162 試験場と二重身(5)
「魔弾?」
「ええ、魔弾。撃ち殺したんですよ。例の黒い服着たやつを」
「あ――」
と、声を出しそうになるのを辛うじて
何が起こったわけでもない、目に映る何かがはっきりと変わったわけではない。
けれどもDJがその台詞を口にした刹那――瞬きをしていれば見過ごしたに違いないほんの刹那、キリコさんが落ちかかったことに、俺は気づいた。
その表情は見えない。亜麻色髪のかかる白衣の背中しか、こちらからは見えない。
それでも長く一緒に演じてきた中で何度か目にした、彼女が落ちる瞬間の空気の震えを、生々しい皮膚感覚としてはっきり感じた。
そのことに気づいて、今さらのように俺は、彼女がここまで演技をしていたことを知った。
無骨な男たちに慕われる慈母の面影、軽妙に彼らをあしらう台詞のひとつひとつ。それらはすべて水際立った《博士》としての演技だったのだと、打たれたように感じた。
そして改めて、ここを舞台と呼んだ彼女の言葉を思い出した。そう――ここは確かに舞台だったのだ。俺にとってではない、《博士》としてのキリコさんにとっての。
「なるほど。それでアイネちゃんの危機を救ったってわけだね」
「お、さすが先生。ご洞察の通りですが、何でわかりました?」
「いやね、さっきから気にはなってたのさ。男嫌いのアイネちゃんが、なんでまたぽっと出とこんな風に出来上がっちまったのか、ってね」
だがそれも一瞬だった。おそらく周囲の人間には誰一人気づかせることなく、キリコさんはまた板についた《博士》の演技を再開していた。
そう――彼女は決して演技から落ちない。たとえ落ちかかったとしても、驚異的な速度でそれを修正する。
俺が尊敬してやまなかった、それが彼女の役者としての身上だ。久し振りにそれを目の当たりにして、こちらのキリコさんとあちらの彼女とが、初めて少しだけ重なった気がした。
「まあ、そんな次第です」
「そういう事情じゃ無理もないね。しかしまあ、アイネちゃんも女だったわけだ。一晩でこんなにも可愛くなっちまうなんてさ」
周囲から盛大な笑いが起こり、アイネが憮然とした表情を浮かべるのが見える。どうして起きた笑いか、何のための表情か。ようやく動き始めた頭にそのことを考え――今まで見えていなかった舞台が、目の前に姿を現した。
その光景に俺は息をのんだ。思わずそうせずにはいられない、それは迫真の舞台だった。
その舞台の中心に、アイネはいた。アイネと――そしてその隣に座るもう一人の俺も。
「けど、それじゃアイネちゃんと組ませたのは失敗だったんじゃないかい? せっかく手に入れた魔弾の射手を、みすみす死に急がせるようなもんじゃないか」
「それですよ。オレもそう思ったんですが、アイネのたっての要望で」
「へえ、アイネちゃんがねえ」
「ええ。どうしてもわたしと組ませろって、それはもうすごい剣幕で」
「……そんなこと言ってない」
堪りかねたようにアイネが口を挟み、そこでまた笑い声があがる。いっそう憮然として口を閉ざす彼女の隣で、もう一人の俺もそれとよく似た苦い表情を浮かべる。
少し前にあった出来事をなぞるようなその光景を、さっきとはまったく違った目で俺は見つめた。
ふと……俺は観客なのだと思った。大道具の中からこの舞台を垣間見ることを許された……おそらくたった一人の。
「……ま、というわけです」
「いい目のつけどころだね。案外、うまくいくかも知れないよ、この組み合わせは」
「そう願います。――それで、話は変わりますが、先生」
「ああ、薬の話だね。申し訳ないが、今日もこれしか持ってこられなかったんだ」
「いえ。持ってきていただけるだけ、いつもありがたいと思ってます」
喧噪が収まったところでそんな短いやりとりがあって、そのあとキリコさんからDJへ何かを受け渡しているようだった。こちらに背を向けたままの二人が何をどうしているかはわからなかった。
けれどもそれとは別に――せっかくそれと認めたばかりの舞台が収束に向かっているらしいことが、二人の会話の流れから何となくわかった。
「で、お代は今日もツケかい?」
「いや、連中の話ではそろそろのやつが。いずれにしろ見てみないことには」
