212 最後まで演じきるということ(14)

 これまで聞いたこともない、幼子おさなごのようにたどたどしい一言だった。キリコさんのその言葉が、誰に向けて放たれた質問かは言うまでもない。


 その質問を向けられた相手は、隣から分厚い布越しに、いつに変わらない落ち着き払った声で答えた。


⦅撃つべきだと判断したからです⦆


 刻々と強まりゆく陽光の射すビルの谷間に、もう一人の俺は倒れ伏したまま動かなかった。ぎこちなく手足を投げ出したその背中に赤黒い染みが広がってゆくのが、遠目にもはっきりと見て取れた。


 それを呆然と眺めながら、キリコさんも動かなかった。そしてまた誰に尋ねるともなく独り言のように、気の抜けた声でたどたどしく呟いた。


⦅どうして、殺した⦆


博士ドクターのご指示に従ったまでです⦆


⦅……あたしの?⦆


 信じられないものを見るような目が背後に向けられた。その目は俺を見ない。同じ襤褸に包まれた、けれども隣にいる女に向けられている。


 虚ろ――と言うより焦点が合っていない夢遊病者のような目。その目を向けられた軍曹はやはり落ち着き払った声で、言うべきことを言うように事務的に答えた。


⦅降りたい者には舞台から降りてもらったまでです⦆


⦅え?⦆


⦅降りたい者には舞台から降りてもらったまでです⦆


⦅……⦆


 二度同じ言葉を繰り返す軍曹に、キリコさんは沈黙した。


 降りたい者には舞台から降りてもらうまで――そう言えばあの事前検討の中で、キリコさんがそんな言葉を口にしていた気がする。……目の前で繰り広げられる急速な展開を眺めながら、そんなくだらないことしか俺には考えられなかった。


 何が起こったのかはわかった。誰がなぜそれを起こしたのか、それも理解できた。


 ただ、感情がついてこなかった。噛み合わない会話を続ける二人の女も、陽射しの中に血を流し倒れているもう一人の俺も、襤褸の内側からスコープ越しに眺める俺には、そのすべてが遠い世界の登場人物のように思えた。


⦅それが博士ドクターのご意思ではなかったのですか?⦆


⦅え?⦆


⦅自分がこうすることを博士ドクターは望んでいた。自分はそう理解しておりました⦆


⦅……⦆


⦅これで『計画』に支障はなくなりました⦆


⦅……⦆


⦅どのようにでも『計画』を進めることが可能です。ご指示を、博士ドクター


「……殺せ」


⦅……は?⦆


「殺せ! この女を殺せハイジ!」


 破鐘われがねのようなキリコさんの絶叫と同時に、俺の身体は動いていた。その言葉を予期していたわけでも身構えていたわけでもない、ただ瞬時に身体が動いた。


 一瞬の遅れで軍曹も動いた。けれども、俺の銃が火を噴く方が早かった。立て続けに放った三発の弾丸が黒い襤褸を切り裂くのを、俺ははっきりと認めた。


 ――だがその直後、冷水のように背筋を駆け抜けたに、振り向きざまキリコさんを押し倒してそのまま倒れ込んだ。


「きゃ……!」


 背後から複数の銃声があがったのはその直後だった。


 キリコさんの短い悲鳴に続いて、軽快な靴音が起こった。穴だらけで宙に踊る襤褸布の向こうに、真っ直ぐ駆け抜けてゆく軍曹の背中があった。


 ……万一に備えてのは軍曹だったのだと、喪心の中で俺はそう思った。


 急速に小さくなってゆくその背中に、俺はもう銃口を向けなかった。もう撃ってもあたらない、ということもある。けれどもそれ以上に、ここで軍曹を撃って何になるのか、という思いが今更のように意識にのぼったからだ。


