158 試験場と二重身(1)
「――BB弾?」
「はい。ぱっと
その一言にキリコさんはコーヒーカップを口に運びかけていた手を止め、訝しそうにこちらを見た。
俺の方のコーヒーはあまり減っていない。もともとそんなに好きではないというのもあるが、会話のために口が駆り立てられているからだ。起床して朝食が始まってからずっとこうして喋り続けている。木椀に盛られたドライフルーツの山もほとんどそのままだ。
「参ったね。そのへんになってくるとあたしはてんで駄目なんだよ。そのBB弾ってのはいったいどんなものなんだい?」
「ガス銃の弾です」
「ガス銃?」
「圧縮ガスの力で発射する形式の、いわゆるエアガンです。そのための弾なんです、BB弾ってのは」
「……ふうん。しかし、あんな小さいプラスチックの弾で人を撃ち殺したりできるもんなのかい?」
「できませんよ。純粋にゲームのための弾ですから」
「ゲーム?」
「サバイバルゲーム。平たく言えば戦争ごっこです」
「へえ……そういうことかい」
食事が始まってしばらくは昨夜のパーティーの話題が中心だった。
昨日あれだけ
あれは本当に良かった、あれがなかったら何をしでかしていたかわからなかったと、英雄の偉業を讃えるかのように大げさな言葉でキリコさんはあのときの手際を褒めちぎった。
そんな手放しの称賛に頬が弛みかけたところで、また突然話題が切り替わり、この話に移った。あのダンスのあとにマリオ博士が見せた小さな玉――BB弾について俺が知っていることを話せという命令が下り、奇妙な話だが昨日とは逆に、向こうに関する俺の知識をキリコさんにレクチャーする流れになった。
「どうやって判定するのさ」
「え?」
「そのゲームだよ。当たっても痛くないんじゃ判定のしようがないだろ」
「いや、それが結構痛いんです。離れればそんなに痛くないけど、近いとかなり」
「どのくらい痛いんだい?」
「赤く腫れて三日は残るくらい」
「どれだけ近くで撃てばそのくらいの痛さになるのさ」
「銃にもよるけど、俺が持ってたやつだと三メートルかそこらで」
「ふうん。そんなもんか」
気の抜けた返事を返してキリコさんはチーズをつまみ、あまり美味しくもなさそうに囓った。
BB弾について話し始めてからもうだいぶ経っているが、キリコさんは飽きる様子もない。むしろ細かい部分まで重箱の隅をほじくるように突っこんで聞いてくる。
別に説明が面倒というわけでもないのだが、なぜ彼女がそんなに熱心に向こうの話を聞きたがるのか、俺としてはそのへんがよくわからない。少し前にその理由を尋ねてみたが、まるで聞こえなかったかのように次の質問を口にするキリコさんに、まあどうでもいいかと諦めた。
「飛距離は?」
「え?」
「飛距離だよ。当たったと感じる限界の距離」
「それも銃によりますけど十メートルか、せいぜい二十メートルくらいかと」
「だいぶ飛ぶもんじゃないか」
「そうですね。ただ当たったかどうかの判定はあくまで自己申告で、個人の良心にかかってます」
「紳士のスポーツってわけだね」
「紳士のスポーツです。明らかに当たってるのに倒れないやつのことをゾンビって呼ぶんですが、そういうやつは卑怯者として忌み嫌われます」
「ゾンビねえ」
そのあたりにはまるで興味がないといった口調で呟いたあと、キリコさんは黙って何かを考えている様子だった。さっきからずっとこの調子で、矢継ぎ早に質問をしては急に立ち止まって考えこむ。
そうやって何を考えているのかはわからない。だが、無防備に口を半開きにして真剣に何かを考えているキリコさんを眺めるのはそれなりに楽しく、俺の方でも飽きたりつまらなかったりということはなかった。
「話を総合すると、だ」
「はい」
「そのBB弾ってのは要するに、
「まあ、そういうことです」
「あれが玩具の鉄砲の弾、ってことになると――」
「ただ、玩具と呼ぶにはちょっと語弊があるかも」
「? どういうことだい?」
「あくまで俺のいた所の話なんですけど、そういう玩具にかける情熱が半端ないんですよ」
「へえ、そうなのかい」
「だから
「……なるほど」
「ゲーム用の玩具には違いないけど、その玩具としてのクオリティがとてもそう呼べないくらい高いんです。命中精度とかもかなりきてますよ。まあ
「だいたいわかったよ。ありがと」
そう言ってキリコさんは立ちあがり、空になったコーヒーカップを手に取った。そうして上から俺のカップを覗きこみ、まだ半分近く残っていることを確認したあと、流しの方へ足を向けた。
「いずれにしても
「? 何の話ですか?」
「今日これからの話だよ」
ポットからコーヒーを
……理由は考えるまでもなかった。流しから帰ってきたキリコさんに、半分答えのわかっているその質問をぶつけた。
「……今日もその、訓練はあるんですか?」
「ん?」
「あの子との訓練です」
「ああ。あっちから声がかかればね」
「……そうですか」
「ハイジがまだ経験不足なのは事実だ。マリオの口車に乗るのは悔しいけど訓練は必要だし、あの子しか適当な相手がいないってのも否定できないんだよ」
「そうですね」
「申し訳ないとは思うけどね。死ぬような思いさせて」
「いえ、いいんです。覚悟はできてますから」
口ではそんな返事を返しながら、内心に冷たく尖った針のような恐怖を覚えた。
昨日、あの少女に喉を切り裂かれたときの感覚はまだ生々しく首に残っている。今日もまたあんな死ぬような目に遭うのかと思うとさすがに憂鬱だった。けれどもキリコさんの言うようにどうしても必要な訓練ということなら、俺は甘んじてそれを受け容れるしかない。
「……そういえば、ひとつ疑問に思ってたんですけど」
「ん?」
