をそのままに少女を眺めるうち、俺はふとこの前のことを思い出した。


 ――思いがけず少女とわかり合えたあのときのこと。昨日、廃墟に目覚める前。いつになく濃密だった演習の終わりに少女が忽然と目の前に現れたとき、自分と少女の間におこった奇妙な感覚。


 その感覚はもうどこにもなかった。手を伸ばせば届くほどの距離に座る少女が何を思いそうしているのか、もうわからない。何を思いこんな出来損ないの遊園地のような場所で、俺と二人くるくると歯車に乗り回り続けているのか、わからない。


 それでもこうして少女と二人、歯車の上にまわり続けている時間が、俺は嫌ではなかった。


 現実感に乏しいまるでこの場所に、安らぎのようなものを俺は覚え始めていた。しかも一人ではない。少なくとも外見上は愛くるしい華奢な少女と二人きりで。


 そう思えば余計に嫌ではなかった。何もかも忘れて、こうして意味もなく少女とくるくる回り続けている時間が、俺は嫌ではない。


 ……そんなことを考えながら、自分に呆れた。何度となく喉笛を切り裂かれ、今もそうされないともかぎらない少女と二人でこうしていることに、俺は恐怖を感じないばかりかさえ覚えている。


 そんな思いさえも曖昧な夢と現実のはざまにたゆたい、どうでもいいようなことに思えてくる。ただ少女とこうしていることが楽しい、それでいいじゃないかという気がしてくる。


 そう、俺はこうしていることが楽しい。少女と二人こうして向かい合い、くるくると回り続けているのが楽しい。くるくる。


〈楽しい?〉


 声にならない声で少女に語りかけた。


 少女は動かなかった。ただ膝の間にうずめるようにしていた頭を心なし持ち上げ、上目遣いにじっとこちらを見つめた。


 初めて目が合った。いつもの顔だった。つまらなそうな表情、ふて腐れたような目、叱られて拗ねた子供のような口元――


 そのとき。少女の口元が一瞬、うっすらとした笑みを浮かべた。そんな気がした。


 少女が笑った顔をもっとよく見ようと目を凝らした。けれども次の瞬間、自分が見つめている顔が少女のものではないことに、俺は気づいた。


『今から言うことをよく覚えておいてください』


 ――クララだった。俺が見つめるその前で、いつの間にか少女の顔がクララになり代わっていた。


 いや、顔ばかりではない。着物に袋帯のあでやかな姿はやはりクララのもので、自分がさっきまで眺めていたはずの少女の華奢な手足はどこにもない。


 ……俺が瞬きひとつしない間に少女はクララに代わっていた。疑問に口を開こうとした……だが言葉にならなかった。


 代わりにクララの唇が小さく動き、距離を隔てているはずのその声がまるで耳元で語りかけるようにはっきりと、一言一言噛んで含めるようにその話を続けた。


崩潰ほうかいの際、お二人が所在する可能性が最も高いのは通路ですが、その場合、脱出の見込みは極めて低いものとなります。落盤が局所的であっても通路が分断され、移動が困難となることが予想されます。ただしL102室付近であれば、非常用脱出口の使用が可能です。電気系統が生きていれば、の前提ではありますが。暗証番号が変更されていますのでご注意を。変更後の暗証番号は82062です』


 静かで穏やかな声が一言一言、頭の中に直接語りかけてくるように意識に刻まれていった。


 夢かうつつかもわからないこの場所にあって、その声だけが妙にはっきりとした現実感をもっているのを感じた。まるで水中を泳いでいる耳にぼやけないクリアな声が響いているように。


 いつの間にか少女から成り代わった不思議も忘れて、そのクララの独白に俺は聞き入った。が何について喋っているものか、わからないまま。


『L773室、L850室には糧秣並びに酸素ボンベの備蓄がございます。L773室ではクロゼットにカムフラージュされました隠し戸を、L850室ではリノリウムの床下をそれぞれご確認下さい。お二人でしたら二ヶ月乃至三ヶ月程度の生存が可能かと思われます。ただ、これはあくまで姑息的な対処となります。救援の望みはないものとお考え下さい。よって早期の決着をご希望であれば、L773室のデスクに置かれた星の砂の小瓶の中に青酸の結晶が保管されておりますので、ご使用のほどを』


