169 賽は投げられた(2)

 ――曖昧でとらえどころのない、どこか怠惰な感じさえする眼差しだった。


 けれどもその眼差しが訴えてくるものの前に、俺は冷静ではいられなかった。同じように寝台を見ようとして――それが罠だと気づいて思いとどまるのがやっとだった。


 それでも、俺はそんな彼女の目から視線を逸らさなかった。


 ぼうっとした目でこちらを眺めるキリコさんをじっと見つめ返しながら、彼女の言っていることはおそらく本音なのだろうと思った。


 それがすべてではないのかも知れない――どこか別のところにもっと大きな理由があるのかも知れない。けれども一方で、俺との間に揺るぎのない信頼関係を築かなければならないという彼女の言葉もまた本当なのだ。


 女の武器を使ってでも俺の心を繋ぎ止めたい……いや、完全にしてしまわなければならない。ぼんやりした曖昧な表情の裏に、祈るような気持ちでそんな演技を続けるキリコさんの素顔が、はっきりと見えた気がした。


 息詰まる視線の交錯から逃れ、計器の並ぶ壁に目を逸らした。そうして俺は小さな声で、「できない」と言った。


「そんなことで本当の信頼関係なんて、できない」


「……」


「今、俺が博士ドクターを抱いたところで、そんなことは……」


「……やっぱりあたしのことなんていらないんだ、ハイジは」


「……っ! 違う! そうじゃない! そうじゃなくて――」


 咄嗟に視線を戻して――そこで俺は息を呑んだ。


 ほんのわずかな時間、目を逸らしている間にキリコさんの顔つきは変わっていた。触れれば切れるような真剣そのものの目で、じっと刺すようにこちらを見つめていた。


 やがてその眼差しと同じ冷たく研ぎ澄まされた声で「情報」と一言、キリコさんは告げた。


「わかってるよ。あたしよりも情報がほしいんだね、ハイジは」


 質問とも独り言ともつかないその言葉に、俺は返事を返さなかった。


 ……違う、と思った。実際のところ、俺はもうそれほど情報がほしいわけではない。


 昨日のキリコさんとの衝突のあと、そのあたりについてはだいぶ整理できた。何ら見返りを求めることなく彼女の道具としての《兵隊》を演じる――この舞台において、俺の役はそれでいいと気持ちに折り合いがついたのだ。


 けれどもそれを、俺はここであえて言葉に出さない。


 なぜならこの舞台において自分が演ずるべきを考えた場合、俺は何より情報がほしいのだと彼女に信じさせておいた方がこの先なにかと都合がいいからだ。


「自信なくすね。そんなに女としての魅力ないかい? あたしには」


 おどけた台詞を口にしながらも、彼女の声の調子は変わらなかった。


 その質問に俺は唇を噛みしめ、黙って首を横に振った。……半分、演技ではなかった。折からの劣情はまだ心の中に燃えさかっているし、本音ではすぐにでもカーテンの奥に連れこみ、そのまま彼女の言うを受け取りたくて仕方がない。


 なんとも滑稽な話だった。手を伸ばせば届く本当にほしいものをいらないと言い、もうたいしてほしくもないものをほしいと言う――本音と演技が完全に擦れ違っている。けれどもこの舞台の、少なくともこの場面において、その擦れ違ったちぐはぐな演技は、おそらく正しい。


「どうして」


「……え?」


「どうしてそんなに情報がほしいんだい? ハイジは」


 低く抑制のきいた一言だった。静かなその質問に、けれども逃げることは許さないというキリコさんの声を聞いた気がした。


 逃げるつもりはない――そう思って頭の中に答えを探した。だが改めて探すまでもなく、その答えはもう出ていた。


「人形じゃないから」


「え?」


「何も考えないで動けるような、俺は人形じゃないから」


 俺の回答にキリコさんは一瞬、はっと驚いたような顔をし、すぐに目を伏せて俯いた。


 あきらかに演技から離れたの色がその表情に浮かんでいるのを認めて、俺は自分の答えが期せずして彼女の急所をついたことを知った。


 同時に、一昨日の醜悪なダンスパーティーを思い出した。


 好色に澱んだ老人たちの目と、感情を宿さない人形の目……。彼女を俯かせ、その顔を羞恥に歪ませたものが、俺と共に眺めていたその光景であることを思い――反射的に飛び出しかけた言い繕いの言葉をすんでのところで呑みこんだ。


