211 最後まで演じきるということ(13)

「……何がおかしいんだい」


 力ないキリコさんの呟きはもう一人の俺の笑い声にかき消された。目の前で何が起こっているのかわからない、呆然と立ち尽くす背中からそんな思いが伝わってくるようだ。


 キリコさんばかりではない、俺も最初はわけがわからなかった。なぜもう一人の俺がいきなり笑い出したのか、それがいったい何のための笑いなのか。


 ――だが自分の思考を追い始めてすぐ、かちりと音を立てて符合するものがあった。


「……何で笑うのさ。しまいにゃ怒るよ」


 ――ブラフだ。


 溜息混じりにキリコさんが吐き出すのを聞きながら、俺ははっきりとそれを悟った。自分の思考をたどれば必ずそうなる。それ以外には考えられない。


 もう一人の俺がここで笑う理由――それはブラフだった。キリコさんの性格を熟知しているは、彼女の本心を抉り出すために、今、伸るか反るかのブラフに出ている――


「笑うんじゃないよ! ハイジ! いい加減にしな!」


 こぶしを握りしめて絶叫するキリコさんに、今度こそ俺は《蟻》の扮装をかなぐり捨てて飛び出したくなる衝動に駆られた。


 ここで感情を乱したらキリコさんの負けだ。それこそが俺の――もう一人の俺のブラフのなのだ。


 事実、キリコさんの絶叫で俺はぴたりと笑うのをやめた。そして馬鹿笑いの消えた口元にうっすらと笑みを浮かべ、嘲るように鼻を鳴らしてから一気に吐き捨てた。


「ったく、キリコさんもヤキが回りましたね」


「……何だって?」


「ヤキが回った、って言ったんですよ。そんな演技で騙せると思いました? 俺のこと」


 俺のその言葉にキリコさんは両腕をもたげながら大きく肩を張り、すぐにその両方をぐったりと落とした。


 それは一瞬の出来事だった。


 だがそんな小さな仕草で、我があるじは隠していた全て――隠し通さなければいけなかった全てを語ってしまった。


 結局、飛び出すことができないままその一部始終を眺めていた俺は、厚い襤褸の裏で思わず溜息をついた。……恐れていた事態が現実となったのをどうこう感じたわけではない。むしろ水際立ったもう一人の俺の演技に素直に感動を覚えたのだ。


「……やっぱそうだったんですね」


「……」


「だったらさしずめ、この場は適当に言いくるめておいて、そのうちどこかで始末しよう、って算段ですか」


「……」


「キリコさんの考えそうなことですね、いかにも」


「……」


「さっきの電話での発言、取り消しますよ。キリコさんも舞台に立ってほしいって言ったの。こんな見え透いた演技する人となんて、一緒の舞台に立てない」


「……」


「じゃあ宣言通り、俺は舞台から降ります。ご期待通りに動けなくてすみませんでした」


「――見殺しにするの?」


 早々にこの場を去るためだろう、右手を挙げかけた俺の動きを遮って、キリコさんの冷たい声が響いた。


 ここ数日でもはや聞き慣れた感のある、彼女が本気でものを言うときの声だ。一瞬、周囲の温度が下がるような迫力に変わりはない。だが今この場で耳にするその声は、今にも泣き出しそうな少女が必死で何かを訴えている――そんな声に聞こえる。


「あなたが舞台から降りたらあの子たちだけじゃない。あそこにいるみんなが揃って死ぬしかないんだよ? そのことわかってる?」


「……」


「あなたがどれだけあそこにいる子たちのことを思っているかわからない。けどあたしだって、あそこにいるみんなをどうにかして助けたいと真剣に思ってる。そのためには何だってしようって、本気でそう思ってる」


