215 最後まで演じきるということ(17)
――その一言で、すべてが終わったことを俺は理解した。
今まさに始まったばかりの舞台は、早々に終わりを告げた。……何ともあっけない幕切れだと思った。自分がどこで踏み違えたのかわからない。だが、結果がすべてだった。
芝居は終わった。役者としてのプライドを懸けて臨んだこの即興劇の舞台は、筋も定まらないうちに無様な結末を迎えることとなった。
「あんた、誰?」
ぐったりと力が抜け、言葉を出すこともできないでいる俺に、アイネはもう一度その問いを繰り返した。
……あるいは立て直すこともできたのかも知れない。最初の質問に、心底驚いたような目でアイネを見返す。そして言い放つ。ただ一言「は?」その演技ならば、あるいはアイネの心証をひっくり返すことができたかも知れない。
そんなことを考えながらも、俺にはわかっていた。アイネに銃を向けられた時点で、すべては終わったのだと。……いや、それ以前にわずかでも疑われた時点で。
少し考えればわかることだ。ほんのわずかでもアイネに疑いを持たれた瞬間、この即興劇の舞台において俺が演じていた役――演じるべきだった役は崩壊していたのだ。
「……撃ちたきゃ撃てよ」
喪心に似た思いで、俺はそう吐き捨てた。
その言葉に、グロックをこちらに向けるアイネの腕がわずかに上下するのが見えた。能面を貼りつけたような顔にはっきりと不審の色が現れ、苛立つような目が俺を睨んだ。
そんなアイネの姿を、自分でも驚くほど醒めた頭で俺は眺めるともなく眺めた。
……もうどうでもよかった。すべては終わったのだ。いっそその銃で撃ち殺して欲しい。脅しでもポーズでもなく、今すぐにここで。
本心からそう思い、いっそこちらから頼んでみようかと口を開きかけたところで、
「あなたは、誰?」
「……見りゃわかるだろ」
「わからないから聞いてる」
「俺は俺だ。ハイジだろ。どっからどう見ても」
「違う。ハイジじゃない」
「……」
「ハイジに見える。けど、ハイジじゃない」
「……」
「あなたは違う。わたしの知ってるハイジじゃない」
自分の中の迷いを断ち切るように、決然とした声ではっきりとアイネはそう告げた。率直で飾りのないその物言いがいかにもらしいと思い、アイネはやはりアイネなのだと改めて感じた。
――そして、やはりこれですべてが終わったのだという思いを新たにした。
こうなってしまったアイネを説得できる演技などない。少なくとも、俺にはできない。頑固で融通がきかない、誰よりも一途で一本気なこの人を最後まで騙しきるような演技は――
「……ハイジでないなら、俺はいったい誰なんだろうなあ」
何も考えられない頭に、浮かんできたままの思いを口にした。
その瞬間、言いようのない寂しさがふと胸の奥に湧きおこるのを感じた。それはちょうどこの部屋に向かうとき、脱隊の意思を伝えようとするラビットを前に覚えていたものと同じ種類の寂しさだった。
……喪失感、と言い換えてもいいかも知れない。なぜおこったのか、どこから来たのかもわからないその寂しさに、俺はもう抗おうとはしなかった。
俺はただ、寂しかった。アイネに銃を向けられていることでも、舞台が終わってしまったことでもなく、ここにこうしていることが……自分の存在そのものが、ただ寂しかった。
「……なあ教えてくれよ。ハイジでないなら、いったい誰なんだ俺は?」
俺のその質問に、アイネは答えなかった。グロックの銃口をこちらに向けたまま、彫像のように動かなかった。
どれほどそうしていただろう、やがてアイネの方で口を開いた。「ハイジはどこ?」と、小さな声で口ごもるように呟いた。
「教えて。ハイジはどこ?」
「……」
「わたしの知ってるハイジはどこ?」
「死んだよ」
「……」
「アイネの知ってるハイジは死んだ」
そう答えると、アイネの顔から再び表情が消えた。
こちらに向けられた銃の先がまたわずかに上下し、次いでもう片方の手がそこに添えられた。右手の人差し指はトリガーにかけられている……あとはその指を少し引くだけだ。
本心から、今すぐアイネがそうしてくれることを願った。けれどもそのトリガーを引く替わりに、アイネの口からまた重苦しい言葉が漏れた。
「あなたが、殺したの?」
「……違う。俺じゃない」
「なら、誰が殺したの?」
「女だ。エツミ軍曹って名前の」
「誰? それ」
「……」
「あなたの仲間?」
「……仲間だった」
「……」
「けど、今は違う。仲間じゃない」
「……」
「もう仲間じゃない。あんたの相棒だった俺を殺したことでその女は俺の――俺たちの敵になった」
それでまた会話が途絶えた。廃墟の夜の底に、長い沈黙があった。
まっすぐ伸ばした腕の先にグロックを構えたまま、表情のない顔でアイネはじっと俺を見ていた。そんな彼女の姿をぼんやりと眺め返しながら、なぜ俺はまだここにいるのだろうと改めてそのことを思った。
舞台はもう壊れた。少なくとも俺という役者にとって。俺に与えられた役は崩壊した。それだけはもうはっきりしている。
……なのに役を失った哀れな役者が、なぜいつまでも晒し者のように舞台に居残っているのだろう? 居残っていなければならないのだろう?