 どうやらあの研究所の中のことを話しているようだ――と、しばらく聞き続けて理解できたのはそれだけで、クララがいったい何について語っているのか、俺にはさっぱりわからなかった。


 崩潰が起きたときだの生存の見込みだのと、何やら物騒なことを話している気もする。まあそのあたりについてはここ数日の状況からしておかしくないとしても、肝心の話がまったく見えてこない。


 いったい何について語っているのか、それだけでもクララに聞きたかった。けれどもそれは言葉にならず、静かに語り続けるクララの話を俺はただじっと聞き続けるしかない。


『もう一点。可能性は高くないものと思われますがL305室で崩潰ほうかいを迎えられました場合、ガスペルト計数管に向かって右側、予備のチャンバーの裏壁をご確認ください。銅板を取り除けますとハッチが現れます。中心のダイヤルを時計回りに半周、反時計回りに四半周、再び時計回りに一周で開くことができます。出口には岩板で蓋がしてございます。かなり重いのでお二人で協力するなり、ところをお見せになるなりご随意に』


 どれだけ話し続けていたのだろう。最後に少し冗談めかした口調で締めくくり、クララの話は終わった。向かいに座る彼女の唇の動きが止まり、あとはさっき少女がそうしていたように歯車がまわるのに任せている。


 クララが何について語っていたのか、結局わからずじまいだった。きっと何か重要なことを教えてくれたのだろう。覚えていられるかはわからないが、せいぜいクララの言うように忘れず覚えていようと思った。


 歯車が回っていた。くるくる、くるくる。


 頭の中に響き続けていた現実こえが消えたことで、自分のいる場所がまた不確かで曖昧なものになってゆく気がした。動きを止めた無数の歯車と、その中にあってひとつだけ回り続ける我々を乗せた歯車。


 くるくると回る歯車の向かいにクララの端整な顔をぼんやりと眺めながら、なぜ彼女がここに現れ、おそらく忠告と考えられる話を長々と俺に語り聞かせてくれたのか、今さらながらそのあたりがしきりに気になり始めた。


『余談になりますが、わたしはクララではありません』


〈え?〉


『クララは妹です。わたしは姉のベロニカと申します』


〈……あ、そうなの〉


 耳元で囁く声に、何の気なく俺はそう返していた。


 ……なんだろう、会話が成立していた。俺の口は動かない。ちょうど夢の中でぱくぱく口を動かしても声が出ないように、何かを思ってもそれを言葉にすることができない。


 相変わらず頭の中に直接語りかけてくるような彼女の声……けれどもその声に心の中で返事を思うことで、なぜか会話が成り立っていた。


『もう一人、ウルスラという妹がおります』


〈……三姉妹?〉


『三つ子です』


〈……ああ、そう〉


『こうしてここへ参りましたのは、そうするようウルスラにせがまれたからです』


〈え?〉


『あとは幾許いくばくかの謝罪になればと。この間のこと、誠に申し訳ありませんでした』


〈この間……ああ、あれか〉


 三つ子だの何だのと、相変わらず話の内容は見えてこなかったが、最後の一言だけは思い当たるところがあった。


 考えてみればつい先日、俺は彼女に殺されかけたのだ。あの《作戦》の夜、漆黒の廃墟を死にものぐるいで逃げ惑った記憶は、まだ生々しく残っている。


 今さらそのときのことをどうこう言うつもりはない。ただそうなると、ここでこうして俺と平和に歯車に回っている彼女が、当然のことながら不自然に思えてくる。


〈殺さなくていいの? 俺を〉


『はい』


〈この前はあんなしつこかったのに。もう、俺を殺そうとしないの?〉


『金輪際、そのようなことは』


〈どうして〉


『状況が変わったのです。わたしどもにはもはや、貴方に舞台を降りていただく理由はなくなりました』


 表情を変えないまま淡々とベロニカ――と名告った女はそう告げた。あくまで事務的なその声にどこか寂しげなものを感じたのは、俺の気のせいだろうか。


 いずれにせよなぜあのとき彼女に命を狙われねばならなかったのか、俺は知らない。まして何の状況がどう変わり俺を殺す必要がなくなったのか、その上こんな助言ともとれる説明をながなが聞かせてくれるのか。そういう基本的なところで俺は何ひとつ理解できていない。