「……」


「好きであの子たちを切り捨てようなんて言ってるわけじゃない。そうする以外に方法がないから、そうしないと助けられる子たちも助けられなくなるから」


「……」


「だからあなたを騙してでもそうしなくちゃいけない。そう思ったんじゃない。平気なわけないじゃない。あたしがどんな思いでそうしてるか……それくらいわかってよ」


 血を吐くような声、という表現がしっくりくる悲痛な声で、一言一言、刻みつけるようにキリコさんは訴えた。


 もちろん、立ち去るそぶりを見せたもう一人の俺を引き留めるための演技には違いない。だがその言葉にこめられた思いの半分以上――あるいはほぼ全部が紛れもないキリコさんの本心であることがわかった。このもう一人の俺に最初に電話したときにキリコさんが見せた涙、それを俺はまだ覚えている。


 ……今も本当は泣きたいのだろう。けれどもこの場では涙を流した瞬間、その涙は嘘を塗り固めるための安っぽい小道具となる。


 ただそんなキリコさんの声は、もうの耳には届かなかった。相変わらず涼しげに、慣れっこになった叱責を受け流すように苦笑するその表情が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。


 ……正確には、その表情はもっと重いひとつの事実を示していた。おそらく――いや、確実にキリコさんが理解していない事実。彼がもう舞台をのだということが、俺にははっきりとわかった。


「関係ないです」


「……え?」


「関係ないんですよ、そんなことは」


「何が関係ないって言うの? さっきから言ってるじゃない、あなたがここで降りたら――」


「違うんですよ、その役」


「……」


「キリコさんが言ってるその役、俺が演じてた役と違うんです」


「……」


「自分が思ってた役で舞台に立つなら、俺はあそこにいる一人だって見殺しにはできない」


「……」


「それだけのことです。だから、俺はもう降りるしかないんです」


 吹っ切れたことがよくわかる淡々とした口調で、むしろキリコさんの労をねぎらうようにもう一人の俺は言った。


 その言葉に、俺は場違いにも声を殺して失笑するのを抑えられなかった。……実に俺らしい最後通告だった。それがどんな思いで告げられた言葉なのか、痛いほどわかる。


 と言うより、最初からこうなる予定の物語だったのだ。黎明のビルの谷間から、あの何かを悟ったような表情をはりつけた俺が姿を現したときから――


「だったらどうしろって言うのさ!」


 キリコさんの絶叫が廃墟の薄闇をつんざいた。その声に、は驚かなかった。ここで彼女がこう出ることは完全に予想できたからだ。


「ええ? 言ってごらんよ! だったらどうしろって言うのさ! できないんだよ! あんたがやれって言ってることは物理的に不可能なんだ! クルマの台数は限られてる! それだって本当にちゃんと調達できるかわかりゃしない! それでも、石にかじりついてもやろうって思ってる! あの子たちを助けたいから! あそこにいるあの子たちを一人でも生かしたいから!」


 激昂し、あたりをはばからず叫ぶキリコさんの声は、傷ついてもなお自分を守ろうとする少女の泣き声を思わせる。


 その声を、俺はどこかで聞いたことがあると思った。どこで聞いたのか……それを思い出す前に、再びありったけの声で叫ぶキリコさんの言葉が俺の鼓膜を震わせた。


「それだってのにあんたは何さ! 一人でも見殺しにできない? 笑わせるんじゃないよ! あんたが舞台降りたら一人どころじゃなく全員揃って死んじまうって言ってるじゃないか! え? どうなんだい、何とか言ってごらんよ! あんたの言うおきれいな理想主義でいったい誰が救えるのか説明してごらんよ!」


 もはやなりふり構わず、必死の身振り手振りをまじえながらまくしたてるキリコさんを、もう一人の俺は哀れむような微笑で見守っていた。


 その表情で、俺はもう一人の俺の結論を悟った。……は死ぬつもりなのだ。一人でも見殺しにするくらいなら、自分の信じる役を演じきって彼らと共に死ぬつもりなのだ。


 言いたいことを言い切ったのか、機関銃のようにまくし立てていたキリコさんは不意にぷっつりと喋るのをやめると、肩を大きく上下させながら押し黙った。


 そんなキリコさんを前にもう一人の俺は何も応えなかった。その代わりおもむろに空を見上げ、そのままこうべを巡らせて周囲の風景を眺めた。


 ようやくのぼり始めた陽の光が、朽ち果てた灰色の廃墟をモノクローム映画のように映し出していた。ひとしきりあたりを見回したあと、は大きく息をつき、キリコさんに向き直って言った。


