168 賽は投げられた(1)

 ――コーヒーの匂いで目覚めた。淹れたての短い時間しか嗅ぐことのできない、どこか焦げたような香味の混じる、深くかんばしい匂いだった。


 半ばその匂いにつられるように俺は寝台の上に起きあがり、カーテンを引き開けた。


 テーブルの傍らに立ち、折しもカップにコーヒーを注ごうとしていたキリコさんの目がこちらを見た。そうしてその視線を手元に戻しながら、静かな声で「おはよう」と彼女は言った。


「……おはようございます」


「いいタイミングで起きたね。ちょうどコーヒーが入ったとこだよ」


「……」


「もう少し眠ってたいのかい?」


「いえ……もう起きます」


「だったら顔洗っといで。せっかくのコーヒーが冷めちまう前に」


「はい、博士ドクター――」


 言いつけ通り洗面所で顔を洗い戻ってくると、キリコさんは既に朝食をとり始めていた。ふと、コーヒーカップを口に運ぶその姿にいつもと違う印象を覚え、すぐにそれが服装のためだということに気づいた。


 今朝に限って彼女は白衣を着ておらず、飾りのないブラウスにチノーズのパンツというシンプルな装いでまとめている。眼鏡もしていない。キリコさんは目の動きで向かいの席に座るように促し、俺は黙ってそれに従った。


 テーブルに並べられた皿を眺めて、そこでも昨日までとの違いを感じた。座の真ん中を占めるシリアルとドライフルーツに変わりはないが、それに加えて今朝は別々のボウルに盛られたスープが熱い湯気を立てている。


 そればかりではない、肉料理まである。見た限りランチョンミートを温めたもののようだが、久し振りに嗅ぐ肉の匂いは食欲をそそり、小綺麗に添えられたベビーコーンも相俟って、朝からちょっとした御馳走のように思える。


「何か、今朝は豪華ですね」


「そうかい?」


「肉とか初めてじゃないですか」


「ああ……あたしがそんなに好きな方じゃないんでね。けど、ハイジには御馳走だってことならこれからはちゃんと出すよ。あと何か希望があるようなら、調達できる範囲で調達してくるけど、どうだい?」


「いや……特には」


「そうかい。ならいいけどさ」


 そう言ってキリコさんは口をつぐみ、会話が途絶えた。


 ……朝食の献立が変わったことといい、妙にあからさまなキリコさんの気遣いを感じる。思い当たることがあるとすれば昨夜の一件だが、俺の方ではだいぶ気持ちの整理がついているそれを彼女がどう引きずっているのか、そこまではわからない。


 そんなことを考えながら俺はスプーンをとり、小さな野菜の浮くまだ充分に熱いスープに口をつけた。


 ――しばらくしてまたどちらからともなく会話は再開されたが、いつにないぎこちなさが靄のように漂っているのを感じた。内容にしてみても差し障りのない、注意深く選ばれた話題がほとんどで、まるで昨日寝る前にした会話をそのまま繰り返しているようだった。


 無視していると思われない程度に返事を返しながらも俺は、そんな煮え切らない彼女の態度にもどかしさを覚えた。


 言いたいことがあるならはっきり言えばいい――何度も口までのぼりかけた台詞をそのたびに飲み下して、それと一緒に彼女が俺の歓心を買うため用意したに違いない料理を遠慮なく食べ続けた。


 その図式に変化が訪れたのは、皿の上のものがあらかたなくなり、食事も終わりに近づいた頃だった。


「――え?」


「だから、サウナだよ」


「……」


「朝風呂ならぬ朝サウナには入りたくないかって、そう聞いてんだけどね」


 キリコさんの口からサウナという言葉が出たとき思わず聞き返したのは、それがうまく聞きとれなかったからではない。その単語がここまでの会話の中で巧妙に避けられ、一度も話題にのぼらなかったものの一つだったからだ。


 昨日、廃墟への訪問を皮切りに俺たち二人の間に起きた幾つかの事件。そのクライマックスとも言うべきに迫るキーワードが何気なく彼女の口から飛び出したことで、一瞬、俺はそれを聞き違いか何かだと思ったのだ。


