214 最後まで演じきるということ(16)

「……ただいま」


 扉が閉まる重々しい音を背後に聞きながら、そんな気の抜けた挨拶を交わした。


 アイネは向かいの壁に穿たれた四角い穴の下に、壁に背もたれて座っていた。穴から射し込んでくる淡い月光の中で、何か銃のようなものを手なぐさんでいる。


 俺が部屋に踏み入ってもその目はこちらを見ない。月明かりの逆光に、その顔がどんな表情をしているのかわからない。


「話はついたの?」


「……え?」


「例の件」


「ああ……まあ、ついたと言えばついた」


 そう相づちを打ちながら俺はその場に腰を降ろした。


 アイネの言う『例の件』が何をさしているのかは察しがついた。その件についてキリコさんと掛け合うために、はこの部屋を出たのだ。


 そのことを思い、我知らず深い溜息が出た。それが何のための溜息かわからないまま、真向かいに座っているアイネの姿を眺めた。


「どうするんだって?」


「……引き渡せってさ」


「どういうこと?」


「キリコさんの方で面倒見るから、全員まとめて引き渡せって」


「……そう」


「正直、納得できたわけじゃない。引き渡したあとのことも延々話したけど、不確定な要素が多すぎる」


「……」


「……けど、これ以上はどうしようもない。結局、キリコさんに頼る以外に、あの女たちをどうにかするうまい方法なんてないんだ」


「……いいんじゃない? それで」


「え?」


「それでいいと思う。ハイジがそれでいいなら」


 依然としてこちらを見ないまま、いかにも素っ気ない口調でアイネは言った。


 始まったばかりの演技は、その一言で腰を折られた。


 ただ、俺の方ではそれで肩の力が抜けた――何も構えることはない、アイネはアイネなのだ。そう思ってまたひとつ溜息をつき、目を閉じのけぞって壁に背もたれた。


「……いいとは思ってない」


「……」


「そうするしかない、ってだけの話だ」


「……」


「いいなんてちっとも思ってない。ただ、そうするしかない。……そうするしかないんだ」


 乾いた夜気がどこからか吹き込んでくる。瞼を閉ざしたままの顔にそれを感じながら、俺は独り言のように呟き続けた。


 不本意にもキリコさんのプランを自分に言い聞かせるように何度も、何度も。


 アイネからの返事はなかった。ただかちゃかちゃという音が所在なく響いていた。


 だがしばらくして思い出したように、もう一度さっきと同じ「いいんじゃない?」という声が耳に届いた。


「……」


「そうするしかないんでしょ? なら、そうするしかないじゃない」


「……」


「わたしはそれでいいと思う。そうするしかないなら、そうすれば」


 薄目を開いてアイネを見た。だが、アイネの目はこちらを見なかった。その視線は手元に落とされたまま、未だにこちらを見ない。


 あぐらをかき、背中を丸めて作業に没頭するその姿は、俺のよく知る何かに熱中しているときの彼女そのものだった。素っ気ない――と言うより興味がないと言わんばかりのその態度に、さらに肩の力が抜けるのを覚えて、俺はまたひとつ溜息をついた。


「……」


 淡い月明かりの中に、アイネの髪が揺れている。窓から吹き込んだ穏やかな風が、向かいの壁に背もたれる俺の頬を撫でてゆく。


 急速に冷えてゆく大気は、けれどもまだ昼の名残の熱をほのかに残している。暖かいとも涼しいとも言えないその微妙な熱は、ちょうど春の初めの宵のようだ、とそんな場違いなことを思って、薄く開いていた目をもう一度閉じかけた――そこに声がかかった。


「――撃たれたの?」


「え?」


 反射的に声のした方を見た。そこで初めて、アイネと視線が合った。


 銃をまさぐっていた手を止めて顔を上げ、窓からの月明かりを背に咎めるような目で真っ直ぐにこちらを見ていた。


「血の臭いがする。どこか撃たれた?」


 まったく想定していなかった問いに、返事ができなかった。


 血痕はあとかたなく消した。何度も水で洗い、昼間の灼熱でからからに乾かした。血の臭いなどするはずがない――いや、問題はそんなことではない。


 すぐに答えなければならない。今すぐに答えを返さなければ。


 だが、どんな答えを?