「ひとつだけ教えてくれませんか」


「……え?」


「ついさっきまで立ってた身で間抜けな質問ですけど、いったい何だったんですか? この舞台」


 その質問にキリコさんは答えなかった。……答えられるわけがなかった。


 キリコさんが答えられないでいるのを確認すると、もう一人の俺はまたひとつ大きく息をつき、それから同情するような目でキリコさんを見つめて、言った。


「キリコさんも、聞いてないんですね」


「……」


「何となく、そうじゃないかとは思ってました」


 そう言って、もう一人の俺は笑った。寂しそうに、哀れむように、自分の置かれた境遇を改めて悟ったように。


 それから真摯な目でキリコさんを見た。そうして別れを告げるように、晴れやかな表情で一息にその台詞を口にした。


「俺、まだまだでした。ひとつの役を最後まで演じきるのがこんなに難しいだなんて思わなかった」


「……」


「あっちに帰って出直しますよ。とりあえず、今回の反省から」


「帰る場所なんてないんだよ!」


 ひときわ高いキリコさんの絶叫に、もう一人の俺はどこか寂しそうな微笑みを返した。そうしておもむろに踵を返し、そのままゆっくりと歩き出した。


 刹那、キリコさんはその背中に向かい駆け出そうとし、だが弾かれたように立ち竦んでその場に踏みとどまった。


「どこへ帰るってんだよ! 帰る場所なんてどこにもないんだよあんたには!」


 代わりにまた絶叫が響いた。朽ち果てたビルの切れ間からようやく陽の光が射し始めた暁の廃墟に、演じるべきを演じきり退場する役者のように悠々ともう一人の俺は歩いてゆく。


 その背中はもう振り返らない、真っ直ぐ前を向いて歩いてゆく。


 ゆっくりと遠ざかってゆくその背中にキリコさんは追いすがることもせず、ただ一人舞台に取り残されて独白を続けるヒロインさながら声を限りに叫び続けた。


「いつまで勘違いしてんだい! あんたにはもう帰る場所なんてないんだ! ここが舞台!? 笑わせるんじゃないよ! こんな観客一人いない墓場みたいな場所のどこが舞台だってんだよ! ! 舞台でもなんでもない、!」


 開き直った――というよりほとんど支離滅裂なキリコさんの絶叫に、もう一人の俺はやはり立ち止まらない。


 キリコさんは追わない。ただ全身を震わせ、大仰な身振り手振りで身もだえしながら声を張り上げる。


 ……その姿は滑稽で哀れだった。そんなキリコさんの姿を、なぜか俺はちょうどスクリーンの中に映像を眺めるように醒めた目で観照していた。


「戻れると思ってるんだろ! あんたがずっと暮らしてた場所に! 戻れやしないよ! もうそこには戻れないんだ! 死ねば戻れるとか思ってやしないだろうね! 戻れないよ! ここで死んだってあんたは! いいかい!? あんたはもう! 何で戻れないかって!? 教えてやるよ! いいかい!? あんたがそこに戻れないのは――」


 不意に何かが爆ぜるような音が響いた。


 キリコさんが喋るのを止めた。それとほぼ同時にもうだいぶ遠ざかったもう一人の俺が立ち止まり、ゆっくりとその場に倒れた。


 ……何が起こったのかわからなかった。だがほどなくして鼻をついた濃い硝煙の臭いと、それに続くキリコさんの言葉が、何が起こったのかを俺に教えてくれた。


⦅……なんで、撃った⦆

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