そう言ってDJは周囲を見回した。何かに目星をつけているようで、その視線は広間の中をひと巡りしたあと、向かいに立つもう一人の俺で止まった。
「グレンとヒダリテ。それから新入り、来い」
それだけ言うとDJは足早に部屋を出て行く。「へい」とどすの利いた声で応え、スキンヘッドの男と左手のない男がそれに従う。
何を言われたのかわからなかったのだろう、もう一人の俺はきょとんとした顔でそんな三人を見送る。
「ハイジ」
と、咎めるような声に、ほんの少しどきりとした。だがもちろん、そのアイネの呼びかけは俺に向けられたものではなかった。
もう一人の俺はまだわからないのか、「え?」と間の抜けた返事をしてアイネに向き直る。
「何してるの。聞こえなかった?」
そこまで言われてようやく感づいたのだろう。もう一人の俺ははたと悟ったような顔をすると、大慌てで部屋を出ていった。
そうしてまた部屋には高らかな笑い声が起こる。その笑いの中にアイネがいかにも面倒臭そうに髪を掻きあげ、胸を大きく上下させて溜息をつくのが見えた。
そんな一連のやりとりのあと、キリコさんはやおらこちらに歩み寄り、⦅ついてきて⦆と、なぜか例の言葉で告げた。
そのまま踵を返して出て行ってしまう背中を追いかけ、俺も広間を出た。長い間しゃがんでいたことで痛む膝をなだめながら、先を行くキリコさんについて歩いた。
薄暗い通路を抜け、階段をのぼって行くと、やがて行き止まりに近い廊下の端に、腕組みをして壁に背を預けるDJの姿が見えた。
キリコさんはDJから少し離れた場所で立ち止まると、そこで同じように腕を組み、壁に背もたれた。DJとの間には一言もなかった。挨拶ばかりでなく、簡単な目配せのようなものさえ。
そんな二人に訝しいものを感じながら、俺もまた壁際に寄り、しゃがみこんだ。キリコさんたちのように壁に背もたれようかとも思ったが、俺のこの格好では絵にならない。それにさっきの広間ではずっとしゃがみこんでいたのだから、一貫性を持たせる意味でもこうする方がいい。
「……」
沈黙の中に微妙な時間が流れた。二人は何かを待っているようだが、それが何かわからない。
そこでふと、DJについて出ていった三人のことを思い出した。
そういえば彼らの姿が見えない。あのときのDJの口振りからしてさしずめ作業の手といったところだろう。その姿が見えないということは、作業はどこか別の場所にあったということなのだろうか……?
「お――じゃねえか」
そんな俺の疑問を聞きつけたかのように、壁の向こう側でかすかな声がした。
暗がりでよく見えなかったが、DJの立つ前には開け放しの扉があって、その先に続く部屋で作業はおこなわれているようだ。
そう思ったのも束の間、スキンヘッドの男が何か白い大きなものを肩に担ぎ、出てきた。あれは何だろう、と思うより早く、男はそれを投げ出すようにして床に降ろした。
そうして俺の心臓はまた凍りついた。
もう一人の自分を目にしたときのように。……いや、そのときより
床に投げ出されたのは裸だった。何も身に着けていない女の裸――ぎこちなく四肢を折り曲げた生白い身体が、ぐにゃりと力なく揺らぐのが見えた。
それがもう事切れたものであることはすぐにわかった。スキンヘッドの男は一仕事終えたようにほうと息を吐くと、爪先でその死体の尻をつつきながら、言った。
「新入りが見つけたんで。初手柄ってやつでさあね」
そう言って男は後ろを振り返る。いつの間に出てきたのか、もう一人の俺がそこに立っていた。
……硬く強ばった能面のような顔。薄い闇の中にも、その顔が足下に横たわる死体のように蒼白であることが見てとれた。
その理由はわかった……青い顔をして立ち尽くすしかない俺自身の思いが、わかりすぎるほどわかった。
「ずいぶんとまあ乱暴にしたもんじゃないか」
「ルドルフのやつが。言っても聞かねえんで」
「『猿』の女かい?」
「いや、こいつは『緑目』の」
DJとキリコさんが何かを話している。だが俺の意識はもう一人の俺――衝撃に打ちひしがれて崩れ落ちそうな俺を見ている。
それが誰なのか、今もって俺にはわからない。彼がなぜ、何のために、どんな絡繰りでそこにいるのか、何もかもわからない。
……ただ、ひとつだけはっきりとわかったことがある。
