160 試験場と二重身(3)

「遅い遅い。こんなんじゃ着く前に日が暮れるよ」


「……」


 ――後ろからの心ない声を無視してペダルを漕ぐ。激しい昼下がりの陽射しが行く手に広がる荒野をぎらぎらと灼いている。


 厚い布越しにも、それが直接浴びれば生命に危険を及ぼしかねないものだとわかる。その厚い布のおかげで、まだどうにか耐えられる。……それでもペダルを漕ぐたびに、滝のような汗が首すじから背中から、あとからあとから身体中を流れ落ちてゆく。


「もう少しな漕ぎ方はできないもんかねえ。ちょっとは甲斐性のあるとこを見せておくれよ、ほら」


「……」


 螺旋階段をのぼりきり、地上に出たところで待っていたのは自転車だった。後ろに大きな荷台のついた、ちょうどホームレスの人が空き缶の山を載せてゆっくり走っているような自転車。


 キリコさんからその自転車を漕ぐように命令され、反論できないままこうして今に至る。過酷な労働を命じたご主人様は、優雅に白い日傘をさして荷台にくつろいでいる。


「しかしまあ、今日は風もなくていい天気だね。風が吹くとひどいんだ。砂ばかりか小石まで飛んでくるしさ。今日は実にいい天気だよ、そう思わないかい?」


「……」


 行き先は昨日見たあの廃墟ということらしい。マリオ博士が『試験場』と呼び、キリコさんは『実験的な劇場』と表現したそこだ。


 昨日の話では、そこに人々は血みどろの殺し合いを繰り広げているのだとという。行き先を告げられたときまず思ったのはそのことだが、漕ぎ始めてすぐそんなことはどうでもよくなった。


「聞いてんのかい? いい天気だろ、って尋ねてるじゃないか。さっきからあたしが喋ってばかりってのはどういうことだい? いい天気だろ、ほら。返事をし、返事」


「……」


 必死に漕ぐ俺の背中で、キリコさんはまるでピクニックにでも来ているかのように盛んに話しかけてくる。最初は例の沈黙の掟を守っていることを確認するためにわざとそうしているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。


 このまま無視していたら本気で怒り出しかねない勢いだ。それにこっちとしても、この暑いなか汗まみれの運動を続けさせられ、いいかげん頭がまわらなくなってきている。


「……ヒキガエルになるのはごめんです」


「ん? ああ、ばかだねえ。そんなこと気にしてたのかい? まったく融通がきかないったらないね。二人きりのときはいいんだよ」


「……都合のいい呪いですね。ずいぶんとまた」


「さっきから退屈でたまらないんだよ。貴婦人の退屈を慰めるのが騎士の本懐ってもんだろ」


「……騎士にこんなの引かせないでほしいもんです」


「なに言ってんだい。光栄ある『荷車の騎士』じゃないか」


「……何ですか、それは」


「知らないのかい? 案外、学がないもんだね。インテリジェンスに富んだ会話ができるかどうかで女は男を見るもんだよ。やれやれ、これでハイジの評価がぐっと下がった、と」


「……それはどうも」


 長い沈黙を破って話し始めてはみたものの、キリコさんのテンションにはとてもついていけない。


 ……だいたい、なぜ自転車なのだろう? こんな砂漠の真ん中に孤立する研究所なのだから、ジープの一台や二台あってもよさそうなものだ。


 あまつさえ、話を聞く限り最先端の科学を扱っている研究所のはずだ。それがなぜこの炎天下を実験施設へ向かうのに、自転車などという懐古的レトロな乗り物を駆って行かねばならないのか……。