『それをお伝えするには、充分な時間がございません』


〈……〉


『ただ先ほど申し上げましたように、この度わたしがまかり越しましたのは、あの夜の罪滅ぼしです。父の命令とはいえ、あなたを殺めようと致しましたことへの贖罪に他なりません』


〈……ああ、そうだったな〉


『その気持ちを酌んでいただけるのであれば、わたしが先ほど申し上げましたこと、そのことにつきましてはくれぐれもお忘れ無きよう、なにとぞ宜しくお願い致します』


〈……わかったよ〉


 半ば諦めに近い気持ちで、俺はそう返した。メモをとらせてもらったわけでもあるまいし、あんな暗証番号やら何やらを交えた長い説明を忘れるなというのも無理な話だ。


 だいたいこの夢から覚めたとき、俺がそれを覚えている保証などどこにもない。そもそもが夢なのか、あるいは夢とは別の何かなのか、それすらも今の俺にはわからない。わかろうとも思わない。


 けれども、彼女がそう言うならせいぜい覚えていようと思った。


 L102室付近の暗証番号が82062、L773室のデスクには青酸の結晶……大丈夫、まだ何とか覚えている。


 何のための忠告かわからないし、いざそのときに思い出せるかもわからない。それでも、覚えていようと思った。こんな得体の知れない場所にわざわざ出向いてくれ、真剣な顔で長い話を聞かせてくれた彼女のために。


 くるくる、くるくる。


 歯車が回っている。彼女はもう何も話そうとしなかった。ひとつだけ回り続ける歯車の上によく見れば正座をして、端整な面差しをじっとこちらに向けている。表情のない顔――と言うよりまったくの真顔で、どこか値踏むように真っ直ぐ俺を見ている。


 そんな彼女の顔を眺めているうち、自分の口から軽い笑いがこぼれるのがわかった。笑おうとして笑ったのではなく、まったくの無意識に。


 だが、自分がそうしてしまった理由はわかる気がした。


 きっ、と口を結んで正面から見据えてくる顔を眺めていればどうしてもそうなる。なまじ美人なだけに真面目くさった表情をはりつけ、くるくると意味もなく歯車に回っているその姿は滑稽で、つい笑いがこみ上げてくるのを抑えられない。


 もっとも、それは彼女への嘲笑ではなかった。滑稽なのは彼女も含め、こんなわけもわからないところでわけのわからないことしている状況そのものであって、その中には当然、俺自身も含まれている。


 相変わらずぼんやりしてとりとめのない意識にも、傍目に見た自分たちの滑稽さははっきりとわかる。


 いったい何だここは――と、もう何回目になるかわからない自問のあと、乾いた笑い声を耳元に聞いた。どこか遠くから聞こえてくるような、誰のものともわからない自分の笑い声を。


 ふと、彼女の口元がうっすらとした笑みを浮かべた。そんな気がした。


 そうして瞬きもしない間に、彼女は俺の目の前から姿を消した。ちょうど少女が消えたときのように、忽然と。


 けれども彼女――ベロニカと名乗った彼女は、誰とも入れ替わりはしなかった。くるくると回る歯車の上に、もう誰の姿もなかった。


 ただひとり残された俺以外。ついにひとりきりになったこの空虚な場所に、意味もなくわけもわからず回り続ける俺だけを残して。


 くるくる、くるくる。


 歯車が回っている。他のどの歯車とも噛み合わない一枚の歯車だけが音もなく回っている。くるくる、くるくると。


 その歯車の上に、俺はくるくると回っている。もう誰もいない場所にひとり。自分が何をしているのかわからないまま。これが夢なのか、それとも夢以外の何かなのか、それすらもわからないまま。


 くるくる、くるくる。


 歯車が回っている。


 ――どうやらこれはただの夢らしい。そのことに気づいたのは歯車の上に回り続ける自分を俯瞰するように、目を覚まそうとするもうひとりの自分を感じたときだった。


 ……何だ夢か。それならもう少し話がしたかった。ベロニカと名乗った彼女と――あるいはあの少女とも。


 しまりのない意識でぼんやりとそんなことを考えているうちに、最後までとりとめなかった夢の残映はゆっくりと氷のように溶けていった――

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