213 最後まで演じきるということ(15)

 彼らのアジトに向かうために部屋を出たのは、もう夜に近い夕暮れだった。


 それはとりもなおさず、あの地獄のような真昼のひとときを再びコンクリートの一室で過ごしたということを意味する。すぐに戻ることなく、それだけ時間を置いたのはもちろん、舞台に立つために必要な情報を得るためだ。


 陽が最も高くなる灼熱の時間を、俺とキリコさんは眠ることもせずそのために費やした。もっとも集中していたせいか――あるいは既に慣れてきたのか、前のときほどには真昼の暑さを苦痛に感じなかった。


 ほとんど根掘り葉掘りといった貪欲さで、俺は彼らに関する情報をキリコさんから聞きだした。最初こそまだどこかぼんやりしていた彼女も、やがて俺の問いに耳を傾け、彼らのことを事細かに語ってくれた。


 メンバーそれぞれの名前、外見的な特徴はもとより、口調、性格、ちょっとした性癖に至るまで。その中にはアイネの情報もあった。杓子定規で潔癖、頑固なまでに規則を重んじる――といったあたりは俺のよく知る彼女そのものだったが、ということだけが自分の中にあるデータとは違っていた。


 アジトまでの道のりは簡単だった。そこは俺たちが二度真昼をやり過ごしたビルにほど近い場所だった。……と言うより、ほぼ隣のビルと言っていい。それほど彼らに近い場所に潜んでいたという事実に最初は驚いたが、考えてみればそれも道理だった。なぜならそこは、おそらくキリコさんが彼らを監視するために利用していた隠れ家に違いないのだから。


 部屋を出るとき、キリコさんは「頑張っといで」と短く言ったきり俺の方を見なかった。


 電話での連絡はできない――それがなぜかは未だにわからないが、かかってきた電話に彼女が出ることはできないからだ。だから、折を見てキリコさんがアジトを訪れる予定でいくことにした。それまでに、俺がとして部隊の隊長に納まっていることを見越して。


 黄昏の廃墟に、目的のビルのエントランスが真っ暗な口を開けて俺を待ち受けていた。


 その前に立ち、いざ踏み入ろうとする俺の心は落ち着いていた。――部屋を出るときからそうだった。一歩も踏み違えることができない想像を絶する舞台を前に、俺の心は奇妙なまでに落ち着いている。


 ……あるいは開き直ったのかも知れない。もしそうだとすれば今の俺はきっと、半日前にあの場所に現れたもう一人の俺とそっくりの顔をしているのだろう。


 躊躇せずエントランスに踏み入った。キリコさんからの指示に従い、まだ目が慣れない闇の中を真っ直ぐに進む。……思えば何もわからないままキリコさんに連れられ、初めてこのビルに入ったときと一緒だった。だが今こうして一人で歩くこの通路は、あのときよりもずっと長く感じられる。


 ――かちり、と撃鉄を起こす音がした。


 真っ直ぐにゆくと突き当たりに《門番》が待っている。その存在を示す合図がこの撃鉄を起こす音だ。この音に決して反応してはならない、というのがきつく言い含められたキリコさんからの指示だ。


 何も反応しなければ入館が許可される。だが少しでも反応すれば、その時点で俺の身体は穴だらけになる。


「……おけえんなせえまし」


 重々しい鉄扉が開き、その向こうに男の顔が現れた。傷だらけのいかつい顔……キリコさんからもらった情報と照らし合わせても誰かわからない。俺が新米の隊長だからだろうか、恭しい言葉からはどこか小馬鹿にするような響きが感じられる。


 俺は返事をせず、軽く手をあげてその脇を通り過ぎた。扉が再び閉ざされる音を背中に聞きながら、そのまま振り返らずに進んだ。


 ――第一の関門はここからだった。


 とりあえず目指すべき場所はアイネのいる部屋だが、それがどこなのかまではキリコさんにもわからない。だから、この先の俺の行動としてはまずその場所に向かうふりをし、そこからさらに迷ったふりをして誰かにアイネのもとまで連れて行ってもらう――ということになる。