「……」
そう思い、大きく息を吐いた。……いずれにしても潮時だった。この舞台における俺の役は終わった。ならばいつまでもここに居残っているわけにはいかない、早くこの舞台を降りなければならない。
ただ俺がこの舞台から降りるには、アイネにあの銃のトリガーを引いてもらうしかない。
何の根拠もない、それは確信だった。俺がこの舞台から退場するには、アイネに撃ち殺してもらう以外に方法はない。
そんな思いで、俺は自分に向けられた銃口をじっと見つめた。けれども時が止まったような藍色の闇の中に、彼女はいつまでもそのトリガーを引こうとはしない。
「誰なの?」
長い沈黙のあと、アイネは思い出したようにもう一度その質問を口にした。耳を澄まさなければ聞きとれない、呟きにも似た小さな声で。
「あなたは、誰?」
もう一度繰り返した。すべてを諦めたような溜息にのせて、わずかにかすれた力のない声で。
その声に、俺は今度こそ堪らない寂しさを感じた。さっきまで感じていたそれの何倍もの強さで。どこからきた寂しさなのかもわからないまま。
……早く撃ち殺してほしかった。渇望するようにそう願う俺の気持ちなど知らずに、アイネはまたその質問を繰り返した。
「あなたは、誰?」
「……ハイジだよ」
「……」
「俺はハイジだ。あんたの相棒になるかも知れなかった。けどならなかった、もう一人のハイジ」
そう言って、俺は溜息を
……何もかもどうでもよかった。キリコさんが果たそうとしていた壮大な計画も、この無軌道な劇とも呼べない劇がこの先どんな方向へ転がってゆくのかも。
いずれにしたところでもう俺の役は壊れ、本来ならとっとと舞台裏へ引っ込まなければならない身だ。それだけは間違いない。
ただ、それならばアイネに全てを伝えてもいいのではないか。
ふと天啓のように浮かんだその考えは、瞬く間に俺の内側をいっぱいにした。そうだ。俺はアイネに伝えてもいいのではないか。自分が知っている全てを。ここに辿り着くまでの間に俺が知り得た全てのことを――
「……っ!」
そう思って口を開きかけたとき、胸のあたりに錐のような痛みを覚えた。一瞬、撃たれたのかと思った。けれども、撃たれたのではなかった。
正体がわからないその痛みを無視して、アイネの質問に答えるために俺は口を開いた。
「アイネは覚えてないんだな、ここへ来る前のこと」
「……」
「俺が誰かなんて、そんな質問が出るってことはさ」
返事はなかった。薄目を開けて見ると、相変わらず表情のない顔で銃口をこちらに向けるアイネの姿があった。
それだけ確認して俺はまた目を閉じた。それからまた溜息を
「俺は覚えてる。ここへ来る前のこと。こんな何もない場所じゃない。水も緑もある、平和な場所だった。そこで俺たちは――俺とアイネは一緒に演劇をやってた。……ああ、演劇じゃわからないか。自分が自分じゃない人間のふりをして、ひとつの物語を作っていく催しのことだ。その演劇ってのを、俺たちは一緒にやってた。
「ただ、普通の演劇じゃない。普通の演劇には台本ってのがあって、台詞や動きが前もってぜんぶ決まってる。けど、俺たちがやっていたのは違う。即興劇っていって、台本も何もない演劇だ。簡単なプロットだけ決めて、あとは流れに任せる。ひとりひとりの役者が自分の頭で考えて、演じ合うことで物語を作ってゆく。
「もちろん支離滅裂なものになることもある。それでも必死に考えて、どうにか形になるように創りあげてゆく。それが即興劇だ。俺とアイネはそれをやってた。即興劇団ヒステリカ。それが俺たちのいた劇団の名前。ここへ来る前、俺たちは仲間で、そのヒステリカっていう劇団で、毎日演劇の練習をして、同じ時間を過ごしてた」
