167 試験場と二重身(10)

「……おお」


 木製の戸を押し開くと、薄暗い中から木の匂いが混じる乾燥した熱気が俺を襲った。


 木製のベンチがしつらえられた、ごくありふれたサウナだった。ただ部屋の隅で熱を放つストーブの頭から覗く幾つもの岩と、壁に立てかけられた緑のが普通とは違う。


 中に入った俺はキリコさんの言いつけ通り、持って入った桶の水を手ですくい、岩にかけた。


「……うお!」


 しゅん、という音とともに盛大な蒸気が立ちのぼる。その蒸気を浴びる俺の身体には、汗が早くも小さな玉をつくり始めている。


 もう二度、三度と岩に水をかけてからベンチに腰をおろす。そして壁に立てかけられていた――緑の葉をつける木の枝を何本かまとめたものを手に取り、それで身体をはたく。


「……おお」


 肌を打つ木の葉の感触に、俺はすっかり楽しくなった。汗はもう全身を滝のように流れ、埃まみれだった身体を洗い清めてゆく。


 このと岩が、またよかった。脱衣場まで案内してくれたキリコさんの言葉によれば、本場のものをあつらえて作らせたそうだ。いかにも彼女らしいこだわりの仕様に、贅沢なありがたみをひしひしと感じた。


「……」


 だが少しして慣れてしまえば、それはただのサウナだった。ともあれ、こうして汗を流せるのが何より嬉しい。


 を壁に戻し、桶の水からタオルを引き上げた。そのタオルを固く絞って、流れ落ちる汗を拭きしな身体の垢を落とす作業にかかった。


 文字通り、それは待ち侘びた作業だった。ほとんど我を忘れて一頻り俺はその作業に没頭した。不作法であることはわかっているが、ここには俺の他に誰もいない。身体中の垢を落とし尽くす思いで、足の指の股にまでタオルを伸ばした。


 ――そんな作業に熱中していたせいで、音もなく扉を開け入ってきた彼女に、俺はしばらく気がつかなかった。


水気みずけが足りないじゃないか。ちゃんとかけたのかい?」


 そう言ってキリコさんは桶を取り上げ、その水を慣れた手つきでストーブの岩に振りかけた。もうもうと立ちこめる白い蒸気が、薄衣うすぎぬに包まれた身体を隠した。


 彼女は裸ではなかった。膝までの薄いローブのようなものをまとい、髪をタオルでまとめあげていた。


 だがその薄い布はキリコさんの女らしい身体の線を逆に艶めかしく浮かびあがらせていた。汗か、それとも蒸気のためか、ぴったりと張りついたその布を通して、上気した肌の色がおもてに透けて見えた。


「水はこのくらいかけないと駄目なんだよ。それも一度にかけるんじゃなくて、間をおくんだ。柔らかい湿りが肌に触れるくらいがいいのさ。ほら、ちょうどこのくらい」


 脱衣場で服を脱ぐ前の俺に説明したそのままの調子で、平然と気負いなくキリコさんは語った。


 ――だが俺の方では気負いどころの騒ぎではなかった。足の指にタオルを巻いたまま固まっていた俺は、我に返るや大慌てで居住まいを正し、タオルをにかけた。


 そんな俺の狼狽を気にする様子もなく桶を降ろすと、キリコさんは俺の隣――直角に曲がったベンチの角を隔てて隣に、片膝をつき合わせるようにして座った。


「なかなかいいもんだろ? あたしが研究所ここへ来る条件のひとつにあげたのがこれさ」


「……」


「これを作ってくれないならその話はなかったことにしてください、ってね。本当ほんとは風呂がほしかったんだが、さすがにそこまで我が儘は言えなかった」


 自慢気に話すキリコさんの声も、まったく頭に入ってこない。……そんなものが入ってくるはずもない。


 頭の中は隣に座るのことでいっぱいで、それ以外は何も考えられない。


 既に変形を終えて高々とタオルを持ちあげる自分の一部に、涙が出るほどの情けなさを覚えた。不可抗力だと自分に言い聞かせてみたところで劣情に支配される頭と身体をどうすることもできない。


「……迷惑だったかい? 入ってきて」


 やがてキリコさんは気遣うような目をこちらに向け、申し訳なさそう尋ねてきた。


 咄嗟に俺は目をそらした。そうすることで逆に追いこまれるのがわかったが、まともに見つめ返すことなどできるはずがなかった。


「……いや、違うね。最初からわかってたんだ。ハイジが迷惑がるってことは」


「……」


「けど、ちゃんと仲直りしときたかったんだよ」


「……」


「こうやって裸で向き合えば、お互い少しは素直になれるかと思ってね」


 それだけ言ってキリコさんは黙った。薄暗いサウナに、憂いを帯びた横顔が俺の胸を激しく掻きむしった。


 彼女の言っていることは理解できた。だが、そんな言葉には何の意味もなかった。


 俺はただ隣にあるその身体に手をのばさないでいるのがやっとで、自分をそんな状況に追いこんだキリコさんを憎む心と……それでも否応なく感じてしまう男として胸躍る気持ちとで頭がおかしくなりそうだ。