「思い出すねえ、こうしてると」


「……はい?」


「あいつがまだいるうちは、こうして後ろに乗っけてあそこまで自転車を漕いでくれたもんさ」


「……隊長がですか?」


「隊長?」


「ああいや、ジャック博士が」


「そうさ。あいつが、だよ。ところでその隊長ってのは何なんだい?」


「……での呼び名ですよ。俺はあの人のことを、ずっとそう呼んでたんです」


「ふうん、そうかい」


 そう言ってキリコさんはしばらく口を閉ざした。


 隊長という言葉を出してしまったのはまずかったと後悔したが、すぐにどうでもよくなった。暑さと疲労で頭がよくまわらないのだ。


 出る前に指示された通り、水は例のペットボトルのものをときどき休んで飲んでいるから脱水症の心配はないが、それにしてもきつい。


 ただどういう構造になっているのか、真っ黒で陽射しの熱を吸収しやすいはずのこの布の下にあって、どうにか運動を続けられるていどの温度が保たれているのが、せめてもの救いだった。


「どんな演劇してたんだい?」


「……はい?」


「言ってたじゃないか。一緒に演劇してたって。ハイジの言ってたそこで、あたしたちはどんな感じの演劇をやってたんだい?」


「即興劇です」


「即興劇?」


「コメディア・デラルテって知ってますか?」


「一応は知ってるよ。道化アルレッキーノとか老人パンタローネとか、そういうのだろ?」


「それと似たのをやってたんです」


「へえ、面白いじゃないか。あたしたちが仮面つけて即興劇とはねえ」


「ああいや、仮面はつけなくて」


「あれ? たしか仮面つけるんじゃなかったかい? そのコメディア・デラルテってのは」


「仮面の記号性が失われた今、そんなことやっても意味がないって隊長が」


「あはは! あいつなら言いそうだ」


「あと、客に顔を見てもらえないのは嫌だってキリコさんが」


「あははは! ますます言いそうだ! 面白いじゃないか! あはははは!」


 どこかでスイッチが入ってしまったようで、それからしばらくキリコさんは笑い続けた。陽気な笑い声を背中に聞きながら、俺の方でも奇妙なおかしみを覚えた。


 コメディア・デラルテのこと、仮面をつけない理由。そのどちらもヒステリカに入ったばかりの頃、キリコさんから教えてもらったことだ。


 それが今、当のヒステリカの劇の中でそれを彼女に教えている。しかも気がついてみればそのおかしみを、何でもないことのように受け容れている俺がいる……。


「ジャックが舞台監督やってたんだっけね?」


「そうです」


「あたしとハイジが役者で、他に誰かいたのかい?」


「あと二人。アイネとペーターってのが」


「……へえ、アイネちゃんがいたんだね」


「アイネのこと知ってるんですか?」


「まあね。あの子が演劇してるとこなんて想像できないけどさ、はは」


 キリコさんはそう言ってまた短く笑った。けれどもそれはさっきのものとは違って、どこか冷たい感じのする乾いた笑いだった。


 ただいずれにしてもキリコさんがアイネを知っているということは、やはりあいつもに来ているということのようだ。だとすれば、近いうちにアイネと共演の機会があるかも知れない。


 そう考えるとペダルを漕ぐ足にも自然と力が入る。あいつがどこでどんな役を演じているのか、そしてどんな形で俺に――俺たち二人に絡んでくるのか。そう思うだけでもう血がたぎってくる。早く会って言葉を交わしたいという気持ちが膨らんでゆくのをどうすることもできない。


「もう一人はどんなやつなんだい?」


「え?」


「そのペーターってやつだよ。そっちは知らないんだ。どんな男なんだい?」


「まず女です」


「名前がペーターなのにかい?」


「俺はハイジです」


「あべこべじゃないか。どういうネーミングセンスしてるんだよ、そこの連中は」


「俺にハイジという名前をつけてくれたのはキリコさんという人ですが」


「まあ名前なんてどうでもいいさ。どんな女なんだい? そのペーターってのは」


「ああ、ええと。ペーターってのはですね――」


 促されるまま俺はペーターについてあれこれと説明した。身体的な特徴から、最後は例の病気に至るまでをおおざっぱに。


 病気についてはペーターの名誉のために黙っていようかとも思ったが、それがなくてはあいつについて語ったことにはならない。できるだけ穏やかな印象になるようにオブラートに包んで、それでもやはり恥ずかしいありのままの彼女を隠さずに話した。


