166 試験場と二重身(9)
気がついたとき、目の前にはキリコさんの顔があった。天井の灯りを逆光に、ぼんやりと暗い影をたたえた顔がじっと俺を見ていた。
俺が目を覚ましたのを確認すると、キリコさんは何も言わずカーテンの向こうへ消えた。カーテンがかすかに揺れ、ほどなくしてその動きを止めた。
……そうして俺はまた自分が昨日と同じように、あの最初の寝台の上に目覚めたのだということを知った。
「……どうだったんだい?」
カーテンの向こうからキリコさんの声が聞こえた。
何について尋ねているのかは、もちろんわかった。だが俺はその質問に、すぐには答えを返さなかった。
引き裂かれた痛みがまだ喉のあたりに燻っている……そんな気がして、性急なキリコさんの質問に軽い苛立ちのようなものを覚えた。
「……返事がないのはどういうわけだい?」
「いえ、ちょっとまだ頭がよく働かなくて。殺されたばかりなんで」
その俺の返事にキリコさんは黙った。言ってしまってから、それがあからさまな嫌みになっていることに気づいた。
けれども、言い直すことはしなかった。一方で、それは隠し立てのない俺の本心に違いなかったから。
唐突にカーテンが引かれた。キリコさんはカーテンを引いた手をそのままに、しばらくじっと俺を見つめた。
無表情に近いその顔からはどんな感情も読みとることができない。だがやがて彼女はその顔に曖昧な笑みを浮かべると、「済まなかったね」と自嘲するように言った。
「つらい目に遭ってきたハイジの気も知らないで。済まなかったね、
「……いえ」
「この通り謝るよ。これでいいかい?」
「いいとか悪いとか、そんなんじゃ……」
「コーヒーは?」
「え?」
「飲むかい? コーヒー」
「……コーヒーより水が」
「水だね、わかったよ」
そう言ってキリコさんは振り返り、流しの方へ入っていった。そこから彼女が帰ってくる前に俺は寝台を降り、テーブルの席についた。
キリコさんがグラスに酌んできてくれた水を飲みながら――向かいで彼女が飲むコーヒーの芳しい匂いを嗅ぎながら、今日の訓練について簡単に報告した。
もっとも、結局、昨日と同じようにただ殺されただけだったそれは、言葉にすれば短く平坦なものだった。
まず逃げ、乱射で反撃に転じ、最後はまんまと少女の誘いに乗って殺された……それだけだった。
もちろん、俺はその間に色々なことを考えたし、幾つもの葛藤があった。けれどもそうしたものには触れず、目に見える事実だけをキリコさんには伝えた。
「――最後は上からでした。踏みこんだ歯車の陰にも、その周りにもどこにもいなくて。そこだけはちょっと、まだ疑問なんです。何であそこで上から来られたのか……」
「歯車だろ」
「え?」
「歯車の上に立ってたんだろ、おおかた。そう考えるしかないんじゃないのかい? 上から降って来たってんなら」
「そうか……そうかも」
キリコさんの指摘で、あの最後の攻撃の疑問も解けた。
なるほど、考えてみれば歯車の中には勢いよく回っているものもあれば、だいぶゆっくり回っているものもあった。
俺が踏みこんだ瞬間にあの歯車の上に飛び乗り、そこから俺目がけ降ってきたのだとしたら話の辻褄は合う……。
「……けど、歯車に乗るなんて考えてもみなかった」
「それが今日の収穫じゃないかい?」
「歯車にも乗れるとわかった……ってことですか?」
「そうじゃないよ。あらゆる可能性を想定してかからないと、敵は上からでも降ってくるってことさ」
「……そうですね」
うまくキリコさんが締めて、報告はそれで終わった。
それからしばらく、二人の間に沈黙が流れた。重く深いその沈黙の理由が俺にはわかった。半ば義務的な報告が済み、訓練の問題が頭から消えたことで、時間がその前に巻き戻ったのだ。
俺が訓練に向かうためにキリコさんと別れたあの扉の前に。
気まずい沈黙を抱えて歩き続けた通路に――風の音を聞きながらペダルを漕いだあの葬送の荒野に。
聞きたいことが山のようにあった。今日あの廃墟であったことの、ほとんどすべてと言っていい。アイネたちのこと、あの死体のこと。……そして何より、もう一人の俺のこと。
それを聞くことができないのは、まともな答えが返ってこないことがわかりきっているからではない。それ以上に、そのことを聞かせまいとするキリコさんの無言の圧力がちりちりと肌を灼くように感じられるからだ。
「……もう一点、報告があります」
「ん?」
「今日、あの『歯車の館』で少女と戦う前に、別の人間から接触を受けました」
「……? どういうことだい?」
「中に入ったら歯車がみんな止まってたんです。見渡す限りひとつも動いてなくて。あと、あの少女もいなくて。どうしたんだろうと思って待ってたら女が現れて、キリコさんへの伝言だって。『直し屋』からの――」
突然、がたんと椅子を蹴って立ちあがったキリコさんは、何も言わないまましばらく食い入るように俺を睨んだ。
