164 試験場と二重身(7)

 そのエツミ軍曹の声に、俺は頭を跳ねあげた。


 彼女はこちらを見ず、前を向いたままだった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、前を見据えて歩き続けながら、⦅何も考えないことだ⦆と、もう一度彼女は言った。


⦅何も考えず、言われた通りに動くことだ。疑問を持ったが最後、兵隊は兵隊ではなくなる。何も考えず、言われた通りに身体を動かすだけだ。それが我々兵隊の、たったひとつの掟だ⦆


 淡々とした口調で独り言のように軍曹は言った。


 質問と微妙に噛み合わない、だが俺の胸の内を読んだかのようなその言葉に、最初は戸惑った。だいたい言葉が通じないのではなかったのか……そこまで考えて、実際に言葉は通じていなかったのだとわかった。


 通じないことになっているこの言葉で軍曹が返してきた理由――それがではなく、本当に彼女の独り言であることを、俺は理解した。


⦅……確かにこのところ、ここはおかしくなってきている⦆


「……」


⦅何かがおかしくなってきている。大きく変わり始めている。良い方向にではない、明らかに悪い方向にだ。そんな中へいきなり投げ込まれた貴方があれこれと考えたくなる気持ちはわかる。なまじ頭があるから、どうしてもそうなる。それが人間というものだ。木偶人形ではない、血の通った人間の心というものだ⦆


「……」


⦅だが、それを考えないのが兵隊というものだ。何も考えず、言われた通りに動くことだ。与えられた命令に、何も考えずただ従うことだ。そうすることでしか、我々兵隊はつとめを果たすことができない⦆


 それだけ言ってしまうと、軍曹はまた元のように黙った。こちらを振り返ることもせず、歩調を弛めることもなかった。


 それでも俺には、何となく彼女の気持ちが理解できた気がした。


 下世話な噂や冷たい視線の中に、この人も色々な思いを抱えて生きているのだとわかった。……木偶人形ではない、血の通った人間なのだから色々なことを思い、それを溜めこむのだ。言葉の通じない俺にこんな虚しい独白をせずにはいられないほど……。


 気がつけば、彼女に対する気詰まりは嘘のように消えていた。


 それに気がつくのと、目的の部屋に着いたのがほぼ同時だった。無言で扉を開けると、軍曹はおもむろにこちらを見た。目で入れと言っているのがわかって、ノブに手をかけたままの彼女の脇を抜け、その部屋に入ろうとした。


 そのとき、ぐうと腹が鳴る音が響いた。


「……」


 ……俺の腹だった。自分の腹から発せられたその盛大な音に思わず足が止まった。


 そう言えば今日は朝に少し食べただけで、あれから何も口に入れていなかった。そんなことを思いつつ硬直する俺に、軍曹はまず呆気にとられたような顔をし、そのあと穏やかな笑みを浮かべた。


 その笑みに、思わず息を呑んだ。彼女が生半可でなく美しい人だったことを、そのとき俺は初めて知った。


⦅待っていろ⦆


 そう言い残して軍曹は部屋を出ていった。しばらくして戻ってきた彼女の手には、小さな鳶色の紙袋があった。それが食べ物であることは聞くまでもなかった。少しはにかんだ表情でその袋を俺に渡すと、軍曹はそのまま何も言わずまた出ていった。


 封を切ってみると、カロメのようなブロック食品だった。プレーンな塩味だったが、空腹に勝る調味料なしということなのか、無闇に美味しかった。


 殺風景な部屋に一人ブロックを囓りながら、それを持ってきてくれた人――会話にもならない会話を交わしただけのエツミ軍曹に親しみのようなものを感じ始めている自分に気づいた。


 ちょうど袋が空になったあたりでノックの音がし、扉が開いた。


 マリオ博士が少女を連れ、部屋に入ってきた。博士はちらりとこちらを見たあと左腕をあげ、白衣の裾を引き腕時計を眺めながら言った。


⦅話は聞いている。彼女は所用で来られないそうだな。申し訳ない、君も『試験場』への行き帰りで疲れているだろうに⦆


 そう言ってまたこちらを見る博士に俺は、さっき軍曹が廊下で振り返って見せた顔そっくりの表情をつくった。何を言っているかわからないというのをわかりやすく伝える困惑の表情だ。