 時間はなかった。それでも俺は小さく息をき、胸の奥で慎重にその答えを選んだ。


「……まあ、撃たれたといえば撃たれた」


「誰に?」


「そんなの知るか。撃ったやつに聞けよ」


「だから、それは誰?」


「わからない。誰に、どこから撃たれたのかも」


「いつ?」


「キリコさんとこに向かうとき」


「どこで?」


「どこだろう。よく覚えてない」


「どこを撃たれたの?」


「腹。というか脇腹だ。へその横あたり」


「……」


「たいした傷じゃない。というか、かすっただけだし、血もそんなに出てない」


 内心の動揺を抑えつつ、ひとつひとつ答えを選んだ。


 血は出たのだから浅傷あさでではない、けれどもここまで平然としていた手前、深傷ふかでであってはならない。姿の見えない敵に物陰から狙撃されたのだとしたら、きっとそういうこともあり得る。


 俺を狙撃する動機を持つ者はいる……そう、少なくとも一人。軍曹にしてみれば、何もあそこで交渉が決裂するまで待つ必要などなかったのだ。


 だから俺がキリコさんのもとへ向かうとき誰かに撃たれたとしても、それは決してあり得ない話ではない――


「黙ってるつもりだった。心配させたくなかったから」


「……」


「それにもう半分忘れてた。撃たれたのはだし、そのあとが過ぎたから」


「……」


「まあさすがに撃たれたときは混乱したけどな。後先考えず逃げて、危うく道に迷いかけたし」


「……舐めようか」


「え?」


「傷口。また舐めた方がいいなら、そうするけど」


 思わずアイネを見た。月明かりを背にあくまで生真面目な表情が、じっとこちらを見つめていた。


 最初は何を言われたのかわからず、だがすぐに心臓が大きく跳ね上がった。……さすがに言葉が出なかった。いったいはアイネになにをさせていたというのだ。


 ふと、去り際にラビットが残して言った言葉が蘇った。


 おめえはあいつと、まだやってねえのかよ――


「……しなくていい、そんなこと」


「……そう」


「言っただろ。撃たれたのは行くときだって。キリコ先生に診てもらったから大丈夫」


「……舐めてくれたの?」


「は?」


「キリコ先生が舐めてくれたの?」


「違うって……から離れろ。あの人は医者だろ。手当てしてもらったんだよ、ちゃんと。だから、もう何ともない」


 そう言って俺は上衣をまくりあげ、裸になった脇腹を軽く叩いて見せた。


 傷痕きずあとがまったくないのは不自然な気もしたが、における医学の常識からすればそうであってもおかしくないと思い直した。歩けないほどの捻挫が一晩で治ったのだ。朝つけられた銃痕が夜に消えていて何の不思議がある?


 そんな俺の考えが正しかったのか、あるいは暗くてよく見えなかっただけか、アイネはつまらなそうに俺から視線を逸らし、手元にそれを落としてまた銃をまさぐり始めた。


「……クスリ、貰ったんだね」


「え?」


「クスリ。キリコ先生から貰ったんじゃないの?」


「……ああ、飲まされた」


「おかしいと思った。腕もあがってるし」


「腕?」


「一昨日の」


「……ああ」


「治ったんでしょ。クスリ飲んだなら」


「……そうだ」


 腕……腕がどうしたというのだろう。


 は腕を痛めていたのだろうか? だがあのときのにそんな様子はなかった。腕に何か問題があるようには見えなかった。この服を剥ぎ取ってその下に見た裸体――既に冷たくなりかけていた青白いその裸にも。