いつの間にかその顔に張りついていた鬼気迫る表情に、俺の方でも二の句が継げなかった。
どれくらいの時間そうしていたかわからない。やがてキリコさんは椅子に座り直すと、溜息をつくような声で「どんな伝言だって?」と言った。
「……伝言は三つです。まずひとつめは、『座標が洩れた』ってことです」
「……っ!」
「俺にはよく意味がわからなかったんですが。何の座標かってことも……」
「……」
そのときの様子を詳しく話そうとして……ただならぬキリコさんの様子に続きを呑みこんだ。
表情が完全に消えた彼女の顔から、血色がみるみる失われてゆくのがはっきりとわかった。
大丈夫ですか、と思わず声をかけようとしたそのとき、薄く開いたその唇から、かすかに独り言のような呟きが洩れた。
「どうして……いったいどうやって」
「『伝書鳩』だと言ってました」
「え?」
「それが二つめの伝言です。最初の伝言に
「……」
キリコさんの目に光が戻った。そしてすぐそれはぎらぎらと燃え立つように輝き始めた。
怒りとも苛立ちともつかない激しい表情がその顔にのぼる。右手の人差し指を小刻みにテーブルに打ちつけ、次いでその手を口にあてて、そこを覆うようにする。
「……どんな装置でもネズミに配線を噛み切られてはお手上げってことか」
「……」
「本格的にまずいことになってきたね、これは。もうあの弾がどうとか、そんな次元の話じゃない。そのことが本当なら……待って、偽の情報であたしを担ごうとしてるってことも……」
それからしばらくキリコさんは独り言を連ねた。ぎらぎらと光る目で虚空を見つめ、向かいに座る俺のことも忘れてしまったようだ。
これほど取り乱すキリコさんを見るのは初めてだった。
そんな彼女の様子はクララの伝言の衝撃をまざまざと物語っていたが、それがいったい何を意味するものなのか、そのあたりが俺にはまったくわからなかった。
いつまでも続くかと思われたその独り言は、何の前触れもなく唐突に途絶えた。思い出したようにキリコさんはコーヒーカップを口に運び、それをまたテーブルに戻すと、「三つめは?」と言った。
「え? ああ、ええと。『囚われの姫は助け出し、衛士は処分した』と」
――と、それを聞いたキリコさんの顔に複雑な表情が浮かんだ。さっきのものとは明らかに違うどこか悲しむような、哀れむような表情だった。
そんな表情で、彼女はまじまじと俺を見つめてくる。
わけがわからずに見つめ返すと、なぜか気まずそうにキリコさんはすぐ視線を逸らした。
「……それだけかい?」
「伝言はそれだけです。けど、最後にもうひとつ、つけ加えにって」
「……何て言ってたんだい?」
「あの場所で遊ぶのは構わないが、あまりうるさくするなってことです。あまりうるさくするようなら閉め出すからそのつもりで、と」
「……何もかもあいつの手の中ってわけか」
今度こそはっきりと苛立たしげにキリコさんは呟いた。
そんな彼女を見つめながら俺はクララからもらったもうひとつの伝言――俺への忠告だといってくれたそれを口に出そうか迷い――結局、出さなかった。
それはあくまで俺への忠告であり、キリコさんへの伝言ではなかったからだ。
それに、その言葉をキリコさんに伝えたとき彼女がどう反応するか……それを知るのが少しだけ怖かった。
それからまたしばらくの沈黙があった。押し黙る二人の間に、計器の低い唸りだけが無気力に流れた。
その間、キリコさんは俺を見なかった。明滅する計器の明かりをぼんやりと眺めていた彼女は、やがておもむろに口を開くと、「どうして」と呟いた。
「え?」
「どうして最初に言わなかったんだい? それを」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
だがその言葉の奥に隠された棘のようなものを感じて、なぜ最初に伝言のことを言わなかったのか――と、そう聞かれているのだとわかった。
不意に、自分でも理由のわからない反発が心におこった。けれどもその反発を抑えて、素直にありのままを回答した。
「最初に聞かれたのが訓練のことだったからです」
「……本当にそうかい?」
「どういうことですか?」
「それをあたしとの駆け引きに使う気がなかったって、そう言い切れるかい?」
そう言ってキリコさんは俺の目を見た。その瞳に浮かぶ猜疑の色に、俺の反発は一気に膨れあがった。
キリコさんの言っていることはわかった。彼女がいま俺を疑い、心の奥を見抜こうとしていることも。
「言い切れます。ありませんでした、そんなのは」
「……どうだか。まだ残してるんじゃないかい?」
「何をですか」
「その女に言われたことで、まだ何かあたしに隠してることがあるんじゃないかい?」
「もしそうだとしたら?」
俺のその一言にキリコさんは不意をつかれたような顔をし、口を閉ざした。