 隊長になったとはいえ俺がここへ来てまだ日が浅いという事実に変わりはない。相棒の部屋にたどり着けず誰かに助けを求めたとしても、おそらく不自然な振る舞いとはとられない。


「お、ハイジ……」


 ――と、少しも歩かないうちに小柄な男が通路の壁に背もたれて立っているのを見つけた。少し驚いたように俺の名を呼んでこちらを向く男の顔は、上唇の真ん中が鼻まで裂けている。


 この特徴はすぐに思い当たった。『ラビット』という名で呼ばれる男と考えて間違いないだろう。キリコさんからの情報によれば『ラビット』は比較的と仲がいい。ドライで自己中心的なところがある、良くも悪くもこのアジトに巣食う者たちの典型――


「あのさラビット。申し訳ないんだけど」


「……あ?」


「迷った。アイネのところまで案内してくれない?」


「……ああ。安いご用だ」


 自分でも驚くほどすらすらと言葉が出た。そんな俺に男は怪しむ様子も見せず、どこか追従ついしょうじみた笑みを浮かべて歩き出した。


 そのあとについて俺も歩き出す。……第一の関門は抜けたようだ。だがこれからアイネの部屋にたどり着くまで――あるいはその先にも――幾つの関門が待ち受けているかわからない。


 そう思いながらも俺は、自分の中に早くもこの演技に対して楽観のようなものが芽生え始めていることに気づいた。


 考えてみれば……いや、考えるまでもなく、俺が演じ始めたはそれほど難しい役ではないのかも知れない。


 なぜなら、。顔かたちも同じ、声も同じ。歩く姿や喋り方はおろか、小さな癖さえ残らず同じ。これでいきなり俺が偽物であることを疑ってくるやつがいるとすれば、そいつは俺以上に俺のことを知っているということになる。よほどのことをしでかさない限り見抜かれるわけがない。


 男は無言だった。それが理由で、俺の方からは話しかけなかった。コツコツとコンクリートを刻む二人分の靴音が夕闇の通路に響いた。


 壁に穿たれた穴からときおり顔を覗かせる太陽の光は死にかけ、もはや前を行く男の背中がかろうじて追える程度だった。


『これで『計画』に支障はなくなりました』


 男のあとについて歩きながら、ふと、軍曹のとった行動について考えた。――舞台から降りることを宣言し、ここに戻ろうとする俺を撃ち殺した、暴挙とも呼ぶべき行動。


 けれども、今こうして冷静になって考えれば、あのとき軍曹がとった行動の意味が理解できる。彼女はきっと――いや間違いなく、最初からを思い描いていた。おそらく最初から、あのもう一人の俺を撃ち殺すつもりで強いてあの場に臨んだのだ。


『それが博士ドクターのご意思ではなかったのですか?』


 ……そればかりではない。あるいはキリコさんも同じようにこの展開を思い描いていたのかも知れない。


 軍曹が逃亡したその直後、ほとんど間を置かずにこの演技を俺に持ちかけてきたことが何よりの証拠だ。DJからもう一人の俺に隊長をすげかえ、それをさらに操縦しやすいこの俺にすげかえる。


 ……客観的にみればそれは実に合理的で筋の通ったプランだ。そのプランがキリコさんの中に最初からあったのだとすれば、軍曹のとった行動は確かにキリコさんの意思に沿ったものということになる。


『殺せ! この女を殺せハイジ!』


 けれどもあそこでキリコさんが見せた怒りは本物だった。狙撃され倒れ伏す俺を呆然と見つめていた、彼女の絶望も。


 ……頭のどこかにはあったのかも知れない。それでも、は決してキリコさんの本意ではなかった。そう信じたかった――そう信じなければ、俺がこの先の演技を首尾よく果たしおおすことはできない。なぜなら――


「……なあハイジ」


「え?」


「いやさ、隊長さんよ」


 窓からの光が絶え、真の闇となった通路に、こちらを振り返ることなく男――ラビットはそう声をかけてきた。どこか遠慮がちなその声には、いかにも呼び慣れない名前を呼ぶようなぎこちない響きがあった。


