159 試験場と二重身(2)
キリコさんが戻ってきたのはそれから三十分近くもあとだった。
だが昨日とは違い、戻ってきた彼女に大した変化はなかった。……もっと言えば服装から何から、三十分前に部屋を出ていったときから何ひとつ変わっていない。あれほど時間をかけていったいどんな支度をしていたというのだろう――と、女の準備に待たされた男の型どおりの感想を
「出るよ」
だがその前に、キリコさんから短い声がかかった。そして例によってこちらの返事など待たずに部屋を出てゆく。
同じく例によって、俺は小さく溜息をついてそのあとを追った。
◇ ◇ ◇
廊下に出て十分も歩かないうちにその部屋にたどり着いた。無骨なスチール棚が
入って左手には赤いランプの点る扉があった。ノブの下にカードキーを挿すためのスリットがついたその扉をしばらく眺めて、それが昨日地上に出るためにのぼった螺旋階段の入り口にあったものと同じであることに気づいた。
スチール棚には半分潰れたような段ボールの箱がぎっしりと詰まっていた。部屋に入るなりキリコさんはその箱を端から覗きこみ、何かを探し始めたようだった。手伝おうかとも思ったが、一人で探した方が早いかも知れないと思い直し、声がかかるまで待つことにした。
結局、それほどかからないうちに探しものは見つかったらしい。「あった」という声と共にキリコさんは箱から黒いものを取り出し、それを無造作にこちらへ投げてよこした。
「……?」
思わず受け取ったそれは、厚手の黒い布だった。黒い布――と言うより
何の材質からできているかわからないそれはみすぼらしく
「……何ですか? これ」
そんな疑問が自然と口をついて出た。だがキリコさんはまだ探しものが残っていたらしく、箱の中身に夢中で返事は返ってこない。
仕方なくその襤褸を抱えて立ち尽くしていると、こちらを振り向かず箱の中に手を突っこみながら「着てごらんよ」とキリコさんは言った。
「着る?」
「ああ」
「何をですか?」
「それに決まってんだろ」
「それ……?」
「それだよ。いま渡したそれ」
そう言われて俺は、腕の中の襤褸きれを見つめた。
……どうもこれを着ろということらしい。着ろと言われれば着るが、どうやって着ればいいかわからない。……と言うより、これは本当に着るためのものなのだろうか?
混乱する頭をあげると、こちらを向くキリコさんの顔があった。頭だけこちらに向けた半端な姿勢から、ぶっきらぼうな口調で「とにかく着てみておくれ」と彼女は言った。
「サイズが合わないようなら、別のを探さなきゃならないからさ」
「……サイズ?」
「そう、サイズ」
「……何なんですか、これ」
「衣装だよ」
「衣装?」
「これから向かう舞台に立つための衣装。さ、つべこべ言ってないで早く着てみておくれ。そんなに時間の余裕があるわけじゃないんだ」
そう言ってキリコさんは棚に向き直り、箱の中を覗き始めた。
……これを着るということで間違いないようだ。だがそう言われても俺の方では着方がわからない。教えを乞おうとキリコさんを見たが、熱心に箱をあさるその背中からは『話しかけるな』という明確な意思が感じられる。
仕方なく俺は質問を諦め、ぎこちなく抱えていたその襤褸をとりあえず手に取った。
「……」
広げてみるとそれはどうやら一枚の布のようだった。これを着るというからには、頭からかぶればいいのだろうか?
