161 試験場と二重身(4)
了解の意味をこめて、俺は深く頷いた。
そんな俺をしばらく見つめたあと、キリコさんは自転車の荷台から例の黒く細長い袋をとりあげ、それを俺に差し出した。持っていけということなのだろう。袋を受け取って襤褸の下に抱えもう一度、今度はさっきよりも小さく頷いた。
ビルの中に入ってすぐ、目が利かなくなった。眩しい太陽の光に溢れる外から、いきなり薄暗いところへ入ったせいだ。
視界におろされた紺色の幕に戸惑いながら、構わず先へ行ってしまうキリコさんの靴音を追った。しばらくして目が慣れてきてはじめて、自分が歩いていたそこが通路であったことがわかった。ビルの外装そのままに剥き出しのコンクリートが連なる、細い通路だった。
やがてその通路の先に俺たちを待っているものと見える人影が現れ、その顔が明らかになったとき、俺はキリコさんから再三の注意を受けていたにもかかわらず、もう少しで声をあげるところだった。
――それはリカだった。らしくない地味な服に身を包み、腰には銃を提げた、けれどもたしかに俺のよく知る友人が、そこに立っていた。
リカは俺には目もくれず、キリコさんと何か小さな声で言葉を交わすと、そのまま俺たちを案内するように通路を先へ進んだ。それについて歩き出すキリコさんを認め――ひと呼吸遅れて俺もそのあとを追った。
「……」
薄暗い通路に三人分の靴底が乾いた音を響かせた。先を行く二人の間に会話はなく、もちろん俺も口を聞かなかった。
無言のかたまりとなって通路を歩きながら、なるほどそういうことかと納得した。
……ここまでの話からアイネか誰かがいるかも知れないという空気を感じてはいたが、まさかリカがいるとは思ってもみなかった。キリコさんの言う通り、危うく声を出しそうになるくらいに驚いた。その驚きは今も消えず、まだかすかに尾を引いている。
リカはヒステリカの関係者ではあっても、舞台に立つ役者ではない。本来ここにいるべき人間ではないのだ。そんな彼女がここにいたのだから、俺が驚くのも無理はないというものだ。
「……」
そうして俺は、まだそれが終わっていないことに気づいた。リカがいたことに驚いたからといって、キリコさんの警告が使い果たされたわけではない。むしろこれからだ。俺が本当に驚くことはこの先に待っているのかも知れない。
……そう考えるべきなのだろう。いるはずのないリカがいたのだからこの先に何があっても――誰が待っていてもおかしくない。
まずアイネはいるとみていい。隊長……はさすがにないだろうが、ペーターあたりは微妙なところだ。あとありそうなところではDJだ。ここでいきなりあいつに会ったとしたら、たしかに驚く。
「……」
……あるいは身内と決めてかからない方がいいかも知れない。さっき確認した通り、誰がいてもおかしくないのだ。たとえこの先に誰がいても、どんな顔を見ても声を出さないように――それだけはしっかりと肝に銘じておかなければならない。
そんな決意を胸に、無言で先を行く二人のあとについて薄暗い廊下を歩き続けた。
「――お、先生。いらっしゃいまし」
それが理由で、重々しい音を立てて開いた扉の先に待っていた光景にはかなり拍子抜けした。
リカの案内で通されたその部屋には、傭兵という言葉を絵に描いたような男たちが
そこには意外な顔などなかった。そればかりかアイネもDJも――心のどこかで会うことを期待していた、見知った顔はひとつもなかった。
「今日は来るつもりなかったんだけどね。近くに用事があったんで、まあついでだよ」
「そんなこと言って。本当は俺に会いたくて来たんじゃねえですかい?」
「グレンにかい? ばか言っちゃいけない。あんたの顔思い浮かべるだけで、あたしはもう胸が悪いんだ」
「いやさ先生、そりゃやっぱり俺に抱かれてえって証拠ですぜ」
「あんたに抱かれるくらいなら、潔くその窓から身を投げるよ」
「ひでえ、そこまで言うこたねえ!」
部屋に入ってすぐ、キリコさんのまわりに人だかりができた。無骨な男たちはみな不似合いな親しみの笑顔を向け、我先にと彼女に話しかけてくる。