それはあの俺がこの俺と同じように、来たばかりのここでわけもわからないまま自分の役を掴みかねているという事実だ。
⦅――出して⦆
耳元に囁く声で我に返った。反射的に返事をしそうになるのをぎりぎりで
⦅袋を出して。さっき渡した袋⦆
そう言われてもまだ俺にはキリコさんが何を言っているかわからなかった。
けれども自分が襤褸の中の右腕に抱えているものに気づいて、ようやくその意味を悟った。襤褸の下をくぐらせて手にとる。
言いつけ通りそれを差し出す俺に、感情のない声で一言⦅開いて⦆とキリコさんは言った。
「……?」
⦅ファスナーがあるから開いて。そしたら床に広げて⦆
言われるままにファスナーを探すと、それはすぐに見つかった。スライダーを引いて開け、言われた通り床に広げる。
それを認めるとキリコさんは⦅入れて⦆と言った。何を? 声にならない声で問い返す俺に、彼女も無言のまま足下に視線を落とした。
「……」
それで、俺は理解できた。
……あるいは袋を出せと言われたときから理解できていたのかも知れない。頭の中が真っ白になり、助けを求めるようにキリコさんを見た。
冷たい眼差しがあった。感情のない氷のような目で、彼女は俺を見ていた。
……その眼差しの意味はわかった。何も考えられないまま、よろめくように俺は死体に歩み寄った。
間近に見る死体は、相当に傷んでいた。腐敗が進んでいるというのではない。そこかしこに青い痣が浮かび、乾ききらない血が滲む生傷や、歯形のようなものさえあった。
なぜそんなものがついているのか考えることができないまま――何も考えられないまま脇の下に手を差し入れ、その身体を抱え起こした。くたびれたゴムの塊のようにその身体は柔らかく、だらしなかった。
苦労して抱えあげたところでぐにゃりと首が曲がり、俺の目の前でその顔がこちらを向いた。
「――」
もう何も映さない二つの瞳が、真っ直ぐに俺を見た。
その顔にはうっすらと、だが確かにそれとわかる微笑みが浮かんでいた。一瞬、魅入られたようにその顔を見つめ――すぐに視線を逸らした。
あとはただどうにかそれを運び、床に広げた袋の上に横たえた。
その先は言われなくてもわかった。中に収まるように手足を揃え、両側から袋をかぶせてファスナーを閉じた。
⦅曳いてついてきて。帰るから⦆
それだけ言うとキリコさんはもう歩き出していた。
いつの間にかDJたちの姿はなかった。俺は袋の一方の先から延びる荷縄――ファスナーを開けるまで中に折りこまれていたそれを肩にかけ、彼女のあとについた。
と、青い顔をしたもう一人の俺が、開け放たれた扉の前に居残っているのが見えた。
キリコさんがその前を通り過ぎようとし――だがすっと立ち止まると、小さな声で俺に言葉をかける。その短い言葉に俺は顔をゆがめ、何かに
……それで終わりだった。短いやりとりのあと、キリコさんはまた元のように歩き始めた。
彼女が立ち去ってしまってもそのままでいる俺の脇を抜け、見失わないようにその背中を追った。
唇を噛みしめるその横顔を見送ったあと、キリコさんが最後に何を俺に告げたのか――まともに働かない頭に、それだけが少し気にかかった。
◇ ◇ ◇
ビルのエントランスを出ると、空はもう
曳いてきた袋を荷台に積み、その隣にキリコさんが乗るのを確認してから自分の位置についた。
ひと漕ぎめのペダルは、来た道よりずっと重かった。長い影を落とすビルの谷間に、きいきいと俺が自転車を漕ぐ音だけが、虚しく響いた。
廃墟を出てすぐに風が吹き始めた。
その風の中を研究所に帰り着くまで、俺たちの間には一言もなかった。急速に熱が奪われゆく荒野に、ただ黙って自転車のペダルを漕いだ。
胸の奥に疑問は渦巻いていたが口にはしなかった。キリコさんの方でも、来た道のように俺に声をかけては来なかった。
地平には巨大な太陽が赤々と最後の輝きを見せていた。獰猛なその赤が、俺には血の色に見えた。
吹き荒む風の音は、さながら挽歌だった。
遠いところへ来た――どうしようもなく遠いところへ。そんなことを何度も思いながら、俺は黙って自転車のペダルを漕いだ。
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