 右か左かもわからないその腕の支障がどんなものであったのか、もう知るよしもない。それがキリコさんのクスリとやらで治るものなのかどうか。そのクスリとやらが一体どんなものなのか、それさえも……。


「……本当のこと言うと、やばかった」


「……」


「キリコさんの所に着いたときはもうほとんど意識がなくて、あのままだったら死んでた」


「……」


「誰だろうな、本当に。俺を殺して得するようなやつが――」


「だから」


「え?」


「だからわたしもついて行くって、そう言ったのに」


 アイネはそう言い、はっきりと怒りを孕んだ目でこちらを睨んだ。


 燃え立つようなその眼差しから反射的に逃れたのは、俺がその言葉を無視して一人で行ったからでは、もちろんない。


 ――アイネの言葉を無視して一人で行ったもう一人の俺。


 その眼差しが物語るほど彼女が大切に思うもう一人の俺が、もうここにはいないという事実から目を逸らさずにはいられなかったのだ。


「……仕方ないだろ。そう言われたんだから」


「……」


「一人で来いってキリコさんに言われた。だから、そうするしかなかった」


「……そうだけど」


「俺だって、できればアイネと行きたかった」


「……」


相棒バディ残して一人でなんて行きたくなかった」


「……そうだよね、ごめん」


「……」


「ハイジの気持ちも考えないで、ごめん」


 押し殺したようなその言葉に、もう一度アイネを見た。どこか不満そうな、だが言葉通り心底申し訳なさそうな視線を残して、今度は彼女の方で目を逸らした。


 そうしてアイネはまた中断していた銃の手入れに戻る。ちょうど俺がこの部屋に入ってきたときのように。


 そんな彼女の姿に、遅れていた冷や汗が背筋を伝い落ちてゆくのを感じた。


 どうにか辻褄があった……しかし、危なかった。一歩踏み間違えば音をたてて崩れ落ちる舞台。自分が立っているのがだということを改めて思い知らされた。


 ……いや、おそらく初めて知ったのだ。一歩踏み間違えば音をたてて崩れ落ちる舞台に自分が立っているのだということを、今初めて言葉ではなく実感として理解した。


 凄まじい舞台だと思った。見たことも聞いたこともない、身の毛もよだつような凄まじい舞台――


「……アイネが謝る必要なんてない」


「……」


「撃たれた俺が悪いんだ。そういう場所だろ、ここは」


 ――けれども、立ち竦むことは許されなかった。


 どれほど凄まじい舞台であろうとも、俺は踊り続けなければならなかった。踊るのをやめて立ち竦んだとき、やはりこの舞台は音を立てて崩れ落ちる。


 それに……そうだ。この舞台に立ち続ける限り、決して忘れてはならないこと。


 こそが俺の求めていた舞台なのだ。に立つことを望んだのは、他ならぬ俺自身なのだ。


 アイネはそれ以上何も問い質してはこなかった。そんな様子を認めて俺は内心に溜息をつき、小さく膝を抱えて座り直した。


 ……危うく舞台を壊しかけたことからくる緊張は消えなかった。だが、ことこの場面において、緊張して身構えていることが正しい演技とは到底思えなかった。この殺伐とした廃墟にあって――あるいはこのアジトの中においてさえも、俺がこうして肩の力を抜いてくつろげる、ここが唯一の場所に違いないのだ。


 そんな理由を思って俺はあえて全身の力を抜き、何も考えずぼんやりとアイネの方を眺めた。相変わらず背を丸めて屈み込み、かちゃかちゃと小さな音を立てて銃を手なぐさむその姿は、俺のよく知る彼女のそれに他ならなかった。


