210 最後まで演じきるということ(12)
薄明の中、ゆっくりと白んでゆく廃墟を見ていた。
弱々しい光はまだビルの隅々まで行き渡らず、辺りは充分に暗い。けれどもスコープ越しに見るその景色に、暗視のためのフィルタをかけた不自然な鮮明さはなかった。
これほどの明るさであってもブレーカーが落ちるのだ。そんなつまらないことを考え、分厚い襤褸布の内側にも浸み入ってくる乾いた冷気に、俺はまたひとつ身震いした。
もうこうして三十分近く、もう一人の俺が現れるのを待っている。あるいは、もっと短かったのかも知れない。だが、《蟻》の扮装で地面に
わずかに脚を開いた姿勢で前方に立っているキリコさんの背中は微動だにしない。その背中が動かない以上、《蟻》である俺が無闇に動くわけにはいかない。
慰めがあるとすれば、このぎこちない格好で固まっていなければならないのが俺だけではないということだ。キリコさんの右斜め後ろ、つまり俺の右隣には軍曹の扮するもう一匹の《蟻》がいる。
結局、今日の対面にキリコさんは二匹の《蟻》を従えて臨むことになった。前例のない話らしくキリコさんは難色を示していたが、まだこの舞台に不慣れなもう一人の俺を見越して――何よりこの場に立ち会いたいという軍曹の強い希望に押されてこの運びとなった。
ビルの部屋で二人が話すのを眺めながら感じていた居心地の悪い気持ちは、もうだいぶ失せていた。……と言うより、そのあたりは半ばどうでもよくなっていた。
彼女たちが話し合って決めたのだからそれが正しいのだろうし、俺の意見を踏まえて下された決断でもあるのだから俺にはもう何も言えない。何よりこうして《蟻》の扮装に身を包んで蹲っていれば、自分が一介の《兵隊》に過ぎないのだということを嫌でも思い出させられる。
――そう、結局のところ、俺は目の前に立つ《博士》に従属する《兵隊》に過ぎない。だからいつか軍曹が独り言で口にした通り、何も考えずその命令に従うしかないのだ。
そんな気持ちでじっと蹲り、薄明の中にもう一人の俺が現れるのを待った。乾燥のためかひどく底冷えのする大気と、窮屈な姿勢が余計な考えを頭から追いやってくれた。
その余計な考えが再び頭に舞い戻ってきたのは、暗視スコープに映るほの白い視界に、ビルの谷間をゆっくりとこちらに向かってくるもう一人の俺の姿を認めた、そのときだった。
「――」
その顔を見た瞬間、俺はまずいと思った。
廃墟の底に浸み入る薄明かりに照らし出されたその顔はぞっとするほど白く、だが何よりもすっきりと清々しいものだった。真っ直ぐに前を見る眼差しはあくまで穏やかで、口元にはうっすらした笑みさえ浮かべている。
……他人には何でもない表情に見えるかも知れない。けれども俺がこの手の顔をしているときは決まっている。他の誰でもない、自分自身の顔だからそれが俺には手に取るようにわかる。
自分がいま目にしているものは、俺が開き直ったときの表情だった。
あるいは居直ったとき、と言い換えるべきかも知れない。胸に抱え込んでいた鬱屈した何かに見切りを付け、良くも悪くも開き直ってしまったときの表情……。ならばあのもう一人の俺はいったい何に対して開き直ったのか? そんなことは今さら考えるまでもない。
一歩、また一歩と近づいてくる自分の顔が明らかになってくるにつれ、その印象は確信へと変わった。
このもう一人の俺はひとつの決意をもってこの場にやってきた――はっきりとそれがわかった。
その事実を我が
「――おはよう」
「……おはようございます」
そんな俺の葛藤を置き去りに、二人の会談は始まった。我が
そう思い、目の前に立つもう一人の自分と少しだけ気持ちが重なるのを感じた。……あるいはこの厚い襤褸の下に、俺は彼とそっくりの顔をしているのかも知れない。意味もなくそんなことを考え、それを限りに俺は再び考えるのをやめた。
「こんな朝っぱらから呼びつけてすまなかったね。眠くないかい?」
「……まあそれなりに」
「約束通り一人で来てくれたようだね。それともどっかに伏せてあるのかい?」
「そんなキリコさんみたいな真似はしません」
「あはは。言ってくれるじゃないか。……ああ、後ろのこいつらは気にしなくていいよ。またもらえるもんがあるかと思って連れてきたってだけさ」