俺がそんな男たちに押しのけられる寸前、⦅壁際でじっとしてて⦆と、例の言葉でキリコさんは囁いた。指示に従って退く俺の背中に、楽しげな男たちの笑い声が、当たって落ちた。
「古傷の具合はどうだい?」
「やあ、もう疼いてたまらんのです。診てもらえますかい?」
「とか言いながらベルト外しにかかるんじゃないよ? お見通しさ、そんなのは」
「しませんて! そんなこと」
それからずっとこの調子で歓談が続いている。男たちはいかつい顔に目を輝かせてキリコさんに何かれと語りかける。彼女の方ではそれにいちいち気の利いた返事を返し、そこで笑いがおこる。その繰り返しだった。
男たちが全員キリコさんに好意を持っていることは一目でわかった。……いや、好意ではなかった。彼らがキリコさんを聖母か何かのように慕っていることが、にわかに部屋に醸された和やかな空気でわかった。
いつの間にかリカの姿はなかった。
俺は手持ちぶさたのまま、キリコさんが男たちと談笑に興じるのをぼんやりと眺めた。
そうしているうちに、俺は早くも退屈になり始めた。親しい人が自分をのけ者に、知らない連中と盛りあがっているのを眺めるほどつまらないことはない。そんな俺の思いをよそに、会話はますます陽気なものになってゆく。
――ただ時間だけが過ぎていった。
――放置から二十分かそこらが経ち、俺は完全に飽きた。
その間キリコさんは取り巻きの男たちと話し詰めで、目配せひとつこちらにはよこしてくれない。……何が演技だ、と思った。『黙っているのが演技』も何も、これではまるで俺は大道具か何かだ。
気負いがあっただけに、落胆も大きかった。それならそうと最初から言ってくれれば、大道具としての心でこの演技に臨むこともできたのだ。
脚が疲れてきたのでその場にしゃがみこんだ。立っていろと言われたわけではないから、別に問題ないだろう。
うずくまって膝を抱え、キリコさんの仕事が終わるまでこのままずっとこうしていなければならないのだろうか、と思った。……それがいつまでかかるかわからないことも含めて、憂鬱は募る。理不尽な主人に振りまわされる従僕のせつなさに、長く深い溜息をついた。
――軋んだ音を立てて扉が開いたのは、ちょうどそのときだった。
部屋に入ってきた二人を見た瞬間、心臓が止まった。
入ってきたうちの一人はアイネだった。傭兵らしいくすんだ上下に身を包み、腰に銃を提げた。
そして――もう一人は俺だった。
見間違いようのない俺自身が、アイネのあとにつきゆっくりした足どりで部屋に入ってきた。
「おや、新入りかい――」
キリコさんの呼びかけに俺はどこか困惑したような表情を浮かべて動きを止める。隣に立つアイネに何か言葉をかけられ、慌てて返事らしきものをする。その返事を受けてキリコさんが何かを告げ、例によって周りから盛大な笑いがおこる。
俺――ここにいる俺は、放心の中、そんなやりとりをただ呆然と見つめた。
キリコさんの前で二人が何かを喋っている。だが俺の耳にはもう何も入ってこない。キリコさんが口を開き、また周囲に笑いが広がる。その笑い声さえも、けたたましいただの音としてしか俺の耳には届かない。
周囲からの笑いにふて腐れたような顔をするアイネ。その横でやれやれといった表情で立ち尽くす俺。落ち着いた笑みを浮かべて二人を見守るキリコさん。そんな三つの顔が古い無声映画の一場面のように、現実感をともなわない遠い世界の映像として感じられた。
その間、俺の中で時間は止まっていた。何も感じられず、何も考えられなかった。目の前に繰り広げられる一連のやりとりを、ただあるがままに呆然と眺めた。
『何があっても声を出すな』という言いつけを守りおおせたことに気づいたときには、もう喧噪は治まっていた。……守ったのではない、結果として守れただけだ。何の感慨もなくそう思って――自分が声も出せないほど完全に落ちていたことを理解し、そこで初めて背筋がすっと寒くなるのを感じた。
ほどなくして会話は終わり、二人が壁際に退くのが見えた。