 そんなアイネの姿を眺めるうち、徐々に元通り心が落ち着いてくるのがわかった。少し冷静になれと、見慣れた仲間の姿がそう言っている……そんな気がした。


 ――張り詰める必要などない、演技のために無理に力を抜くことも。こちらに気を払わず黙々と作業を続けるアイネの姿が、俺にそう言っている気がした。


 それで、吹っ切れた。なるようにしかならない、そう思った。


 それに……そうだ。俺が相手にしているのはアイネなのだ。たとえこの得体の知れない舞台にそれぞれの役をもって立っているのだとしても、俺が俺であるように、アイネはやはりアイネなのだ。


 互いに言葉のないまま、しばらくそうしていた。ただ膝を抱えて座り、作業を続けるアイネをぼんやりと眺めていた。


 風が吹き込んできていた。まだ冷めやらない鈍い熱を孕んだ、春の宵を思わせる穏やかな風。微睡むようなその風に心地よいものを感じ始めたとき、ふと思い出したようにアイネが口を開いた。


「これからどうするの」


「え?」


「問題は片付いたんでしょ、一応」


「……ああ」


「だったら、これからどうするの。動かないといけないんじゃないの? それが片付いたなら」


 手入れが終わったのだろう、銃にマガジンを押し込んでそれを月明かりにかざしながら、アイネは言った。ほの暗い中にもよくわかる、アイネ愛用のグロックだった。


 遠い昔――二月ふたつきばかり前に俺がお下がりで譲った、少し弾のが悪い小さな銃だ。その銃を眺めながら、やはりアイネはアイネなのだと思った。


 さっきとは違う溜息をひとつき、大きくひとつをして頭の裏に両手を組んだ。


「連絡待ちだ。とりあえずは」


「……」


「キリコさんからの連絡待ち。引き渡しの準備ってのが調うまで待つしかない」


「……」


「ああ……《鉄騎》の訓練はするけどな、その間に。まだまだ下手なやつが多いし、ちゃんと操れるようにしておかないと」


「……そう」


 気のないアイネの返事を聞き流しながら、いずれにせよとりあえずはそうするしかないと思った。


 ……実際のところはキリコさんからの連絡などこない。彼女は俺なしではここに電話をかけてくることができないからだ。ただ、キリコさんからの連絡を待っていることにすることで、しばらくの時間を確保することができる。


 今の俺に必要なのは、その時間だ。


 とにかくここについての情報が少なすぎる。時間をかけて情報を集め、一刻も早くになりきらなければならない。まずはそこからだ。何をするにしても、すべてはそれからだ――


「リカが来たよ」


「え?」


「さっき、一人で来た」


「何の用で?」


「いつもの」


「……ああ」


「すぐ帰ったけど。ハイジがいないってわかって」


「……そうか」


 ……そう言えば、そうだ。ここにはリカもいたのだった。


 今さらのようにそのことを思い出して……やはり情報が足りないと思った。リカが何をしにこの部屋に来たのかわからない。アイネの言う『いつもの』が何を意味しているのか、それもわからない。……わからないことだらけだ。


「待たせときゃよかっただろ」


「え?」


「リカだよ。俺が来るまで話でもしてりゃよかっただろ」


「……誰と?」


「もちろん二人でだよ。アイネも一人で暇だったろ。だからさ」


 そう言いながら思わず欠伸がもれた。


 ……だいぶ緊張がほぐれてきたようだ。他人事のようにそれを実感して、何も構える必要などないのだ、ともう一度そう自分に言い聞かせた。


 わからないことだらけの舞台には違いない。だから、こうやって少しずつ情報を集めてゆく。そうやって集めた情報をもって、少しずつ物語を組み立ててゆく。――それが即興劇だ。それこそが、俺が今日までこだわり続けてきた即興劇の舞台だ。


 そんな当たり前のことを思い、息だけで小さく苦笑した。そして、アイネに目を向けた。


 月明かりを背に、片膝を立てて座るアイネの姿があった。


 真っ直ぐ伸ばされたその右腕の先に、組み上がったばかりのグロックがこちらに銃口を向けていた。


「あんた、誰?」

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