165 試験場と二重身(8)
「……?」
着いてすぐ、俺はその場所の異変に気づいた。
昨日ひっきりなしに回り続けていた歯車。それが今は止まっていた。
無数の歯車が噛み合い、見渡す限りどこまでも連なりながら、それが止まっている。その光景はちょうど時の止まった世界を思わせた。
……他には何もなかった。動きを止めた無数の歯車の他に何も――音さえも、そこにはなかった。
「……」
そして昨日との違いがもうひとつ――少女がいなかった。
昨日はここへ来るなり目の前に立っていた少女の姿が、今はどこにも見あたらない。
先に来てもう潜伏しているということなのだろうか? だとしたらこうして突っ立っているのは殺されるのを待っているようなものだが、どうもそうではない気がする。少女はまだここに来ていない……何となくそれがわかる。
「……!」
――と、視界の端に小さな動きがあった。慌てて銃に手を伸ばしかけ、けれども手はそこで止まった。
それが少女ではないことがわかったからだ。
視界の端に映った影はゆっくりした足取りで――だがその足取りからは考えられない速さで急速に近づき、俺の目の前で止まった。
「どうも、お久し振りです」
そう言って恭しく一礼する艶やかな着物姿の女――クララに、俺は何の反応も返すことができず、固まった。
なぜ彼女が……しかもよりによってここに?
そんな疑問の只中に立ち尽くす俺に構わず、無表情のまま淡々とした口調でクララは続けた。
「あまり時間がありませんので、手短に要件だけお伝えします。この度はキリコ博士に言伝てがあって参りました」
「……」
「『直し屋』からの言伝てです、と博士にはお伝えください」
「……隊長からの?」
唐突にクララの口から出た名前に、思わずそう問い返した。そうしてすぐ、それが場違いな発言だったことに気づいた。
そうだ……ここでは隊長ではなくジャック博士だった。だがクララはまるで何も聞かなかったように、俺のミスも質問も無視して話を続けた。
「まずひとつめです。『座標が洩れました』とお伝え下さい」
「座標?」
「はい、座標です。二つめに、それを博士に伝えますと、彼女は『どうやって?』と問われるかと思います。そうしましたら、『伝書鳩で』とお答え下さい」
「……」
「三つめ。『囚われの姫は助け出し、衛士は処分した』と。その三つをキリコ博士にお伝え下さいますよう、よろしくお願いします」
「……わかった」
すべての疑問を呑みこんで、それだけ返した。そう答える以外、何もできなかった。
そんな俺をクララはまじまじと見つめ、抑揚のない声で「もうひとつ」と言った。
「これは貴方への忠告です。わたしからの」
「え?」
「彼女にとって、貴方は道具でしかありません。それは比喩ではなく、言葉通りの意味です」
「……」
「そのことをお忘れなく。では言伝ての件、よろしくお願いいたします」
クララはそう言って頭を下げるとそのまま後ろに振り返りかけ――思い出したようにまたこちらに向き直って、言った。
「言い忘れましたが、最後に。ここでのお遊びには目をつぶりますが、できるだけ静かにお願いします。あんまりうるさくするようでしたら閉め出しますから、ご注意下さいますよう」
それだけ言うとクララは振り返った。来たときと同じようにゆっくりした足取りで――だがその足取りからは考えられない速さで急速に遠のいてゆく。
その背中が見えなくなるまでにどれだけの時間があったかわからない。ほんの数秒か……あるいはもっと長くかかったのか。ただ気がついたときにはもう、彼女の姿はなかった。
――そして俺は、そのかちりという最初の音を聞いた。
「……!?」
周囲の歯車が一斉に動き出すのと同時に、俺の目は少女を見ていた。
たった今現れたのではない、最初からそこにいたのだ。
どうして? 浮かびかけた当然の疑問は、だがかたちを成さないままに掻き消えた。目の前から少女がいなくなったからだ。
最初からいなかったのではない、たった今いなくなったのだ。
背筋を走り抜ける戦慄とともにそれを理解し、俺はまた昨日のように全速力で駆け出した。
「はっ、はっ、はっ……」
走りながら銃を抜いた。
だが昨日のようには撃たない。闇雲に撃っても絶対にあの少女には当たらない――唐突に始まった戦闘に動揺は拭えなかったが、そう思える程度には、俺は落ち着いていた。
「はあ、はあ、はあ……」
そうだ……落ち着け。自分にそう言い聞かせて、俺は走るのを止めた。
――まず落ち着け。そして冷静に考えろ。
逃げるのは昨日やった。昨日やったのと同じことをやれば、昨日と同じように殺されるだけだ。
「はあ、はあ、はあ……」
呼吸を整えながら、忙しなく周囲を見回した。振り向き、頭をまわし、なるべくそれが規則的にならないように。
少女の姿はどこにもなかった。
けたたましい音を立てて回る無数の歯車だけが、俺の目に入る動くもののすべてだった。
「はあ、はあ……」
トリガーにかかる指の感触を確かめ、昨日のことを思い出した。昨日、俺は少女から逃げ、歯車の陰に隠れようとして逆に待ち伏せに遭い、殺された。
どうやって殺されたか正確にはわからない。けれども少女にのしかかられ、直接その手で殺されたことは覚えている。
「はあ、はあ……」
――そうだ。あのとき、俺は喉を切り裂かれて殺された。それはつまり、少女は近接攻撃をこととし、飛び道具は使わないということだ。
なぜなら遠距離攻撃できる武器があれば、待ち伏せるまでもなくあのときの俺を殺せていたからだ。