「この前言ってたことだけどよ。だけどうにかならねか」


「……あれ?」


だ。一人の女に決めろ、てやつだ」


「……ああ。それか」


 自然とそんな相槌をうった。その言葉だけで、俺にはラビットの話していること――もう一人の俺が彼らに課した新たな規則がわかった。


 捕虜となっている女たちの中から、自分のパートナーとする女を一人に決めること。


 繋がれている女たちに選択の権利などあるはずもなく、男たちが勝手にそれを決めるわけだから滅茶苦茶な話には違いない。……だが彼女たちを連れて逃げるとすれば、それがぎりぎりの妥協点だとは判断したのだ。ここまで倫理などという言葉とは無縁に、ひたすら欲望の限りを尽くしていた彼らの生理を考慮するのであれば。


「……どうにもならない」


「……」


「言ったとおりだ。一人の女に決めてもらうしかない」


「……けどよ」


 そう言ってラビットは言い澱み、いったん立ち止まった。こちらの顔色を窺うように少しだけ振り返り、それからまた歩き出しながら言った。


「そのせいで抜けるやつが出てくるかも知れねえぜ?」


「……」


「おめえ言ったよな。抜けてえやつは抜けていいとさ」


「……ああ」


「そりゃ抜けてえやつも出てくるだろよ。やりてえようにができねえんじゃ」


「……」


「なあ、隊長。どうにかならねえか。それだけどうにかしてくれりゃ――」


「ラビットも」


「……あ?」


「それがどうにかできないなら、ラビットも抜けたいのか?」


 俺がそう言うと、ラビットはぎょっとしたような顔で振り返った。だがすぐ最初に見せた卑屈な感じのする愛想笑いを浮かべ、「いいや、おれは抜けねえけどもよ」と口ごもりながら前を向き、また歩き出した。


「……信じてねえわけじゃねえよ」


「え?」


「信じてねえわけじゃねえ。おめえの言ってたこと。《鉄騎》のことだって本当だったしな」


「……」


「けども……いや、信じてねえのかもな。やっぱおれは、おめえの言うことがどこかで信じれねえ」


「……そうか」


「おめえの話は楽しかった。おれたちの知らねえ場所があって、こことは何もかもが違うってよ。そいつは、あるんだろうよ。おめえの言うような所があるってのは信じられる」


「……」


「けどよ、遠いんだ」


「……」


「おめえの話す所はよ、おれたちにとってあまりに遠すぎる」


 ――俺は彼らにどんな話をして聞かせたのだろう。そう思いながら、俺はただ黙ってラピッドの話を聞いた。


 前を向いたままぼそぼそと独り言のように喋るラビットの声は低く聞き取りづらく、けれどもその声の中にはっきりと寂しさが感じられた。何のための寂しさか……考えるまでもない。


 わずかに背を丸めて歩く小柄な背中に奇妙な同情のようなものを感じながら、そんなラビットに俺は何も返すことができなかった。


「死んじまったあとはいいんだ」


「……」


「死んじまったあとのことはいい。それについちゃ何も疑ってねえ。死んじまったらおめえの言うような所へ行くんだろ。そんときゃ何でもおめえの言う通りにする」


「……」


「けど生きてるうちは、な……。正直、おめえの言う通りにできる自信はねえ。これまでとあまりにも違いすぎるからよ」


「……」


「おめえはいい隊長だ」


「……」


「おれたちを殺そうとしねえ。無理矢理に縛ろうともしねえ。おめえにならついて行ってもいい。おれはそう思ってる」


「……」


「けども、だけはな……。なあ隊長、だけどうにかならねえか。そいつだけどうにかしてくれりゃ、おれはどこまでだっておめえについて行くんだけどもよ」


 何度もそう繰り返すラビットの声からは、やはりはっきりそれとわかる虚ろな寂しさが感じられた。


 ……この男の中ではもう答えが出ているのだろう。そう思って俺は返事を返さなかった。この場面に立っているのがもう一人の俺だとしても、同じように言葉を返さない――そんな確信があった。