「……」


 銃を握る腕をさげ、大きく溜息をついた。


 書き割りが大きな音を立てて倒れ、舞台に立っていた役者もろともすべてをぶち壊した――そんな印象があった。


 それからふと後ろを振り返り、それが印象でも何でもなく現実なのだということを確認した。


 土塊つちくれのように地面に横たわった俺は、もう立ち上がってこない。


 目を戻した。……俺が咄嗟に押し倒した人は地面に顔を伏せ、同じようにいつまでも起き上がってこない。


「……」


 キリコさんはいつまでも起き上がろうとしなかった。俺は仕方なく一人で立ち上がり、なぜそんなことをするのかわからないまま倒れ伏すもう一人の俺に近づいた。


 俯せに横たわるその身体を抱え起こすと、うっすらと微笑みを浮かべた俺の顔があった。その口元には濃い血の泡が浮いていた。胸と腹の間――ちょうどみぞおちのあたりには黒い染みが広がり、噎せ返るような血の臭いが周囲に漂っていた。


 呼吸を確かめるまでもなく、もう一人の俺は死んでいた。ここに現れたときと同じ余裕めかした笑みを浮かべ、何かを成し遂げたような満ち足りた表情で。


「……ふ」


 我知らず自分が小さく鼻を鳴らす音を聞いた。いかにも満足そうなその死に顔はどこか滑稽で、それが自分の顔だということもおかしみに拍車をかけている。


 けれども俺が鼻を鳴らしたのは、そんな理由ではなかった。まだ死んだばかりのもう一人の俺の顔に浮かぶ満ち足りた表情を眺めながら俺は、馬鹿さ加減に心底感動していたのだ。