「どうなんだい? 入りたいなら準備するよ」


「……いや、いいです。昨日ちゃんと入りましたから」


「そうかい? あんまりちゃんと入ってたようには思えないけどね。最後、ろくに身体も流さず出ていっちまってたし」


「……」


「ちゃんと入るなら今のうちだよ? 今日は今日でこれから片づけなけりゃならないことが山積みだからね」


「……やっぱりいいです。とりあえず、今は」


「そうかい。まあ、ハイジがいいならいいさ」


 素っ気ない調子でそう言うとキリコさんはドライフルーツの椀に手を伸ばし、イチジクの実をつまんでそれを口に運んだ。


 サウナの話はそれで収束したようだったが、俺にしてみれば半分眠っていたところを叩き起こされた思いだった。


 一歩どころではない、何の前触れもなくいきなり真ん中まで無造作に踏みこんできた。そしてそれが彼女の口から語られたことで、俺はそのときのことをありありと思い出した。


「……」


 ……蒸気のこもる薄暗がりでの事件。湿った布越しに白い肌の透ける艶めかしい身体と、そのあとのこと。


 本人を前に湧きあがってくるそんな記憶に俺は反射的にキリコさんから目をそらし、だがそんなことをすれば彼女の思うつぼだと気づいて、また視線を戻した。


 そこで、こちらを見るキリコさんと目が合った。


「何だい、人の顔じろじろ見て」


「……別に見てません」


「またキスしたくなったのかい? 昨日みたいに」


「……っ! したのは俺じゃなくてキリ――博士ドクターです」


「あれ? そうだったかねえ?」


「そうです。サウナでいきなり」


「まあどっちでもいいさ、そんなのは」


 何気ない様子でそう言いながらキリコさんはまたイチジクの実をつまんだ。それが擬態であることは何となくわかったが、その理解も俺にとって救いにはならなかった。


 どんなに打ち消そうとしてみても、頭は勝手に昨日の映像を思い浮かべてしまっていた。薄暗いサウナの中でのことを……濡れた薄衣がぴったりと肌に貼りついた身体と、自分のものではない濃い汗の匂いと――


「ひとつ聞きたかったんだけどさ」


「え?」


「どうだった? あたしは」


「……何の話ですか?」


「身体だよ、あたしの身体。ハイジにとって、あたしの身体はどうだったのかと思ってね」


 その露骨な質問に俺は思わず言葉を失った。だがその質問を口にしたキリコさんの方では、まるでこちらの頭の中などお見通しと言わんばかりに平然とした顔を崩さない。


 そんな彼女の態度に苛立ちを覚えてみたところで、俺の頭の中は実際にそのことでいっぱいなのだから始末に負えない。気がついてみれば、俺はもう彼女の術中にはまっていた。


「……よく見えませんでした、暗くて」


「ふうん……そうかい」


「熱くてぼうっとしてたし……それに、博士ドクターは服着てたじゃないですか、一応」


「ん? ……ああ、違う違う」


 一瞬、不審そうな表情を浮かべたあと、キリコさんはそう言って空いている方の手を振った。そうしながらもう一方の手でシリアルをつまみあげ、口との間でそれを半分に折ってから、「昨日のことじゃないよ」と、シリアルをくわえたままの唇を器用に動かして言った。


「あっちでのことさ、あたしが聞きたかったのは」


「あっち?」


「ここへ来る前にハイジが暮らしてたとこのことだよ」


「……ああ、そっちですか」


「そっちではあたしと恋人同士だったんだろ? だったら身体くらい見たり触ったりしてたんじゃないかと思ってさ」


「なんか聞き違いがあったみたいですけど、恋人同士じゃなかったですから。俺たち」


「ああ……その一歩手前で止まってるとか言ってたっけね、そういや」


「……そうです」


「それじゃハイジが見たあたしの身体は、昨日のあれが初めてってことになるんだね」


「……っ! そうです」


「ならそっちの感想聞きたいとこだけど、よく見えなかったんじゃ仕方ないね。そうとわかってりゃもう少し明るくしとくこともできたのにさ――」


 それからしばらく、そんな調子の会話が続いた。


 流れを変えようと俺が別の話を振ってみても、話題はいつの間にか俺の妄想を煽るようなものに戻っていた。


 直接的な言葉はなかった。キリコさんの口から出る言葉はどれも秘密の小部屋を鍵穴から覗かせるように遠回しなもので、だがそれだけに――それが巧みに仕組まれたものだとわかっていてもなお、昨日サウナの中に見た彼女を思い出して劣情がこみあげるのを抑えられなかった。


 だがそうするうち、俺はまた強い既視感を覚えはじめていた。


 自分が目の当たりにしているものがいつか見た光景であることに気づいた。そう……あの舞台前最後の一週間。ヒステリカの崩壊が決定的になってから最後の土曜日まで、キリコさんは俺を前にちょうどこんな感じの思わせ振りな、こちらの劣情をかき立てるようなことばかりを口にしていた……。