 トレースしたての実際の仕草に基づく演技だっただけに説得力があったのだろう。そんな俺の反応にマリオ博士は逆に当惑したように眉をしかめた。


⦅そうか、この言葉は通じないのだったな。まったくあの女狐ときたら……⦆


 ここにいない彼女を見つめながら、苛立たしげに博士は呟いた。


 その声にいつもの余裕めいた響きはない。ほんの短い呟きだったが、心底しんていでは彼がキリコさんのことを快く思っていないことが、その一言でわかった。


 そこで博士はふと思い出したようにこちらを見ると、例の余裕を取り戻した声で⦅それとも⦆と言った。


⦅それとも便宜上、通じないことにしてある。そういうことなのかな?⦆


 そう言って博士はすっと目を細めた。そのまま心を見透かすように見つめてくる博士から俺は目を逸らさず、さっきの博士よろしく眉をしかめた。


 ……だてに即興劇の場数を踏んでいるわけではない。俺にもこのくらいの演技はできる。


 やがて博士の方で視線を外すと、⦅まあどちらでもいいが⦆と諦めたような声で言った。


⦅ではこの前のように、君から先に⦆


 博士はそう言って扉を指差した。あの何もない真っ白な部屋に入るための扉だ。


 今度は演技の必要はなかった。博士の後ろで相変わらずつまらなそうな顔をしている少女を一目見たあと、軽く頷いて俺はその扉に向かった。


◇ ◇ ◇


 後ろ手に扉を閉め、真っ白な部屋に一人きりになると、俺はすぐ昨日のことを思い出した。あの場所へ向かうために味わわねばならなかったおぞましい感覚が、耳障りなノイズとともに胸の奥に蘇った。


 これからまたそれをなぞることに憂鬱を覚え――それでも俺は昨日を思い返して、部屋の中央まで行くとそこに仰向けになった。


『中に入ったら部屋の真ん中に仰向けに横たわる。そのあとはできるだけリラックスして天井を眺めていておくれ。そのうちに音楽が聞こえはじめたら、それによく耳を澄ます。あとは何もしなくてもその場所にたどり着けるはずだよ』


 ……何が音楽なものか。真っ白な天井を眺めながら昨日のキリコさんの説明を想い起こし、心の中でそう悪態をついた。


 あれが音楽だなんて聞いて呆れる。やっていたアングラなラジオ番組の曲紹介じゃあるまいし……。


「……」


 そんな連想から、つい数時間前に会った友人――DJの姿が自然と心に浮かんだ。


 あのときは呆然自失のまっただ中でまともに考えることができなかったが、あいつがここにいるというのは、かなり面白いことなのかも知れない。DJとは何度も一緒に舞台をつくってきたものの、一緒に舞台に立ったことなど、もちろんない。


 裏方専業のあいつとそうすることなど、想像したこともなかった。それが今、思いがけなく現実のものとなっている。


 リカも……そう、リカもだ。アイネもリカも、DJまでいる舞台に俺は立っている。そんな舞台に立つことが、俺にとって面白くないはずがない――


「……」


 だがその面白くないはずがない事実を前にして、俺の心は少しも躍らなかった。……というよりむしろ、もう関わりたくないという気持ちさえどこかにある。


 それがあのむごたらしい死体のためか、それとも二重身ドッペルゲンガーと呼ぶしかないあれを見たせいかまではわからない。


 ……きっとまだ混乱から回復できていないのだろう。衝撃があまりに大きすぎて、頭はともかく心はついていけないのだ。


 そう思って俺は考えるのをやめ、真っ白な視界に意識を戻した。


 ぼんやりとほの白い光を放つ天井。その光を受ける白い壁……白い部屋。やがてその壁と天井の境が曖昧になり、消失してゆく。白以外何もない空間へ移ろい、導かれてゆく。


 そのあとは昨日と同じだった。


 背中にあった床の感触が消え、上下の感覚がなくなった。色も音もない空っぽの空間。そこに繋ぎとめられたような不確かな感覚があって――何とも言いようのない不安が胸に湧き起こるのとほぼ同時に、耳障りなあのノイズが圧倒的な勢いで押し寄せてきた。


「……っ!」


 底のない谷間に堕ちてゆくような不安の中に、必死でどこかしがみつくところを探した。だがそんなものはどこにもなかった。


 指一本動かせない、もはや自分のものではない身体にもがくことさえできず、ただどこまでも堕ちてゆくことしかできない。


 その不安――自分という存在を否定されるような激しい不安。それが死と向かい合ったとき人間が感じざるをえない恐怖に似たもの――いや、であることを理解した瞬間、俺はまたあの歯車だらけの空間に立っていた。

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