……本当ならそんな言葉を返す気はなかった。売り言葉に買い言葉というやつだ。
咄嗟に反省して、繕いの言葉を探した。だがそれがかたちをなす前に、冷たい金属のような声が二人の間にある乾いた空気を震わせた。
「何か勘違いしてない?」
「え?」
「ハイジ、あなた何か勘違いしてるみたいね。あなたに情報はあげられない。そういう話じゃなかった? 最初から」
「……」
それは真剣な彼女だった。あの水曜日の最後の練習で隊長を諭した……一昨日、そして昨日とマリオ博士に相対した、最も真剣な彼女だった。
その真剣な彼女が今、俺に向けられていた。冷たい色に輝く二つの瞳が、すべてを見逃すまいとするようにじっと俺を見ていた。
「勘違いしないで。あなたにそれをほしがる権利はないの。あげられない情報はどうしてもあげられないの。人質なんてとっても無駄」
「……俺はそんなこと」
「隠し事はなしにして。あたしには何も隠さないで」
「……」
「そういう契約でしょ? 道具なら道具らしくして」
「……」
『彼女にとって、貴方は道具でしかありません。それは比喩ではなく、言葉通りの意味です』
――あのときのクララの言葉が蘇った。
気がつけば、俺は目の前の
「ことが終わったあかつきにはちゃんと約束の報酬をあげる。だからそれまではちゃんとした道具でいて。そういう契約だったでしょ? それが守れないようなら報酬のことだって――」
「いるかよ」
「え?」
「そんなのいらないから、もう」
「……」
思わず口をついて出たそれは、紛れもない俺の本心だった。
そもそもの最初からボタンがかけ違っていたのだ。そんな契約ずくでキリコさんを抱けたとしても何の意味もない。
……それにも増して、今ここでそんな餌をちらつかせて俺を懐柔しようとするキリコさんに堪らない嫌悪を覚えた。
彼女は本当に俺を道具としか思っていない……言葉より何より、そんな彼女の態度にありありとその証明を感じて――俺はもうこの役を続けられないと心の中ではっきりそう思った。
「……じゃあ、何がほしいのさ」
重く長い沈黙のあとに、消え入るような声でぽつりとキリコさんが言った。
「……どんな報酬を用意すれば、ここからさき一緒にいてもらえるんだい?」
弱々しい、泣き疲れた少女のような声だった。
すっ、と心に同情の影がさした。これも彼女の演技かも知れない……そう思ってみても、一度おこった同情は容易に心から消えなかった。
「……あたしはハイジに頼るしかないんだよ。代わりなんていないんだ。あたしがほしくないってことなら、何か別のを言っておくれ。どうにかして用意するから。前払いでもいいよ……だから」
こちらに視線を向けず、思い詰めたような声で懇願するキリコさんに、折からの嫌悪と反発は潮が引くように消えていった。
たとえ演技だとしても、
……そう、思えば報酬など最初からいらなかったのだ。
目的はこの役を演じきることで、それをたったいま感情的な理由で早々に放棄しかけたのは俺の方なのだ。
もう一度、キリコさんがほしいと言うのは簡単だった。だが、それでは嘘になる。そんな契約によって彼女を自分のものにしても意味がないというのは、ついさっき確認したばかりだ。
情報はくれない……俺が一番ほしいそれは報酬になりえない。それ以外で今、俺が一番ほしいものといえば――
「……シャワー」
「え?」
「熱いシャワーです。今、一番ほしいのは」
そう口に出してみて、それが俺にとって切実な願いだったことを知った。
丸二日風呂に入っていないうえに、一日汗まみれで自転車を漕ぎ通したのでは身体が痒くもなる。熱いシャワーが浴びられるのなら寿命が何年か縮んでもいい。報酬はそれでいいと本心から思った。
そんな俺の返事にキリコさんは目を丸くし、そのあと吹っ切れたように穏やかな笑みを浮かべた。
「申し訳ないが、シャワーはないんだ」
「……」
「水があるって言っても、それほど豊富じゃないからね」
「……そうですか」
「けど、サウナならあるよ。そっちはちゃんとしたのがある。サウナじゃ駄目かい?」
「いいですよ。サウナで」
少し
だが正直、サウナというのは魅力的だった。たっぷり汗をかいて身体中の汚れを落とすのはさぞかし気持ちがいいことだろう。
そんなことを考えるうちに、俺はもういてもたってもいられなくなった。
「すぐに入れますか?」
「せっかちだね。ならすぐ火を入れるよ。十分もすれば入れるから、そのくらいは待っておくれ」
そう言ってキリコさんは流しの方へ入っていった。
そういえばあの奥には磨りガラスの窓がついた扉があった。ひょっとしたらあの先がサウナだったのかも知れない。
そんなことを思いながらキリコさんが戻ってくるのを――サウナに汗を流すのを、俺は待ちきれない思いで待った。
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