 それに気づいたことで、俺の中に暴走しかけていた劣情は昨日と同じように急速に治まっていった。そして自分が昨日、キリコさんを前に演じ始めた演技のことを思い出した。


 彼女を理解しながら理解できない振りをする、の演技。


 ……図らずもここまで、素で俺はその演技をしていた。けれどもこの先は――それが演技であることを認識したここからは――同じように演技するキリコさんの意図を汲んで、その上でそれに抗う自分の演技をしていかなければならない。


「……どうしてですか?」


「ん?」


「どうして、さっきからこんな話になってるんですか?」


「こんな話って? どんな話だい?」


 そのキリコさんからの質問に、俺は応えなかった。代わりに彼女から目を背け、軽く下唇を噛むようにしながら俯いて見せた。


 ……少し過剰な演技になりすぎているのではないかという思いはあった。舞台前のあのときも、俺はここまではしていない。だが、演技の方向としては間違っていない。その確信をもって、俺はしばらく俯いたままでいた。


 果たして、キリコさんからの反応はなかった。茶化すような声やごまかしの言葉がかからなかったことで、俺は自分の演技がことを知った。


 そこで初めて、俺は頭をあげて彼女を見た。視線がぶつかるとキリコさんはにわかに気まずそうな表情をつくり、今度は彼女の方でその視線を逸らした。


「……自信がなくなったんだよ」


「え?」


「報酬なんていらないって、ハイジがそう言うもんだから。それが本心だとしたら、この先どうすればいいのかわからなくなってさ」


「……」


「だって、そうだろ。そういうことならあたしたちの関係が土台から崩れちまう。だからこういう話でもして探りを入れたかったし、乗ってくるようなら前払いになっちまってもいいか……みたいに思ってね」


 そこまで言うとキリコさんは視線を戻した。かすかに憂いを帯びた真摯な眼差しに、俺はまた俯いて視線を逸らした。


 ――だが、それは演技ではなかった。素のままの演技に立ち返って、再び暴走を始めようとする自分を必死に抑えながら、頭の中に次の台詞を探した。


「……後払いでいいです」


「……」


「そういう契約だったじゃないですか」


「そうだったんだけどね」


「だったら――」


「けど、そういうわけにもいかなくなっちまったんだよ、これが」


 どこか乾いた響きのある、諦めたような一言だった。何となく気の抜けた思いで頭をあげると、やれやれといった感じで前髪をかきあげるキリコさんと目が合った。


 今度はどちらからもその視線を逸らさなかった。投げやり気味の声と態度をそのままに、小さく溜息をついてからキリコさんは続けた。


「正直な話、いよいよまずいことになってきちまったんだよ。昨日、ハイジが届けてくれたジャックからの情報が本当なら、レッドゾーン通り越して爆発寸前ってとこだ。今までのように悠長なこと言ってられなくなった。ここから先はあたしたちの間に本当の信頼関係がないと動けないのさ」


「信頼関係なら……」


 言いかけた俺の言葉に、キリコさんは首を振って応えた。そして少し寂しそうな目で俺を見て、「昨日みたいのがあったら駄目なんだよ」と言った。


「納得できない部分、少しでも残しといたら駄目なんだ。文字通り二人でひとつになってかからないといけない。そういう状況になってきちまったんだよ」


「……」


「そのために一番てっとり早いのが報酬の前払いだと思ったのさ。幸いあたしたちは男と女だ。モノとしてひとつになることで心がひとつになる……その可能性に賭けてみたかったんだよ」


「けど、それは――」


「それにね。後払いだとハイジに損をさせる公算が高くなってきちまった」


「……」


「言ってることわかるかい? それだけせっぱ詰まった状況になってきたんだ」


「……!」


 ――すべてが終わったとき、あたしもハイジも無事だったらね。


 あのときのキリコさんの言葉が蘇った。後払いだと俺に損をさせる公算が高くなった。その意味は、問い返すまでもない。


「……そうですか」


「だからもう前払いでいい。ハイジの欲しいものを、好きなようにしてくれていいんだ。いつだっていい……今からでもいいよ。ハイジが欲しいって言うんなら、今からでもあたしはそれをあげるよ? 今なら邪魔は入らないし、できる場所がないわけじゃないし――」


 そう言ってキリコさんは俺がさっきまで寝ていた寝台の方を見た。それからまた視線を戻して、どこか寂しそうなぼんやりした目で俺を見つめた。

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