廃墟に風はなかった。物音もなく、白みゆく闇の他は動くものとてない空虚そのものの空間に二人の声だけが響いた。
何でもない軽口を叩きあうような会話はその実、のっけから息詰まるほどの緊張感を孕んでいた。当のキリコさんはもちろん、俺と同じように隣で蹲る軍曹も、その辺りははっきりと感じているに違いない。
……ただその緊張感の原因は、例の件ばかりではないのかも知れない。キリコさんが口にのぼらせた後ろの『こいつら』――
なぜならものの二日前、あのDJ捕獲作戦の夜に命を賭けて撃ち合った相手なのだ。それが二匹も背中にくっついているのだから、こちらの要求通り単身乗り込んできているもう一人の俺が警戒するのも当然と言うべきだろう。
その証拠にさっきから二度、三度と、もう一人の俺の視線がこちらに向けられるのを見ている。その視線が警戒によるものだとしたら、あの部屋でのキリコさんの懸念が現実のものとなったということになる。
軍曹までもが《蟻》に扮することにキリコさんが頑なに反対していたのは、ひとえにこの事態を招くことを恐れてのことだったのだ。もっとも結局こうなったのは、議論の終わり際にキリコさん自身の口から出た、いっそ一匹で行くより二匹で行った方が警戒されないかも知れないというよくわからない結論に落ち着いたからなのだが……。
ただ、こちらに向けられるもう一人の俺の眼差しに変化はなかった。相変わらず余裕めかした、何かを悟ったような涼しげな表情で、親しみさえ感じる視線を投げかけてくるだけだ。
そこに警戒の色は見られない。けれども、それにしては何度もこちらを見る。いったいこの視線の理由は何だろう? 俺がそう思い始めたとき、もう一人の俺の口から出た言葉によってその理由が明らかになった。
「手土産なしですみません」
「え?」
「二人も連れてきてもらって。なのにこっちは手土産のひとつもなくて」
「ああ……そんなこと言ってんじゃないよ。ただこいつらのことは気にしなくていい。さっきはそう言いたかっただけさ」
「……そうですか」
その俺の一言に安心したのか、キリコさんは溜息をつきながら無造作に頭の裏を掻いた。そして右腕を腰に少しだけ姿勢を崩し、彼女らしい蓮っ葉な口調でさらに続けた。
「そんなもんはなっから期待しちゃいないさ。こんな朝っぱらから何のためにわざわざ出て来たと思ってんだい?」
「……」
「まあこいつらもあれ運ぶことだけが仕事じゃないんだ。他にも何かと働いてくれるんだよ。なにせ《蟻》だけにね」
「……」
「そりゃまあ、あれ運ぶことも仕事のひとつには違いないけどね。出たときでいいんだ」
「……」
「またあれが出たときにもらえりゃいい。とりあえず今日のところは――」
「ありません」
「え?」
「あれが出ることは、もうありません」
「……」
「俺が隊長をやっている限り、後ろの人たちに曳いていってもらう手土産は出ません。もう二度と、それが出ることはありません」
その宣告に、キリコさんは応えなかった。……応えられなかった、というのが正しいのかも知れない。
この先、あの『捕虜』たちから一人の死人も出さない――もう一人の俺が言っているのはそういうことだ。
その言葉に応えることは、否応なく問題の核心に足を踏み入れることを意味する。会話が始まってものの数分でたどり着いてしまった地雷原に、キリコさんが進むのを躊躇ったとしても無理はない。
だがその言葉に応える代わりに、キリコさんは白衣のポケットに手を差し入れ、そこから小さな薬瓶を取り出した。そうして無言のままもう一人の俺に歩み寄り、おもむろにその薬瓶を俺の前に差し出した。
「だったらこれを使っとくれ。あの子たちのために」
「銃創じゃなくても効くんですか? この薬」
「いや、これはいつものじゃないよ。ただの抗生物質さ」
「……」
「ありていに言っちまえばアスピリンだ。作用は化膿止めと、解熱鎮痛ってところかね。撃たれて死にかけてるやつには飲ませたってしょうがないが、あそこで繋がれてた子たちには必要なんじゃないかい?」
優しく、子供に言い含めるようなキリコさんの言葉を耳にしながら、俺は内心に唸った。……見事な切り返しだった。ここぞとばかりに取り出された小物の使い方といい、文句のつけようがない。