 その説明にキリコさんは最初、うるさいくらい相づちを打っていたが、そのうちに静かになり、一通り話し終える頃には完全に黙っていた。


 説明に区切りがついたところで振り返ると、日傘がつくる小さな影の中でキリコさんはじっと何かを考えているようだった。……今朝と一緒だ。そう思って溜息をつき、ペダルを漕ぐ作業に戻った。


 陽炎の立つ荒野の先に、廃墟はまだ遠い。このままではキリコさんの言う通り、着くまでに日が暮れてしまうかも知れない。


「……まさかね」


「え?」


 長い沈黙のあと、キリコさんはぽつりとそんな一言をもらした。


「何のことですか?」


 問い直してみても返事はなかった。だがしばらくして吹っ切れたような声で「何でもないよ」とキリコさんは言った。


「ただ、ちょっと羨ましく思ってね」


「何がです?」


でのあたしがさ。もうひとつ身体があったらそういう人生送ってみたかったって、そう思って」


 溜息をつくような声でキリコさんは言った。振り返らなくてもどんな顔をしているのかわかる、重く深い一言だった。


 考えてみればのキリコさんはまだ若い身空で、こんな砂漠の真ん中に女一人、研究に打ちこんでいるのだ。こんな本当に何もない荒野の真ん中に……。


 目の前に広がる荒涼とした大地を眺めながら、なぜキリコさんがそうしているのか、今さらのようにそれが気になった。


「水とかはどうしてるんですか?」


「水?」


「部屋に水道があったじゃないですか。砂漠の真ん中なのに」


「ああ。あれは地下水を汲みあげてるんだよ」


「……」


「こんな乾いたとこでも下の方に水があるにはあるんだ。ピンポイントで狙ってよっぽど深く掘らないと出てこないけどね、それも」


「……何でですか?」


「ん?」


「研究するのに、何でこんな砂漠の真ん中にわざわざ」


 その質問にキリコさんは黙った。答えが得られないまま、俺も黙って自転車を漕いだ。


 少し風が出てきたようだ。


 まだここまでは来ていないが、地平の彼方にはうっすらと靄のように砂塵が舞いあがっているのが見える。


「色々とあるんだよ」


「……」


「政治的なのとか経済的なのとか、色々とね」


「……」


「まあ、ハイジの言いたいこともわかるよ。こんな場所で研究なんて、どう考えたってまともじゃないさ」


「そんなことは……」


「いいや、そうなんだよ。こんな辺境まで好きこのんでやってくる研究者なんてのはみんなどこかる。あたしも含めてね。だってそうだろ。順調に積みあげてきたキャリア放棄して、こんなとこで誰にも認めてもらえない研究に勤しんでるんだからさ」


「……動機は何なんですか?」


「ん?」


「その誰にも認めてもらえない研究をしに、博士ドクターたちがここへ来た動機です」


「大半は金につられたんだろうね。マリオなんかはにその口だ。あとは下手打って中央での道が閉ざされたやつが数人と。残りは興味か」


「興味?」


「科学者としての興味だよ。掘り尽くされた鉱脈にきんの欠片を拾うような作業じゃない。どでかい何かが埋まってるかも知れない新しい山につるはしを打ちつけることへの純粋な興味だ」


「……わかりません、俺にはちょっと」


「誰も彼もが歴史に名前残すために科学やってるわけじゃないってことさ。暗い森があったから切り開いてみたくなった、月があったからそこまで行ってみたくなった。海原にたとえて、自分は砂浜で遊んでる子供に過ぎないってのたまった大科学者もいたっけね。があったんだよ、ここには」


「……」


「確かにあったんだ。科学者なら誰だって無視して通り過ぎることなんてできない、どでかい何かが。……もっとも現場監督が早々に見切りつけて逃げちまったから、何が埋まってたんだかわからずじまいになっちまったけどね」