そこまで話したところで、自分の声が湿り気を帯びていることに気づいた。すん、と鼻をすする音。アイネのものではない、自分のものだ。頬をたれ落ちた冷たいものが顎を伝い、首筋まで流れている。
……ああそうか、俺は泣いているのだ。
他人事のようにそう思った。大きく鼻をすすり、頬を伝う涙を乱暴に袖で拭ったあと、俺はなおも続けた。
「ここに来る前、俺たちはひとつの舞台の準備を進めていた。ペーター……ってのが入って初めての舞台で、それまで三人でやってたのが四人でできることになったから、みんな気合い入ってた。ああ、四人ってのは俺とアイネと、そのペーターってのとキリコさんの四人。その四人が役者だった。その四人で舞台に立って、さっき言った即興劇をする。そういうことになってた。
「ただ気合いが入ってた理由はそれだけじゃない。その舞台が終わったらキリコさんと隊長……まあ隊長でいいか。キリコさんと隊長が抜けて、俺が新しい隊長になることになってた。だから、その舞台は俺たちが四人で立つ最初で最後の舞台だった。そういう節目の舞台だった。だからみんな気合い入ってたし、絶対に成功させようと必死で頑張ってた。そんな舞台だった。
「けど、その舞台の本番まであと少しってとこになって、おかしなことが起こり始めた。舞台の関係者が一人ずついなくなって、どこを探しても見つからなくなった。まずリカが消えた。その次がアイネ……そう、アイネが二番目だった。それからペーターが消えて、DJが消えて、最後にキリコさんが俺の目の前から消えた。そうして誰もいなくなった。舞台が始まる前に俺を残して……いや、俺と隊長を残して。
「でも、実はみんな消えたわけじゃなかった。舞台当日、会場に行って、それがわかった。会場には隊長がいた。照明とか、舞台の準備をしていて、これからやるっていう舞台のこと――ここでのこと、この廃墟でのことを初めて教えてくれた。そこで俺にみっつの役が与えられた。ひとつめはペーターの相手役、ふたつめはアイネの相手役。みっつめはこの俺が
「一人三役なんて無理だって、そう隊長には言った。けど隊長にはできるって言われた。向こうに行ったらそれがわかる、って。今はその意味が……隊長の言ってたことの意味が理解できる。俺がみっつの役を演じるんじゃない、みっつの役が俺を演じるんだ。この舞台はそういう舞台だった。そう考えれば俺はここまでよくやってきたと思う。ペーター相手の俺のことは知らないけど、ここまでどうにかキリコさんにつきあってきた俺も、あんたの相手をしていたもう一人の俺も。
「その役を取り替えろ、ってキリコさんは言った。退場したもう一人の俺――あんたの相棒だった俺の代わりに、その役を演じろって。正直、怖かった。できるわけがないと思った。……けど、逃げられなかった。役者の端くれとして、今日まで曲がりなりにも演劇にかけてきた演劇ばかの一人として。自分で自分を演じる役に、背を向けて逃げるわけにはいかなかった。
「……だから、ここへ来た。どうにかしてその役を演じようと思った。あんたの相棒だったもう一人の俺に成り代わって、ここの人達をこの廃墟の外へ連れて逃げる。その役を果たそうと思った。けど、駄目だった。あんたは騙せなかった。他の誰を騙せても、アイネだけは騙せなかった。アイネを騙しきる演技は、俺にはできなかった。あんたの相棒だったもう一人の俺を最後まで演じきることが、俺にはできなかった。
「けど、俺は俺なんだよ。俺は俺だ、それは間違いない。あんたの相棒だった俺と同じ、即興劇団ヒステリカのハイジだ。……それ以外の何者でもない。さっきの質問に答えるなら、そうなる。俺はハイジだ。他の誰でもない。あんたのよく知ってる、あんたの相棒だったハイジで――だから何回聞かれたって、信じてもらえなくたって俺はそう答えるしかない。俺はハイジだ――」