 ……なぜキリコさんはこんな暴挙に出たのだろう。燃えさかる劣情を持て余しながらふと、俺はそう思った。


 いかにキリコさんと言っても――いや、キリコさんならばこそ、俺がこの状況で理性を失うかも知れないことは簡単に想像できるはずだ。


 ここで彼女の腕を掴んで乱暴に身体を引き寄せ、そのまま獣になったとしても俺に責任はない。その責任は彼女自身にある。むしろこんな格好で入ってくる以上、そうしたことが起きるのを彼女の方で期待しているとしか思えない――


「……」


 ――そこまで考えて、俺はキリコさんの思惑に気づいた。


 彼女が何をどうしようとしているのか、それがわかったわけではない。そういったすべてをつぶさに理解したのではない。


 ……ただ、思い出したのだ。ここへ来る前のあの七日間で彼女が見せた誘惑の数々――今はもう、その一連のやりとりを。


 今ここで抱かれてもいい。いや、むしろ積極的に抱かれようとしている――そんな彼女の思惑を、俺ははっきりと理解した。


「……」


 ……あの一週間に何度も繰り返された茶番。これがその焼き直しだということを、急速に冷めてゆく頭で他人事のように悟った。


 何が彼女をそうさせたのかはわからない。そこにどんな打算がはたらいているのかもわからない。


 ――ただそれがわかって、俺はぎりぎりのところで劣情の嵐をやり過ごすことができた。


「……嘘です。さっきの」


「え?」


「キリコさんをほしくないって言ったこと。嘘ですあれは。取り消します」


「……」


 ――だが、同時にわかった。


 俺がに気づいたことを、


 もし、俺がに気づいたことが彼女に伝わったら、その時点で二人の関係は終わる。


 少なくともキリコさんが俺との間に求めた主従の構図において、俺たちの関係は取り返しがつかないほどに損なわれる――それがわかった。


 何の根拠もない、それは確信だった。


 一昨日の契約で始まった、ここにいる俺たち二人の関係。その関係を守り抜くためには、俺がに気づいたことを絶対にキリコさんにどられてはならない――


 そのことを思って、俺はまた彼女の憂わしげな横顔を見た。


「今すぐにでも抱きたいです。キリコさんのこと」


「……」


「頭がおかしくなりそうです。今もそうしたくて」


「だったら――」


「けど、俺は何も隠してません」


「……」


「今日『歯車の館』であったことで、俺が隠してることは何もない。それは本当です」


 劣情にえかねる無垢な男の演技を続けながら、これでは本当にあのときの焼き直しだと思った。


 精神的な立場は違っている。何も知らずに演技している彼女と、すべてを知ったうえで演技している俺――その一点において、二人の立場はあのときと反転している。


 だが表面だけなぞれば、今のこれはあのときと酷似している。あけすけで大胆な彼女の手管も、ぎこちなくそれを拒む俺の反応も……。


「……なのに、それを勘ぐるようなこと言われたから」


「……」


「余裕がなかったんです。昼間に見たもののことも気になってたし、頭ん中ぐちゃぐちゃで……」


「……」


「あんなこと言う気はなかったんです。それだけは信じてください。けど、あの流れであんなこと言われたら誰だって――」


「ああ! もうやめやめ!」


 歯切れのいいキリコさんの一言が俺の繰り言を断ち切った。


 そのまま彼女は立ち上がり、俺の前に立った。濡れた薄衣の張りつく乳房が目の前で大きく揺れた。


 もはや演技でなく俯こうとする俺の頭を彼女の両手がとらえ、上を向かせた。


 彼女の顔が近づいてくる――そう思ったとき、それキスはもう終わっていた。


「……ぜんぶあたしが悪かったよ。これで赦しておくれ」


 はにかんだ笑顔でそう言ったあと、キリコさんはサウナを出ていった。


 一人残された俺はしばらく呆然と彼女の出て行った扉を眺めていた。だがほどなくして立ち直ると膝の上に手を組み――同じだと思った。


 何から何まで、本当にあのときと一緒だ。


 そんなことを思いながら、脱衣場にキリコさんの着替える衣擦れの音が止むのを待った。


◇ ◇ ◇


 部屋に戻った俺たちは朝と似た食事をとり、それから寝るまでまで取り留めのない話をした。朝、話題に出た向こうの世界のことでも、今日廃墟で見たことでもない、取るに足りない雑多な話を、余分な時間を潰すようにゆるゆると続けた。


 そのうちに時間が来て話すのをやめ、カーテンを隔ててそれぞれの寝台に入った。


 キリコさんの手で照明が落とされた。おやすみの挨拶はなかった。計器の低い唸りの中に、キリコさんが身じろぎするかすかな音がしばらく聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなった。


 眠りに落ちる前のぼんやりした頭に、結局、俺たちの関係は変わってしまったのだと思った。


 ぎりぎりはしなかった。だが、決定的なところで何かが変わってしまった。……ただそれが何か、はっきりとはわからなかった。


 そうして最後に、廃墟で会ったもう一人の自分を思った。


 俺と同じように舞台に立つもう一人の自分――俺とはまったく別の舞台に立つ自分のことを考えた。


 ……あいつは今ごろ何をしているのだろう。アイネやDJを相手に、あの廃墟の中でどんな演技をしているのだろう?


 眠りに落ちるまで、何度も繰り返しそのことを思った……もう一人の自分が立つあの舞台は、いったいどんな舞台なのだろう、と。


 そしてもうひとつ。が立っているこの舞台は、いったいどんな舞台なのだろう、と。

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