「帰ってくる可能性はないんですか?」


「ん?」


「その現場監督が」


「ないね。天地がひっくり返ってもない。それに何かの間違いで帰ってきたとしても、もう誰もあいつの言うことなんて聞きやしないよ」


「……そうですね」


「あいつの失踪が『本部』にばれるのも時間の問題だ。今後の身の振り考えてみんな大忙しってわけさ。最近のごたごたも半分はそれが理由でね。……のことなんて誰も気にかけちゃいないよ。に頼るしかないあたしと、なに考えてるかわからないマリオ以外は」


 気がつけば目指していた場所はもう眼前に迫っていた。


 まるで建設途中のまま放棄されたようなコンクリートの塔。窓の一枚も入っていない、ところどころ崩壊したビルの群れ。


 ようやく強まり出した風の中に、荒れ果てた廃墟が厳かに俺たちを待ち受けていた。


「さて、ここからは本当に黙っておくれよ」


 咎めるようなキリコさんの声がかかった。まるで俺が言いつけを破ったとでも言いたげだ。自分から無理に話しかけてきたことなどもう覚えていないのだろう。


「喋ったらヒキガエルだよ。忘れてないだろうね?」


「……」


 抗議の意味をこめて返事をしないでいると、何か尖ったものが背中に当たるのを感じた。驚いて振り返れば、閉じた傘の先をこちらに向け、不機嫌そうな顔で睨むキリコさんがいた。


「返事は?」


「……カエルになるのはごめんですから」


「けじめだよ。ここから喋らないっていう。返事は?」


「……はいはい」


「はいは一度だろ?」


「はい」


◇ ◇ ◇


 そうして俺たちは廃墟に入った。


 ときどき後ろからかかる指示に従い、ビルの谷間を抜けて自転車を漕いだ。


 人の気配はなかった。そればかりかビル陰に隠れるようにして生えているわずかな灌木を除けば、命あるものの姿はどこにもなかった。


 吹き荒ぶ風の中に静まりかえるその廃墟を、まるで巨大な棺のようだと思った。こんな場所で本当に人が生活しているのかと、信じられない思いは道を先へ進むごとに募った。


 やがて一棟のビルの前で停車の指示が出た。どうやらそこが目的地ということのようだ。


「ちょっとここで待ってるんだよ」


 そう言い残して、キリコさんはそのビルの中へ入っていった。


 真っ暗なエントランスはシャッターの開いた火葬炉の口を思わせる。……我ながら忌まわしい連想だった。だが生き物の死に絶えた場所にいるせいか、どうしてもそういうことばかり頭に浮かんできてしまう。


 ビルに入っていったキリコさんはなかなか戻ってこなかった。吹き荒む風の音を聞きながら、じっと彼女が戻ってくるのを待った。


 いいかげん長く待たされ、ひょっとして置き去りにされたのではと不安になりかけていたから、真っ暗なエントランスにしるくキリコさんの白衣が現れたときはほっとした。


 思わず口から出かかる文句の言葉をこらえ、黙って彼女を迎える。何があっても喋ってはならないというのが、今日、俺に与えられた役の唯一の特性キャラクターなのだ。


「さっき言ったこと覚えてる?」


「……」


 そんな俺の覚悟を疑うかのように、俺の前に立つなりキリコさんはそう言った。


 言われた俺の方としては当然、内心にげんなりとしたものを覚えた。遅くなったことに弁解のひとつもないばかりか、またこんな二番煎じの試し方をしてくる。抗議のために何かをする気力も失せて、軽く頷くことで返事をした。


 だが頭をあげて前を見たとき、そこに立っているキリコさんが妙に真剣な表情をしていることに気づいた。


「お願い。何があっても絶対に喋らないで」


「……」


 張りつめた声だった。金属的で氷のように冷たい、彼女が本気でものを言うときの声だ。


 それに気づいて、自分が思い違いをしていたことがわかった。……キリコさんは俺を試しているのではない、言葉通り念を押しているのだ。彼女をそうさせる何かが中にあったのだ。


 時間がかかったのも、あるいはそのせいかも知れない。だがあのビルの中におそらくキリコさんの想像を裏切るほどの、いったい何があったというのだろう――


「たぶん、あるから」


「……?」


「ハイジがすごく驚くことが、この中にあるから」

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