あんな身体の小さい少女だから攻撃は銃だと決めてかかっていた。だがその前提が間違っていたのだ。
「……」
少女に飛び道具はない。そう考えて間違いないようだ。
その証拠に、走るのを止めてこの位置から動かない俺がまだ生きている。彼女に飛び道具があるとすれば俺はもう死んでいるはずだ。
いくら忙しなく周囲を見回しているといっても、この場を動かない俺を物陰から狙撃するのはそう難しいことではない。それがないということは、つまりそういうことだ。
「……」
そう――少女はもうとっくに俺の姿を認めている。このすぐ傍に身を潜めて、そこからじっと俺を見ている。
昨日の経験を顧みるまでもなく、そのことがはっきりとわかった。
舞踏会でのマリオ博士との会話で、キリコさんはこれを『狩り』と呼んだ。その通りこれは『狩り』なのだ。じっくりと機を窺う少女は熟練の狩人で、俺は仕留められるのを待つ哀れな獲物でしかない。
「……」
動きはなかった。いつまで待っても少女からの攻撃はなかった。
その事実は、彼女に飛び道具はないという俺の推測を裏づけていたが、そこまでだった。戦闘は膠着状態に入ったまま、そこから一歩も進まない。
焦れたら負けだ、ということはわかっていた。けれどもこうして神経を尖らせ、周囲に気を払い続けるのは、どうしても時間に限界がある。
「……」
俺は銃を構え、手近な歯車を狙って二回トリガーを引いた。
銃声はけたたましい歯車の音に呑まれ、虚しく消えた。
弾は歯車に
――そして俺は、そのことに今の今まで気づかないでいたことに気づいた。
「そうだ……そうだった」
何もない空間に向け、立て続けに銃弾を見舞った。
……こんな重要なことになぜ今まで気づかずにいたのだろうと思った。この銃には弾がいらない、つまり弾に限りがない。射速は遅いが、装弾を気にせずいくらでも撃てる小型のマシンガンに近い。
……だとしたら、やり方はある。何もこうして狩られるのを待っていることはない。
「……よし」
両手にしっかりと銃を構え、覚悟を決めた。
俺が今こうして周囲をくまなく見回しているように、絶え間なく銃を撃ちながら近づけば、少女もそうやすやすと襲撃をかけてはこられないはずだ。
このままでいればいずれ集中力が切れ、遠からず殺されることは目に見えている。反撃に転じなければ俺に勝機はないのだ。
「……」
そう思い、俺は絶え間なく銃を撃ち始めた。
頭の動きに身体を合わせる。投擲に入るハンマー投げの選手のように、両手の先に構えた銃を自分のまわりに回転させながら撃ち続ける。
撃つたびに腕に衝撃が来るが、耐えられないほどではない。そのままゆっくりと回転の軸をずらし、移動させてゆく。
「……」
四方に弾丸を撒き散らしながら、自分は今、危険極まりないことをしていると思った。他に誰もいないとわかっているここだからできることだ。そうでなければこんなでたらめに撃ちまくることなどできない。
まるで銃乱射だ……いや、読んで字のごとく銃乱射だ。
「……っ!」
そうしてすぐ、俺は軸の回転を速めた。
この戦法でいくのなら、ゆっくり動いていては意味がない。銃声でこちらの位置は完全に把握されるからだ。
暴走する台風の目を無軌道に素早く移動させてこそ意味がある。下手な鉄砲も、と言うがまさにそれだ。実際の戦場ではその下手な鉄砲がしばしば歴戦の兵士を殺すのだ。
「……おおおお!」
銃を乱射しながら、思わず吼えた。意味のないことだとわかってはいたが、そうせずにはいられなかった。
絶えず方向を変えながら、ほとんど小走りに歯車の間を縫って動いた。そうしてその間も、ただひたすらにトリガーを引き続けた。
「……おおおお!」
再び吼えた。だが吼えながらも、不思議と頭の中が冷静になってゆくのを感じた。
少女はこの俺をどう見ているだろう? 恐怖で錯乱したと思っているだろうか? それとも擬態だと見抜いて静観しているのだろうか?
あるいはこの剣幕に逆に恐れをなしてどこか遠くへ逃げてしまったということも……。
「……」
そして俺は足を止めた。両手で銃を構えたまま、それを撃つのも止めた。
腕がびりびりと痺れている。頭だけは動かして周囲に気を払いながら、こんなことをしていても駄目だと思った。
……そう、こんな滅茶苦茶なことをしていても駄目だ。どこにいるかわからない少女、その少女の姿を一目でも視認できないことには――
「……!」
だから視界の端にそれを見たとき、俺は遅疑なく駆け出していた。
少女の姿を垣間見た歯車の陰。そこに躍りこむまでの短い時間に、必死になって少女の意図を考えた。
あえて少女が姿を見せたということは、つまりそういうことだ。あの歯車の陰に少女はいない、それだけはもうはっきりしている。
「……っ!」
その場所に何もいないのを確認するより早く、振り返りざまに銃を乱射した。そのまま銃を振り回すようにして四方八方へ銃弾の雨を降らせる。
だがいない。少女の姿はどこにもない。
そんなはずはない! さっき確かにいたはずの少女はどこへ――
「!?」
そう思った瞬間、上から降ってきた何かに俺は押し倒された。
それが何かわかったときには、もう勝負はついていた。
息のかかりそうな間近に少女の顔があった。
⦅終わり⦆
相変わらずつまらなそうな顔で、少女はそう言った。
そうして次の瞬間、俺はまた喉が切り裂かれる激痛と共に、誰か別人のもののような無様で力のない呻き声を聞いた――
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