163 試験場と二重身(6)
「……言いたいことがあるなら言ったらどうだい?」
長い長い沈黙をキリコさんの方で破ったのは、研究所の廊下を歩き始めてからしばらく経ったあとだった。
螺旋階段下の倉庫であの襤褸は脱いだのだから、俺にもう
「あれのことで変に勘ぐってんなら筋違いだよ。あたしだって想像もしてなかったんだ、あんなのは」
溜息混じりに吐き捨てるキリコさんの言葉には、どこか力がない。
何のことを言っているかは考えるまでもなかった。それが想定外だったという彼女の言葉に嘘がないことも何となくわかった。ただ、それがわかったからといって俺の疑問は晴れない。
キリコさんが何を言おうと言うまいと、もう一人の俺がいたという事実は消えない。
そしてそれについて、彼女は肝心なところを何ひとつ俺に話してはくれない。
「
話題の周辺をなぞりながらそれについてはっきりと口にしない彼女に、俺はかすかな苛立ちを感じ始めていた。
俺が何を聞きたがっているか、キリコさんはそれを痛いほどよくわかっている。わかっていながらこんな話をするのは、そこは駄目だという言外の意思表示だ。
そう、たとえ俺が素直に質問したとしても、彼女は決してそこだけは教えてくれない。何となくわかった気にさせてひとまずこの件を流す。彼女が俺に向けている水は、まず間違いなくそのためのものだ。
「まだ『蟻』が抜けきらないのかい?」
「……」
「
「……」
「勘弁しておくれよ。ショック受けてるのはハイジばかりじゃないんだ。それとも――」
「……どこまでですか」
「え?」
「どこまで引きずってけばいいんですか? この死んだ人」
意図が伝わったのだろう。俺の質問にキリコさんは何かを言いかけ、だが結局なにも言わず黙りこんだ。
そうしてまたしばらく沈黙の時間があった。彼女のヒールの音と俺の靴音――死体を納めた袋が床を擦る音だけが一頻り廊下に響いた。
やがてキリコさんが立ち止まったのは赤いランプの点る扉の前だった。カードキーを挿すスリットのついた、例の扉だ。
その扉の傍らには人影があった。制服に軍帽のその人影がエツミ軍曹のものであることは、彼女がこちらに向き直って初めてわかった。
⦅お帰りなさいませ。出張お疲れさまです⦆
こちらに向き直るやエツミ軍曹は素早く敬礼の姿勢をとり、一息にそう言った。
そんな彼女にキリコさんは何も返さず、白衣の懐からカードキーを取り出す。無言でそれをスリットに挿し入れようとするキリコさんに、敬礼の姿勢を崩さぬまま⦅マリオ博士からの言伝てがあります⦆と、エツミ軍曹は言った。
⦅……で、何だって?⦆
⦅『またダンスパートナーをお借りしたい。
⦅……今は何時さ⦆
⦅
⦅……相変わらず無茶なアポだね。あんたのご主人はそのへんの常識がなってないよ⦆
⦅恐れ入ります⦆
⦅こっちがくたくたになって帰ってくるのわかってるだろうに。思い遣りのない男がもてたためしはないってね⦆
言葉通り疲れきった口調で言いながら、キリコさんはナンバープレートのボタンを押してゆく。だがそこでふと指を止めると、おもむろにこちらを見て「行っといで」と言った。
「え?」
「一人で行っといで。帰りは迎えに行くから。あと、その荷物は置いていっておくれ」
素っ気ない口調で突き放すようにキリコさんは言った。どこへ行けと言われているのか、話の流れから何となくそれがわかった。
……そういえばそんなこともあったか、と妙に醒めた頭で思った。今朝そのことを思って身震いしていたのが、まるで遠い昔の思い出のようだ。
「場所がわかりません」
「昨日行ったとこだよ」
「覚えてません。どこかまでは」
「そうかい。じゃあ一人じゃ行かせられないね――」
⦅エツミ軍曹⦆
⦅はい⦆
⦅部屋までの案内をお願いできるかい?⦆
⦅彼の、ということでしょうか⦆
⦅他に誰がいるってんだよ。あたしは用事があるんでね。ちゃんと連れていってやっておくれ、処刑場まで⦆
⦅かしこまりました⦆
暗い冗談には何の反応も示さず、エツミ軍曹は再び敬礼の姿勢をとった。そうして俺にちらりと視線を向けたあと、踵を返し歩き始めた。
キリコさんを見る――だが彼女はもう俺を見ない。この死体をどうするのかと言いかけて、それは置いていけと言われたことを思い出した。
俺は溜息をつき、荷縄を肩から外した。早足に軍曹のあとを追う背中に、例の扉が開く気の抜けた音が聞こえた。
◇ ◇ ◇
すぐ着くと思った予想に反して、そこからかなり歩いた。
どうしてこの道を俺一人で行けると思ったのだろう、とキリコさんに反発を覚えたのはほんの最初で、そこからはひたすらに気詰まりの中にあった。前を行く女性――エツミ軍曹への気詰まりだ。
当然のことのように、歩き出してから彼女は一度もこちらを顧みない。言葉をかけてくることも、もちろんない。一言もないままこうして連れだって歩いてゆく……その状況が何とも言えず、俺には気詰まりだった。
それはさっきキリコさんと同じように黙って歩いていたとき感じていたものとはまったく別の感覚だった。そこまで頭を悩ませていたもう一人の俺のことや、背に曳いてきたあの死体のことに替わって、その気詰まりばかりが頭に広がり、心を覆い尽くしていった。
先を行く軍曹の後ろ姿を眺めながら、その気詰まりがどこから来るのだろうと考えて――少しも考えないうちにその答えは出た。
……それは、俺が彼女について知っているところから来るものだった。
キリコさんから聞かされた彼女のマリオ博士との関係。犬のように忠実な娼婦……軍隊を統率しえない名ばかりの隊長。
そんなひとつひとつがあのときのキリコさんの生々しい言い回しと共に思い出されて――黙ってその背中を見ていることが苦痛でならなくなった。
くすんだ軍服の姿を後ろから見ても、その身体が充分に女びた曲線を描いているのがわかる。……それがわかるだけに、何とも言えない気詰まりは一歩を踏みしめる毎に大きくなってゆく。
「……あとどれくらい歩きますか?」
ついそんなことを尋ねてしまったのは、その気詰まりを少しでも和らげたかったからだ。俺なりに考えて、差し障りのない話題を選んだつもりだった。
だが軍曹はやおら振り返り、怪訝そうな顔をこちらに向けると、何も言わずまた前を向いた。……そういえば言葉が通じなかったのだと気づいたのは、そのすぐあとのことだった。
「……」
にわかに恥ずかしさを覚え、顔が赤くなるのが自分でもわかった。いったい何を話そうとしていたのだろうという後悔のあとに、最初から何も気にする必要などなかったのだという気持ちが、さっと心にさした。
……その通り、最初から何も気にする必要などなかったのだ。たまたまこうして一緒に歩いているだけの彼女のことを、俺が何も気にする必要などない。そう自分に言い聞かせて、足下に視線を落とした。
⦅何も考えないことだ⦆
前を歩く女のつぶやきが耳に届いたのは、そのときだった。
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