216 最後まで演じきるということ(18)
薄明に廃墟が白み始める頃、俺はキリコさんの元へ帰還した。
アイネの部屋を出たあと、どこをどうたどって戻ってきたのかわからない。アジトで何人かの男たちに話しかけられた気もする。それをどうやってまいて出てきたのか、なぜ無事に出てこられたのか、それさえわからない。
駄目でした――と、部屋に入るとき短くそれだけ告げた。その言葉に、キリコさんからの返事はなかった。
暗闇の中、膝を抱え座っていた彼女は驚いたように顔を上げ、しばらく俺を見つめた。……それで終わりだった。キリコさんは何も聞かず、また部屋の隅に背を丸め、俺から視線を逸らした。
彼女が座る向かいの角に、俺も同じように腰を降ろした。そうしてぐったりと壁に背もたれ、手足を投げ出して深い息を
……疲れた。全身がばらばらになるような脱力の中で、俺はそう思った。
最後に寝たのはいつだったか……もうまる二日ほど寝ていないのではないだろうか。目を覚ましてからここまでの間にもう何日も……もう何年も経ったような、そんな気がする。
「……」
――決定的な破局があった。舞台の鍵を握る主演に違いなかった、もう一人の俺の死。
そこから予想もしなかった次の舞台が立ち上がり、そこでまた破局……。
展開が急すぎる。物語の振り幅が大きすぎる。こんなことでは客は置いてけぼりだ。あんぐり口を開けて眺めるか、席を蹴立てて帰ってしまう――
「……どうして駄目だったんだい?」
「え?」
不意にキリコさんからの声だった。小さく背をまるめてうずくまり、俯いてこちらを見ないままの。
どこか怯えたようなその声には生気が感じられなかった。その声が、ちょうど別れ際のアイネのものとよく似ているとそんな意味のないことを考えながら、頭の中に質問の答えを探した。
「アイネにばれました」
「……」
「他は騙せたけど、アイネは騙せなかった。それだけです」
「……そうかい」
つまらないことを聞いてしまったとでも言いたげな、いかにも気のない返事だった。
それでまた会話が途切れた。キリコさんは再び口を閉ざし、それ以上なにも聞いてこようとはしなかった。
あそこであったことを、俺はもっと詳しくキリコさんに話すべきなのかも知れない。そんなことを思うもう一人の自分を、疲弊しきった頭でぼんやりとやり過ごした。……確かに、そうすべきなのかも知れない。けれどもそうするには、今の俺はあまりにも疲れ過ぎている。
「俺、まだまだでした」
「……」
「ひとつの役を最後まで演じるのがこんなに難しいなんて、知らなかった」
弾かれたように頭をあげ、信じられないものを見るような目でこちらを見るキリコさんの姿が目に入った。
言ってしまってから、あのときもう一人の俺が口にした言葉と同じ言葉を自分が口にしていたことに気づいた。……だがそれも、こちらの真意を探ろうとするようなキリコさんの顔も、今の俺にとってはどうでもよかった。
――ただ、疲れた。まるで一生の間に踏むはずだった全ての舞台をこの一日でまとめて踏んできたようだ。
……実際、そのとおりなのかも知れない。役者としての自分が焼き尽くされてしまったような……もう二度と舞台に立てないような、そんな暗い予感さえする。
そんなことを考えずにはいられないほど、俺は疲れ果てていた。……もう眠りたかった。舞台のことも何もかも忘れ、今はただ眠りたい。
そう思って背中を丸め、膝を抱えた両腕の間に頭をうずめた。そこへ、またキリコさんからの声がかかった。
「……ハイジは、ここを演劇の中だと思ってるのかい?」
「え?」
「前に言ってたじゃないか。もう一人のあんたは、ここを演劇の中だと思ってるって」
「……」
「それってつまり、あんたがそう思ってたってことだろ?」
「……まあそうですけど」
「今も思ってんのかい?」
「……」
「ここが演劇の中だって、今でもハイジはそう思ってるのかい?」
「……どうだろ」
そう返事をしてから、よく動かない頭でキリコさんの質問について考えた。なぜ彼女がそんなことを聞いてきたかわからないが、それは重要な質問だと思った。
俺は今もここを演劇の中だと思っているのか。
その質問に、俺はすぐに答えを返すことができない。……前はできた、あの研究所の一室に、キリコさんの見守るなか目を覚ましたばかりの頃は。
けれども、今はできない。ここを演劇の中だと思っているのかという質問に、今の俺はすぐにひとつの答えを返すことができない。
「……」
……どうしてそうなってしまったのだろう。そのことについて、俺は真剣に考え始めた。
最初はここが演劇の中の世界であることを信じて疑わなかった。そしてその信じる気持ちが、今まったく消えてなくなってしまったと言えば嘘になる。
実際、ここが演劇の中であると考えなければ説明がつかないことが幾つもある。弾丸の入っていない銃で人を撃ち殺せること。何より俺の他に、もう一人の俺などというものが確かに存在していたこと。
だがその一方で、今の俺はここが演劇の中の世界であることを子供のように信じきることはできない。その理由をはっきりとは言葉にできない。理屈ではなく、感情でそう感じている。