キリコさんが部屋の真ん中に置かれた丸椅子に腰かけ、男たちがその前に列をつくる。そして、どこから取り出したのだろう、聴診器を手にキリコさんは彼らの診察を始めた。いかつい男たちが一人、また一人と彼女の前に進み
診察が始まってだいぶ時間が経っても、俺は当初の混乱から立ち直ることができなかった。……立ち直ろうとする気持ちさえ湧いてこなかったと言った方がいい。
ゴーグル越しの狭い視界に一人の男が入るたびに、あらゆる思考が俺の頭から奪われる。同じ空間に存在するもう一人の俺のために、俺は依然として何も考えることができない。
そのもう一人の俺は向かいの壁際に、アイネと並んで立っている。ときどき思い出したように彼女と喋るとき以外、その目はじっとキリコさんを見つめている。
そんな様子を眺めるうちにふと、俺はあんな顔をしていたのか、と思った。鏡で見るのとはどこか違う、まるで他人のもののような顔……。彼がこの部屋に現れてから俺の心に浮かんだ、それが最初のまともな感情だった。
そのとき――俺と目があった。
気がつけば俺は真向かいから挑むような目でこちらを凝視していた。咄嗟に逃れてはならないと思い、真っ直ぐに同じ目を返した。
そうして俺たちの視線は交わった。互いに向かい合う壁に背を預ける俺と俺は、それからしばらくの間じっと見つめ合った。
何とも言いようのない奇妙な感覚だった。
鏡を見ているのとは違う……それとは明らかに何かが違う。自分とまったく同じ姿を持った、けれども自分とは違うものが目の前にいて、それが今こうして言葉もなく互いに見つめ合っている。
気味が悪いというのではない、胸騒ぎがするというのも違う。ただ奇妙としか言いようのない感覚だった。
やがてもう一人の俺の方が目を逸らしてアイネとの会話に戻ったあとも、俺はそのままでいた。
見つめ合っていたときよりもいくぶん気の抜けた表情で隣のアイネに語りかけるのを眺めるうち――あの俺は、この俺に気づかなかったのだということを今さらのように理解した。
ここにいる俺は、彼が俺自身であることに気づいた。だが彼の方では、ここにいる俺が彼自身であることに気づかなかったのだ。おそらく、頭から被っているこの襤褸のために。
その不公平を悟ったことで、俺の頭はまた混乱し始めた。互いに顔を合わせながら何も知らないあの俺と、すべてを知ってしまったこの俺。いや……すべてを知ってなどいない。何も知らないことを知らされただけだ。
俺がいるここにはもう一人の俺が存在して、俺とは別の意識を持ち、別の世界に生きている。それが何を意味するかわからない。なぜそんなことになっているのかもわからない。
そう……すべてがわからない。俺はただそれを――何も知らないことを知らされただけなのだ。
混乱は加速し、俺はまた迷路にはまりかけた。だがその一歩手前で、扉が再び軋んだ音を立てて開くのを聞いた。
部屋に入って来たのがDJだったのを見ても、俺はもう驚かなかった。護衛よろしく背後に二人の男を従えたDJは闊達な足取りで、真っ直ぐにキリコさんの前へ進み出た。
「どうも。先生にはご機嫌麗しく」
「ずいぶんと遅かったじゃないか」
「申し訳ない。花を摘みに出ておりまして」
「ああ、お花摘みね――」
色褪せた軍装に
――けれども、そんな見るからにそのままのDJに、俺はなぜか強い違和感を覚えた。なぜかはわからない。だがまるでDJと何から何までそっくりな別人を見ているような、そんな感覚があった。
「ところで、新しいのが入ったみたいじゃないか」
そう言ってキリコさんは
「ええ」と相づちを打ってDJもそちらに顔を向ける。場の中心に立つ二人からの注視を受けた俺の顔がわずかに動揺の色を浮かべ、だがすぐ挑み返すような張りつめたものに変るのが見えた。
「補充はいつ以来だっけね?」
「さあ、そんな昔のことはもう覚えてませんね」
「それにしても、よくあんたのお眼鏡にかなったじゃないか」
「そりゃかないますよ。なにせ魔弾の射手ですから」
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