 ラビットは一度だけこちらを振り返り、罪人とがびとが刑吏を見るような目で俺を見つめた。それからまた前に向き直り、それきり押し黙って歩き続けた。


「――」


 ――不意に、自分がこのままこの役を演じ続けてもいいのかという疑問が閃光のように俺を襲った。


 もう一人の俺がここで築き上げていたものは、どうやら俺の想像を遙かに超えるもののようだ。彼が引き連れて出て行こうとしていた者の一人である目の前を行く男の、その葛藤をほんの少し垣間見ただけでも、自分が今演じているのがとんでもなく重い役だということを思い知らされる。


 いつかキリコさんが言っていたように、ここでは色んな顔が、色んなことを思い、生きている。このまま俺がこの役を演じ続けて、本当にいいのか。彼が果たそうとしていた役と同じ役を、俺は正しく果たしおおすことができるのだろうか――


 ともすれば押し潰されそうになるその疑問から逃れるために俺は背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を向いて歩き続けた。


 ……そうするしかなかった。俺はもうこの役を演じ始めてしまったのだ。


 この役に背を向けて逃げたとき、この舞台は音を立てて崩れ落ちる。地に足の着かない、確かなものなど何もないこの廃墟の暗闇で、それだけがただひとつ確かなことだと思った。


「おめえは、誰を選ぶんだ?」


「え?」


する女だ。ハイジは誰を選ぶのかと思ってよ」


「……」


 長い沈黙のあとだった。唐突なラビットの質問に、俺は答えに窮した。


 あの《捕虜》たちの中から一人の女を選ぶ――それは俺が彼女たちと事前にを持っていることを意味する。そうでなければ、誰か気に入った一人を選ぶなどということができるはずもない。


 ……しかし、果たしてそんなことがあるのだろうか。ここにいた俺があの《捕虜》たちを相手に、おそらく彼らが日常的にしているようなことを――


「それとも、あいつか?」


「え?」


「おめえが選ぶ女てのは、やっぱアイネか?」


 そう言ってラビットは頭だけ振り返り、いかにも下世話な感じのする笑みをこちらに向けた。


 そんなラビットの問いに、俺は思わず苦笑した。質問に呆れたから、ではない。どこをどう巡ったのかこんな最果てまで来て、それでもあいつとの仲を勘ぐられることに純粋なおかしさを覚えたのだ。


「そんなのは、あいつに聞いてくれよ」


「あ? どういうこった」


「こっちが選んだって仕方ない。あいつがうんと言ってくれなきゃそこまでだ」


ちげえねえ。へっへっ、ちげえねえ」


 何がおかしかったのだろう、歩調をゆるめず歩きながらラビットは乾いた声でひとしきり笑った。それからまたおもむろにこちらを振り返ると、今度は少し真剣な面持ちで「てことは、やってねえのかよ」と言った。


「え?」


「あいつとだ。おめえはあいつと、まだやってねえのかよ」


「……やってねえよ。わかるだろそんなの」


 憮然とした声で応えた。内心をそのまま口に出したものだから、めいっぱいの感情がこもっていたと思う。


 ……俺とアイネとの間にそんなことが起こるわけがない。そう思いながら吐き捨てる俺の顔をラビットはどこか嘲笑するような目で見て、それからまた前に向き直って「そうかよ」と言った。


「おめえだったらあいつにできるかもと思ったんだがよ」


「え?」


「さっき言っただろ。する女を一人に選ぶことはできねえ。けどもよ」


「……」


「あいつがその一人だってんなら、また話は違ってくるだろうけどもよ」


「なあ、それってどういう――」


 言いかけたところで、通路の先に扉のようなものが見えた。その前には上半身裸の小山のような男が、モーゼルに似た銃を手に立っていた。俺の姿を認め、すぐさま扉に手をかける。ようやく目的の場所に着いた。そう思って隣を見た。


 けれども、そこにもうラビットの姿はなかった。


 周囲の暗闇に視線を巡らせてどこにもその姿がないことを確認し――彼は、行ったのだと思った。隊長である俺に彼なりの筋を通し、どこかへ行ったのだ。


 自分が今演じているのは、本当に正しい演技なのか。再び頭に舞い戻ってくる疑問を振り払い、巨躯きょくの男の脇を抜けて月明かりの部屋に入った。


「――おかえり」

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