……俺はいったいアイネに何を認めさせようとしているのだろう。自分がハイジだという主張を繰り返しながら、妙に醒めた頭でぼんやりそう思った。
話が途切れ、宙ぶらりんの言葉が廃墟の夜の闇に溶けた。
頬を伝っていたものはもう乾いていた。ただ、虚しさだけが残っていた。長い独白を終え、折からの寂しささえどこかへ消えた俺の中に残ったものは、全身に脱力を覚えるほどの深い深い虚しさだった。
「撃ってくれよ」
「……」
「撃ってくれ。俺の舞台は終わった」
腹の底から絞り出すように、そう言った。
言いながら、どこか諦めをにじませた微笑みを浮かべている自分を感じた。何のための微笑みかわからない。けれどもこの場面で曲がりなりにも微笑みを浮かべていられるのなら、少なくともある種の尊厳をもってこの舞台を降りることができる。そう思った。……もっとも、あのもう一人の俺とは比べるべくもないけれども。
だがアイネはトリガを引かなかった。腕の先に構えたグロックの銃口を真っ直ぐこちらに伸ばしたまま、表情の消えた顔で彫像のように固まっていた。その目は、もう俺を見つめてはいなかった。向かいの壁からぼんやりした眼差しが、俺ではないどこかを見ていた。
その眼差しに、自分が取り返しのつかないことをしたのだと悟った。
後悔が一瞬で俺の意識を埋め尽くした。……してはならなかったのだ。あんな話などしてはならなかった。あんな話などせず、もっと早くこの舞台を降りるべきだった。
あんな話をしたばかりに、俺は自分ばかりかアイネの役まで壊してしまった。……それがわかった。自分のことのようにはっきりと、俺にはそれがわかった。
「撃ってくれよ」
「……」
「早く撃ってくれ、頼む」
夜気は急速にその熱を失い始めていた。さっきまで頬を伝い落ちていた寂しさは、ちょうどその夜気のように乾ききったものに変わり、けれどもまだ消えることなく俺の中にあった。
その寂しさと、語るべきでないことを語った後悔とに押し潰されそうになりながら、ただひたすらにひとつのことを願った。
――俺の言葉に彼女が応えてくれることを。俺の言葉に応え、あの銃のトリガーにかけた指をアイネが今すぐに引き絞ってくれることを。
「あなたは、誰?」
だがそうする代わりに、アイネはまた同じことを俺に問いかけた。弱々しく小さな声で――独り言のようにぼんやりした、ぞっとするほど虚ろな声で。
その問いかけに、俺はもう応えなかった。ただじっとアイネを見つめ返した。こちらに向けられた彼女の目を。……もう俺を見つめてはいない、どこか遠いところに向けられたその目を。
どれほど時間が経っただろう。永遠とも思える長い長い沈黙のあと、ゆっくりとアイネの唇が動くのが見えた。
「消えて」
抑揚のない低い声で、アイネはそう告げた。その言葉に、俺は応えなかった。いつまでも動かないでいると、アイネからまた声がかかった。
「消えて」
「……」
「早く。今すぐここから消えて」
書かれたものを無機的に読み上げるような、平坦でのっぺりした声だった。
その言葉に俺は床に腕をつき、立ち上がるために腰を浮かせた。……そうする間に、彼女が俺を撃つことを期待しながら。
立ち上がり、アイネに背を向けた。さっき通ってきたばかりの、錆の浮いた重々しい鉄扉のノブに手をかけた。ゆっくりと回した……開いた。月光の届かない暗闇の通路へ、一歩を踏み出した。
ただそれだけを願いながら。アイネが俺の背中に向けグロックのトリガーを引いてくれること……それだけを心に願いながら。
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