何より、この展開は最初から絵を描いていなければ実現しなかったものだ。それを思えば我が主の相変わらずのえげつなさに呆れるが、疑心暗鬼に陥っているもう一人の俺にとって、これがあくまで有効な演技であることに疑いはない。
「……ありがたくいただきます」
そう言って薬瓶を受け取るもう一人の俺の声にどこか憮然としたものが混じるのを俺は聞き逃さなかった。やはり自分のことだからよくわかる。それは俺の心の中に迷いが生じた何よりの証拠だった。
何に対する迷いか――それも考えるまでもない。
ただ、薬瓶をポケットにしまった俺の表情は、ここに現れたときと同じで変わっていない。吹っ切れたような、すべてを諦めたような顔をそのままに、天気について訊ねるようにもう一人の俺はその質問を口にのぼらせた。
「で、どうすることになりました?」
「……」
「あの人たちの処遇です。今日はそれを話し合うためにこんな朝っぱらからお互いここに出てきた、って俺はそう記憶してますけど」
「……どうするもこうするもないだろ」
「……と言うと?」
「あんたにああ言われちまったら、あたしとしてはそれを呑むしかない。好むと好まざるとに関わらず、ね」
「……」
「主演が勝手にそういう演技を始めちまったんだ。今さら裏方がどうこうできるもんか。せいぜい芝居が止まらないように全力でフォローするだけさ」
どこか投げやりな感じのする、疲れを滲ませたかすれ声でキリコさんは言った。……これも悪くない返しだと思った。この流れでこんな声でこんな返しをするのは、実に悪くない。
だが俺はまだ例の表情を変えなかった。その表情を変えないまま、今度はあからさまな皮肉を感じさせる口調で、「朝令暮改ってやつですね」と冷たく言い放った。
「さっきは無理だって言ってたじゃないですか。それなのにどうしてまた簡単にひっくり返ったんですか?」
「簡単なんかであるもんか。こっちにしたってやむにやまれない苦渋の選択なんだよ」
「……」
「あたしとしちゃ、あんな子たちは放っておきたいってのが本音さ。電話で話した通りに。けど、あんな風にあんたに脅されたら、こっちとしちゃその要求呑むしかないじゃないか」
こんどは悲痛な響きのする、心の奥底に訴えかけるような声だった。ここぞとばかりに畳みかけてくるところはさすがキリコさんと言わざるを得ない。
もう一人の俺がまだ落ちていないことは、相変わらずのっぺりしたその表情でわかる。だが、そんな俺があともう一押しで陥落する瀬戸際に立っていることが、その微妙な表情の変化からはっきりと読み取れる――
「……足がないって言ってませんでしたか?」
「何とかするよ」
「何とかなるんですか?」
「保証はできない。けど、できる限りのことはするつもりさ」
「……」
「あんたが――役者が必要だって言うなら、四の五の言わず何とかしてそれ調達するよ。それが裏方ってもんだろ」
「……」
「あんたという役者を舞台に立たせたのはこのあたしだ。その舞台から降りられなくしたのもね。だからってわけじゃないが、裏方としての責任は果たすさ。無理でもなんでも、そうするしかないじゃないか」
抑制の効いた声でゆっくりと、自分に言い聞かせるようにキリコさんは言った。
誠実な告白だった。併行する思惑はどうあれ、それは一面におけるキリコさんの率直な心情に他ならない。それゆえに、裏で聞いている俺にはそれが彼女の殺し文句であることがよくわかる。
確かにそれは殺し文句だった。もう一人の俺の中に巣くっている疑念を、とりあえずこの場だけでもどこかへ追いやるための。
そう……一見するとそれは実に有効な殺し文句にみえた。さっきの時点で俺が落ちかけていたことを思えば、このキリコさんの言葉が決定打になる可能性は高い。そう思って眺めるスコープの向こうに、けれども俺の表情は動かなかった。
――そこで不意に、まったくの不意にあの感覚が蘇った。あの部屋で軍曹の提案を聞いたときおこった、全身の毛穴が塞がれるような耐え難い居心地の悪さが……。
「――」
駄目だ、と思った。このまま先に進んだら取り返しがつかないことになる――
「あはははは! あはははは!」
俺がそう思うのとほぼ時を同じくして、無人の廃墟に、もう一人の俺の哄笑が響き渡った。
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