ただこのままかぶったのでは前が見えない。衣装がそれでは困るし、何か正しいかぶり方のようなものがあるはずだ……。
そう思いながらまさぐっているうち、ふと指が固いものに触れた。何だろうと思いひっくり返すと、ぎょっとするようなものが目に飛びこんできた。
「……何だこれ」
布の真ん中に植えつけられた、それはマスクだった。それもただのマスクではない。呼吸器――としか呼びようのないものの上に二つのレンズが突き出す、どう見てもガスマスクだった。
裏返してみればそこには、頭にまわすためのベルトのようなものがちゃんとついている。……なるほど、わかった気がする。このガスマスクを顔にあててかぶるのがこの襤褸の正しい着方なのだ。
「……」
正直、気乗りはしなかった。自分の人生で、まさかガスマスクなんてものをかぶる日が来るとは思わなかった。だが今さらそんなことを言っても始まらない。俺は小さく溜息をついてマスクを顔に
頭をおこしてみると視界は意外に広かった。それも含めて、思ったより快適だというのが身に着けてみて第一の印象だった。
マスクを顔につけているといってもぴったり張りついているわけではないし、少なくとも想像していたような息苦しさはない。そこから垂れ下がっている襤褸布にしてみても羽のように軽く、通気性にも優れているようで、ほとんど無いもののように感じる。
「ぴったりじゃないか」
声のした方を見ると、腕組みをしたキリコさんが薄笑いを浮かべてこちらを眺めていた。そこで、さっきサイズがどうこう言っていたことを思い出し、身に着けたばかりのそれを、改めて衣装として吟味してみた。
「ちょっと丈が長いんじゃないかと」
「そうかい?」
「これだと引きずりますよ」
「それでいいのさ。そいつは地面を引きずるくらいがちょうどいいんだ」
「そうですか」
そう言われてしまえば俺に反論の余地はない。それに、後ろは完全に引きずる長さだが、前の方は地面まで少し余裕がある。これなら踏みつけて転ぶというような古典を演じることもないだろう。それだけ確認して、俺はひとまずその襤褸布を脱いだ。
「何なんですか、これ?」
「さっきから何回も言ってるだろ。舞台衣装だよ」
「舞台?」
「これから行くところさ。あんたには今日一日、それかぶって演技してもらうよ」
「演技――というと、俺はどんな演技をすればいいんですか?」
「ああ、そういうのは考えなくていいんだ。面倒くさいことは何も考えなくていい。それを着て黙ってあたしについてきてくれれば、それだけでいいんだよ」
「……そうですか」
そう言われて、少し残念な気がした。ひょっとしたらこの劇の中でさらに即興の劇を演じることができるかも知れない――キリコさんの口から演技という言葉が出たとき、にわかにそんな希望を覚えたからだ。
けれども聞く限りそれはキリコさんに付き従うただの従者に過ぎないようだ。……だとしたらそれは、ここまで演じてきたこの役と何の変わりもない。
「何してるんだい」
「え?」
「早くしておくれよ。出られないじゃないか」
腕組みしていた手を腰にあて、急かすような声でキリコさんが言った。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。だが彼女が顎でさした先を見て、衣装を着ろと言っているのだということに気づいた。
……つまり、もうここから着ていかなければいけないということなのだろう。俺は丸めて腕に抱えていた襤褸布をもう一度広げ、さっきと同じようにそれを頭からかぶろうとした。
「ああ、そうだ。忘れてたよ」
「え?」
「言っとかなきゃいけないことがあったんだ。そいつを着る上でのルール」
「? どんなルールですか?」
「そいつをかぶったらね、何があっても声を出しちゃいけない」
「……」
「それがルールなんだよ。何を見ても、どんなに驚いても絶対に声を出しちゃいけない。ここへ帰ってきてそれ脱ぐまでね。それだけ、よろしく頼むよ」
「……おとぎ話の呪いみたいですね」
「ん? ああ、そうだね。声出したらヒキガエルにしてやるから、そのつもりでいておくれ」
「何かあるんですか?」
「ん?」
「これから行く先に、何かびっくりするようなことでもあるんですか?」
「……さあ、どうだろ。何もないことを祈ってるんだけどね、あたしは」
少し困ったような
レンズ越しに頷いて見せるキリコさんに軽く頭をさげて返す。そこで彼女は床を指差し、「こいつを持っていっておくれ」と言った。
「……」
指の先にあったのはペットボトルだった。中身はミネラルウォーターだろうか。無色透明の液体が詰まった二リットルのペットボトルが二本。
この格好でどうやって持てと言うのだろう。こちらのことなどお構いなしに扉を開けようとしているキリコさんにそれを尋ねようとして――告げられたばかりの掟を思い出した。
……そういえば声を出してはいけないのだった。俺は少しだけ考え、やはりこれしかないと襤褸の下をくぐらせ、二本のペットボトルを直接両脇に抱えた。
緑のランプが
何の袋だろう……と、思っても質問はできない。何を思っても声に出してはならないというのは結構きつい縛りだと、今さらのように感じた。
「じゃあ行くよ。いいね?」
扉の前でこちらを振り返り、返事を求めるようにキリコさんは言った。軽く頭をさげて俺はそれに応える。
そんな俺に満足げな笑みを浮かべたあと、キリコさんは昨日と同じように真っ暗な螺旋階段に消えていった。そうして昨日と同じように、俺は黙ってそのあとを追った。
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