「そうだね……その通りだ」


 長い沈黙のあと、キリコさんは俯いたまま独り言のようにそう言った。それからゆっくり顔をあげ、恥じらいを浮かべたままのどこか悔しそうな目で俺を見て、消え入るような声で「ごめんよ」と言った。


「ハイジの気持ちも考えないで。あたしの都合ばかり押しつけようとして」


「別にそういうわけじゃ……」


「わかったよ」


「……」


「あたしも覚悟を決める。話せることはぜんぶ話す。たとえそれを聞かせることでハイジとの関係が逆に壊れるようなことになっても」


 そう言って彼女は真っ直ぐな眼差しで俺を見据え、だがすぐにその表情に翳りが生じた。


 まるで飛び立とうと羽を広げた鳥が直前でそうするのを止めたようにキリコさんは一度俯き、それからまた頭をあげ、今度は救いを求めるような目で俺を見た。


「けどさ……昨日も言ったけど、喋れないことはどうしたって喋れないんだ」


「……」


「あたしたちの関係が壊れるだけならまだしも、別のものまで壊れちまったら取り返しがつかないんだよ」


「……何ですか? その別のものって」


「理解してもらえるかわからない……けど、有り体に言えばね、ハイジが認識してるこの世界だよ」


「……っ!」


 そのキリコさんの言葉に俺は固まった。存在を忘れていた不発弾を目の前にごろりと転がされた気がした。


 そんな俺に構わずキリコさんはまた無造作に髪を掻き上げると、困ったように小さく溜息をついてその話を続けた。


「この世界は、ハイジがここへ来るまで暮らしてた場所とは違ってる。そもそもの成り立ちというか、根本的なところで色々と。それはもう、ハイジもわかってると思う。それでも、ハイジは今のところうまくやってる。疑問や葛藤みたいなものを抱えこみながらもこの世界に順応しようとして、おおむねでそれは成功してる。そうじゃないかい?


「人間てのはそういう風にできてて、どんな環境でものところで妥協してやっていけるもんだし、精神の方で自動的にそういう折り合いをつけてくれるもんなんだよ。心理学の専門用語でそいつを『適応機制』とかそんな言葉で呼ぶんだけどね。頭かしげるようなことがあっても『まあいいか』で心の方が勝手に片づけてくれる、そんな便利な仕組みが備わっているのさ。


「けど、その便利な仕組みにも限界がある。自分の中にある世界と実際のそれとの乖離が大きくなると、人間の心はそれこそ滅茶苦茶なこじつけでその整合をはかるようになって、しまいにはそのシステム自体が壊れちまう。そうなったらもうお手上げだ。そのへんの修復は専門家でも難しいって話だし、あたしなんかにはどうすることもできない。


「つまりね、あたしが下手なこと吹きこんだせいで、せっかくうまくいってるハイジの順応が壊れちまいかねないんだよ。これ以上、ハイジの中にある世界と実際のこことの距離を広げるようなこと教えたくないんだ。それで壊れるのはハイジの精神が持ってるシステムに過ぎないよ。けど、ハイジにとってはそれでこの世界そのものが壊れちまうのと同じで、あたしが言い渋ってた理由は要するにそれさ。……回りくどい言い方になっちまったけど、言ってることわかるかい?」


「……わかります」


 どうにかそう返しただけで、それ以上俺は何も言えなかった。


 あの日曜日のホールで隊長から受けた指摘の意味をようやく理解できた気がした。……それは舞台に立つ上での心得といったような観念的な教訓ではなかった。警告だったのだ。


 《兵隊》の分を超えて知るべきではないことまで知ろうとしたとき、この世界は崩壊する。それが誇張でも何でもなく確かに起こりうるものだということを、理屈や論理ではなく皮膚感覚として……戦慄とともに俺は理解した。


「……よくわかりました」


「そうかい」


博士ドクターの考えも知らず、すみませんでした。もう、何も聞いたりしません」


「いや、いいんだ。さっき言ったことは守るよ」


「え?」


「話せることはぜんぶ話す。あたしにとって都合の悪いことも、ぜんぶ。ハイジの世界を壊さない範囲内でね」


「……」


「言いくるめようなんて思っちゃいない。誤解のないように手の内を晒したまでさ。何もかもってわけにはいかないってことをわかってもらうためにね。あげても問題ない情報はぜんぶあげるよ。あたしが今ハイジにあげられるものは、どうやらそれくらいしかないようだから……」