 ――こいつにはこんな死に顔を浮かべて死ぬ資格がある。思わずしみじみとそんなことを考え始める自分に、自嘲の思いはなおも募った。


 こんなわけのわからない舞台で最後まで自分の信じた役を貫き通し、役に殉じて死んでいった俺。


 そしてもう一人の自分が目の前で死んだというのに、こんなことしか考えられない俺。


 そんな俺たち二人のを客観的にみれば、役者馬鹿を通り越してほとんど気が狂っていると思われても仕方がない――


「――服を脱がしな」


「え?」


 いきなり後ろからかかった声に振り向くと、青白い顔のキリコさんが立っていた。その目はさっきまで俺が見ていたもの――こときれたもう一人の俺を見ていた。


 ただ俺には、彼女が何を言ったのかわからなかった。問い返すこともできず沈黙している俺に、キリコさんはもう一度その言葉を口にした。


「脱がしな、って言ってんだよ。服を」


「……誰の、ですか?」


に決まってんだろ」


「……」


「そこで死んでるもう一人のあんたの服を、だよ」


 そこまで言われても、俺はやはり何を言われているのかわからなかった。


 もう一人の俺の服を脱がせろ。キリコさんがそう言っていることは理解できる。ただなぜそんなことをしなければならないのか――それが、俺にはわからない。


「……脱がして、どうするんですか?」


「あんたが着るに決まってんだろ」


「……」


「この染みならまだ洗えば落ちる。穴は塞げないけど、まあそんなには目立たないさ」


「……」


「水を取りに戻らなけりゃならないね。一本じゃ足りないかも知れない。けどまあさっさと洗っちまえば、乾くのには五分とかからないよ」


「……どうするんですか?」


「何だって?」


「この服、脱がして……それを俺が着て、どうするんですか?」


 もう一人の俺の身体を抱えたまま、振り向いた首でキリコさんを見上げながら俺は訊ねた。だがその質問を口にしたとき、自分の中でもう答えは出ていた。


 とても信じられない――信じるのが恐ろしい答え。感情のない目で見下ろしながら、果たしてキリコさんはその答えを口にした。


「決まってるだろ。帰るんだよ」


「……」


「この服着て、この子の元いた所に帰るんだ」


 さすがに二の句が継げなかった。


 キリコさんの言うことは理解できた。たった今、事切れたばかりのもう一人の俺の服を脱がせ、それを着て俺が例の場所に戻る……。


 そうしろ、と言われていることはわかった。けれどもまだ温かい自分の死体を抱えたまま、俺は少しも動くことができなかった。


「この子の代わりに、あんたがなるんだ」


「……」


「あんたがこの子に成り代わっての隊長になり、この子が果たすはずだった役目を果たすんだ」


「……」


「それでうまくいくだろ。『計画』通りに」


「……」


「まったくねえ。何もかも『計画』通りじゃないか」


 そう言ってキリコさんは自嘲気味に笑った。


 俺は何も言えなかった。恐ろしい話だった……まだうまく理解できない部分の方が多いが、それが恐ろしい話だということだけはわかる。


 いま死んだもう一人の俺に成り代わって、彼が果たすはずだった役目を俺が果たす。……言葉にしてしまえば簡単だが、その難しさは想像を絶する。できるはずがない……そんなことをできるはずが。


 けれども、それは――


「あんたが求めてた舞台じゃないかい?」


「……」


「まさにあんたが求めてた舞台だよ。ひとつ間違えたら終わっちまう、掛け値無しの即興劇だ」


 ――その通りだ。そう思い、俺は戦慄を覚えた。


 それはまさに俺の求めていた舞台だった。ここへ来てから……いや、ここへ来る前からずっと心に思い描き続けてきた、自分が立ちたいと願う理想の舞台そのものだった。


 俺にとってこれほどの舞台はまたとない。これから何年生きたところで、もう二度とこれほどの舞台には巡り会えない……。


「しかも演じるのはときたもんだ」


「……」


「据え膳にもほどがあるねえ。食わなきゃ男じゃ――ああ違うか。こいつを食わなきゃ役者じゃないよ」


 気っぷのいい言葉とは裏腹に、今にも消え入りそうな声でキリコさんは言った。それきり黙った。いつのまにか彼女の背後から射していた陽光が逆光となり、その表情はよく見えない。どんな思いで彼女がその言葉を口にしたのか、俺にはわからない。


 だが彼女が口にしたその言葉はあくまで正しかった。


 ここまでお膳立てをされて食べなければ、俺は役者ではない。少なくとも今後、即興劇の舞台には立てない。……いや、いま目の前に示されたこの舞台に背を向ければ、きっと俺はもう二度と、どんな芝居の舞台にも立てない。


「……ほんとにやるんですか、そんなこと」


 ……それでも俺は自然とそんな言葉を口にしていた。誰か別の人が喋っているような、震える声で。


 一世一代の舞台には違いなかった。頭の奥の妙に冷めた部分で、そのあたりは理屈として理解できた。


 だがそれ以上に恐れおののく気持ちが強かった。……俺は、恐ろしかった。自分が立ち向かわなければならないその舞台が、ただひたすらに恐ろしかった。


「だったら、もう幕だよ」


「え?」


「あんたまで降りるんだったら、この芝居はもう幕だ」


「……」


「終盤で盛り上がりかけたところであっけない幕切れ、ってところか。クソみたいな芝居だったね。考えてみりゃ――」


「――わかりました。やります」


 まだ続こうとするキリコさんの言葉を遮って、俺は短くそう言った。


 理由も何もない、そう言うしかなかった。


 もう一人の俺の死体を地面に横たえ立ち上がる俺に、キリコさんは力のない視線を向けた。今朝、軍曹が現れる前、真昼に向かおうとするあの部屋で見せていた生気のない眼差し――


 ……あるいは、たった今キリコさんの中で舞台は終わったのかも知れない。けれども俺にとって、逃げも隠れもできない舞台が今まさに始まろうとしている。


「プロットが必要です」


「え?」


「キリコさんの言う役を演じるには情報が足りません。プロットが必要です。詳しいプロットを下さい――」


 俺がそう言うと、キリコさんの目に少しだけ力が戻った。その言葉通り、彼女の言う役を演じるには情報が足りなかった。


 ――そう、情報が足りなかった。その舞台に立つには、いま自分の中にある情報では到底足りない。


 そんなことを思いながら俺は向き直り、地面に横たわる死体から血まみれの服を脱がしにかかった。

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