そしてそれ以上に、もうそんなことはどうでもいいと考える自分がいるのをはっきりと感じる。
……そう、もうそんなことはどうでもいい。ここが演劇の中の世界であろうがなかろうが、そんなことはもうどうでも。
キリコさんの質問に今、自分の中で返せる答えがあるとすればそれだと思った。そう返事をしようと口を開きかけた。だがそれよりも先に、キリコさんから声がかかった。
「……逃げちまおうか」
「え?」
「どこかへ逃げちまおうか、二人で」
「逃げるって……どこへ?」
唐突なキリコさんの言葉に、ほとんど素のままで俺はそう返した。
そんな俺の質問に、こちらの顔色を窺うような薄笑みを浮かべていたキリコさんの表情が凍りつくのが見えた。そうして俺の視線から逃れるように、再び目を逸らした。キリコさんがそうしたわけが、俺にはわからなかった。
それでまた会話は途絶えた。もうさっきの質問への返事を返そうとは思わなかった。
……なぜだろう、急にまた疲れがきた。そしてそれ以上に、俺は空虚を覚えた。疲れ切った手足を投げ出し、だらしなく壁に背もたれ、眠りに落ちることさえできない俺の中にあるものは、ただ茫漠とした空虚だった。
――それは紛れもなく空虚だった。ちょうど窓の外にゆっくり白んでゆく、風さえない廃墟の風景にも似た。
眺めるともなくただぼんやりとその風景を眺めているうち、か細いすすり泣きの声が俺の耳に届き始めた。
しばらくそれを聞き続けたあと、俺は立ち上がり、部屋の隅で小さく肩を震わせている人に歩み寄った。傍らに寄り添って腰を降ろし、その肩を抱き寄せた。
力のない身体は抱き寄せるまま俺にしなだれた。そうして俺は、また窓の外に白みゆく風景を眺めた。
――舞台は終わった。改めてそのことを思った。
自分がいま眺めているのが、その終わった舞台の風景だと思った。舞台が終わった翌日の、片付けのために集まった朝。窓から射す陽の光の中に客の残していったビラの束や、板目の傷や薄汚れをあらわにする、魔法のとけた舞台。
舞台は終わった。
主役は早々に降り、代役は力及ばず退場を余儀なくされた。プロットは途切れた。
舞台は終わった。もう、舞台などどこにもない。
――だったらなぜ、この世界は崩れ落ちないのだろう。冗談でも何でもなく、真面目に俺はそう思った。舞台が終わったのに、なぜこの世界はまた続いているのだろう。
これが隊長の言っていた『残酷演劇』とやらだとしたら、そろそろ空が音を立てて崩れてきてもいいはずだ。それなのにまだこの世界が何事もなく続いているのはおかしい。
荒唐無稽な発想であることはわかっている。それがわかっていても今の俺には、この世界が終わらずに続いていることが不条理に感じられる――
「……っ、……っ」
迷路に入りかけた疑問は隣からの嗚咽にかき消えた。気がつけばキリコさんは激しく肩を震わせて泣いていた。必死に声を殺すように……けれども殺しきれずに。
そこでふと、俺は自分に与えられた本来の役について思い出した。
あの日――あの日曜日の舞台で俺が隊長から与えられた役は《兵隊》だった。隣で泣くこの人の手足となり働くこと。その役に関する裁量はすべてこの人にある。この人の言うがままに、命じるがままに動く《兵隊》となること。
それが、俺に与えられた本来の役だった。
はっきりと明るくなってきた窓の外の光景を眺めながら、昨日までこの世界にいたもう一人の俺を思った。今もあの場所で、冷えきった裸の骸を晒しているだろうもう一人の俺。その彼がこの世界で演じようとした――演じていた役のことを思った。彼が演じていたのも《兵隊》だった。《盗人》であるアイネの相棒としての。
今だからこそ言える、彼の演技は凄かった。
キリコさんからの話で聞いたそれ、そして自分の目で実際に見たその演技は、鳥肌が立つほど素晴らしかった。彼は、演じていた。この世界でその役をしっかりと演じていた。
そして、演じきった。――そう、彼は演じきったのだ。その役を引き継いだ……引き継ぐことができなかった俺にはそれがわかる。
彼は、その役を演じきった。自分に与えられた役を最後まで演じきり、舞台を降りた。その役を最後まで演じきり、堂々とこの世界から去っていった。
――ならば、俺も最後まで演じきろうと思った。
自分に与えられたこの役を、もう一人の俺と同じように最後まで。あの空が落ちてこない限り。この世界が続く限り。俺がこの世界に立ち、こうして息をし、存在し続けている限り。
窓の外には陽の光が濃い影をつくり始めていた。その光景は、やはり俺の目に酷く空虚なものに映った。動くもののない、風さえ死に絶えた風景――その中に、ふと懐かしいにおいを嗅いだ気がした。それは雨のにおいだった。
――雨?
気のせいだと思った。腕の中でいよいよ激しく肩を震わせている人の、涙のにおいだと思った。
疲労は極限に達していた。けれども、眠りは訪れなかった。キリコさんはいつまでも泣きやまなかった。
ひりつくような激しい決意を胸に、だがそれよりもなお虚ろにぽっかりと心に穴があいたような気持ちで、俺はただぼんやりと窓の外を眺めていた。
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