 そう言ってキリコさんは、また少し寂しそうな目で俺を見た。それからテーブルの上に肘を立てて両手の指を組み、それで口元を覆うようにして言った。


「嘘はつかないよ」


「……」


「どんなに都合の悪いことでも嘘はつかない。騙したり、ごまかしたりもしない。その代わり、答えられない質問には答えない。そんときゃ黙って首を振る。それがぎりぎりってところだ。……とりあえず今のところはそんなんで許してくれるかい?」


「許すも何も――」


「許してくれるかい? って聞いてんだけどね、あたしは」


「許します、もちろん」


「よろしい」


 そう言ってキリコさんは穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔に、俺は不覚にもどきりとした。演技とは何の関係もない、純粋に一人の男としてのだった。


 そんな俺に構わずキリコさんは組んだ手をテーブルの上に置き、真剣な表情で真っ直ぐに俺を見つめて言った。


「で、どうなんだい?」


「え?」


「情報だよ。さしあたって何が聞きたいんだい? ハイジは」


「ええと……」


 会話の流れからすれば当然の質問だったが、すぐには返事が返せなかった。情報がこの世界を破壊しうるものだということを認識した直後だけに、疑問を素直に口にすることが躊躇われたのだ。


 ……だが答えられない質問には答えないというキリコさんの言葉を思い出し、それはそれで構わないのだと思い直した。


 俺はこれまで通り、引っかかっていることをそのまま口にすればいい。さしあたって俺の中で最も重く引っかかっていることといえば――


「あの廃墟で見た、もう一人の自分について聞きたいです」


 俺の質問にキリコさんは申し訳なさそうな表情を浮かべ、無言のまま首を横に振った。


 そんな彼女の応えに俺の方では落胆もなく、ただやっぱりかと思った。に関して詳しく知ることで俺がどうにかなってしまうかも知れないということは、さっきの説明を聞くまでもなく薄々感じていたことだ。


 ただその質問がNGということになると、他に聞きたいことは……。


「なら、博士ドクターがさっき言ってた、この研究所に差し迫る危機っていうのは?」


 それは昨日、今日で急浮上した疑問だった。


 おそらく俺が『歯車の館』でクララから預かった隊長からの言伝をトリガーとするキリコさんの変化――彼女がいつになく取り乱し、差し迫る危機などというものをほのめかし出したのは、俺がその言伝を口にしてからだ。


 あの暗号のような言伝に何か重大な意味が隠されていたことは間違いない。それが何であったか気にならないと言えば嘘になるし、この先も彼女の道具として使い回される身としてはその危機がどんなものか、それだけでも知っておきたい。


 その質問にキリコさんはしばらく難しい顔で考えこむ素振りを見せたが、やがて諦めたように首を振った。そのあとにつけ加えて、「今は駄目」と呟いた。


「そのへんはいずれ話すよ。けど、今は駄目だ」


「それなら、『歯車の館』のこと」


「え?」


「あの『歯車の館』のことです。あれがどこで、何が起こっているのか」


「……」


「前に仮想現実とか言ってましたけど、それが具体的にどんなものなのか……うまく言えないけど、そのあたりが知りたいんです」


 ほとんど思いつきで口に出したそれは、けれども俺の中でくすぶっている最大の疑問のひとつだった。


 非現実を絵に描いたような歯車だらけの空間。何度殺されても死なない常軌を逸したルール。そのどれをとってみてもあの場所は謎だらけで、なまじ仮想現実などというキーワードが示唆されているだけに、その正体を知りたいという気持ちは尽きない。


 俺からその質問がかかると、キリコさんは何を思ってかじっと俺を睨んだ。そのまま刺すような目でしばらくこちらを凝視したあと、小さな低い声で「ボーダーラインか」と呟いた。


 それから目を閉じて大きく一つ溜息をつき、再び見開いた目をまた真っ直ぐにこちらへ向けて、言った。


「わかったよ。あの場所のことについて話す」

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