「あの言葉は何なんですか? 博士たちが喋ってる」
「ああ……あれか」
そう言ったきり黙ると、キリコさんはドライフルーツの椀からイチジクの実をとりあげ、ぽいと口に放りこんだ。そのままゆっくりと口を動かし、味わうように咀嚼する。
……答えられない質問ということなのだろうか。そう思って俺が口を開きかけたところで、キリコさんは口の中のものを飲み下し、どこか諦めたような声で「まあ教えといて損はないか」と言った。
「どマイナーな人工語だよ」
「人工語?」
「人為的につくられた国際共通語ってことさ。誰も使ってないような、ね。エスペラントって知ってるかい?」
「一応、大学の授業で習いました。……たしか一人の医者が作って広めた言語だとか何だとか」
「ちょうどあれができた頃、沢山のやつがあれみたいな国際共通語を作ろうと躍起になってたんだ。知っての通り、その中で辛うじてものになったのはエスペラントだけで、他のはみんな淘汰されていった。そのへんも習ったかい?」
「はい」
「けど、出来が悪かったから、ってわけじゃないんだ」
「え?」
「エスペラントになれなかったやつは、それより出来が悪かったから、ってわけじゃないのさ。そのへんはまあ、政治的な問題もあってね。埋もれてった中にも出来のいいものはいっぱいあった。それを掘り起こしてここの共通語として使ってるのさ」
「……」
「ここのやつらは色んな国から来てるからね。言うなれば多国籍研究所だ。そんなわけで意思疎通のための共通語がどうしても必要なのさ」
「……いちから覚えたんですか?」
「ん?」
「その言語を掘り起こして使ってるってことは、博士たちはその……この研究所に来るためにいちから覚えたってことですか? その言語を」
「まあそうなるね」
「……」
「けど、それも言うほど大変じゃないんだ。そもそも国際共通語ってのは、誰でも簡単に覚えられて話せるように設計されたもんだからね。一週間も頑張ればどうにか喋れるくらいにはなるんだ。それにほら、あたしたちはこれでも
「英語じゃ駄目だったんですか?」
「ん?」
「普通、そういう共通語って英語だと思ってたんですけど」
「ああ……そのへんは色々と事情があってね」
キリコさんはそう言って面倒くさそうに頭を掻いた。それから小さな声で独り言のように「あいつが筋金入りの英語嫌いだったから」と言った。
「あいつ?」
「トンズラした主任研究者だよ」
「ああ……ジャック博士ですか」
「そう。共通語の件もあいつが言い出したんだ。あたしだってできれば新しい言語なんざ覚えたくなかったさ。それだけ脳みその記憶容量食われるわけだしね。けど、あいつの提案じゃ逆らえない。ここへ来るにあたっては、みんな仲良くいちからお勉強ってことになったんだよ」
「なるほど」
「まず間違いなく、あの言語を使ってるのは世界中でここだけだね。もう慣れちまったけどさ。さすがに毎日使ってるから」
……事情の大枠は理解できた。それにしても研究所の共通語として独自の言語を用意するとは途方もない話だった。
キリコさんはああ言ったが、いくら簡単な言語でもその習得にはかなりの努力が必要だったはずだ。自分がこれまで外国語を勉強してきた年月とその結果を思えば察するにあまりある。ましてそれを日常レベルで使いこなせるようになるには……。
――そこでふと、大切なことをキリコさんに質問し忘れていたことに気づいた。聞いていいことなのかわからない……だがどうしても聞いておきたいことではある。
そう思いつつ躊躇い、質問できないでいると、それを察したようにキリコさんの方からその答えは返ってきた。
「聞き取りはできるようにしといたんだ」
「え?」
「知っての通り、聞き取りだけはできるようにしといたんだよ、あんたも」
「……」
「起動する段階でね。聞き取りに関してだけはインストールしといたってことさ。何かと都合がいいと思ったから、その方が」
「……」
「他の護衛はみんなプリインストール済みだよ。喋り、聞き取り両方とも。例外はハイジだけだ。もっともハイジにはインストールの必要はなかったんだけどね。これがあるから」
「……」
「あたしたちはこれで意思疎通ができる。それに、秘密を守るためにはこれで喋る方がいい。今この研究所にこれが理解できるやつはいないからね、あたしたち以外に。なにせ世界で最も複雑でややこしい言語だ。文法も時制も滅茶苦茶で、体系化すらまともにできない」
「……」
「だから喋りの方はインストールしなかった。それでも、せめて聞き取りだけは、と思ってさ。済まないね、中途半端なことしちまって」
そう言ってキリコさんは本当に済まなそうな顔をした。だが俺の方は済まないどころの話ではなかった。
……とてもそんな次元の話ではなかった。キリコさんが言っていることはわかる。ここの人々はみんなその言葉で話し合っているのだし、聞き取れるだけでもだいぶ都合がいい。その事実をまわりに隠しておくことの意味もうなずける。
だがその説明には一番大事なことがすっぽりと抜け落ちている。人間の頭にひとつの言語をインストールするなんて、そんなことが果たして――
「できるんだよ」
「……」
「できるんだ、あるやり方でね。特に聞き取りの方は楽なのさ。文法と語彙、あとは構文詰めこんでやればどうにかなるから。喋りの方は少し難しいんだが、ものによっては不可能じゃない。コンパイルできるように組んだ情報さえあれば、あとは時間の問題でね」
「……」
「あんたに喋りを入れなかったのはそのへんの事情もあるんだ。慌ただしい中での起動だったから、あれもこれもというわけにはいかなかった。それにさっきも言ったように、これで話せることはわかってたしさ」
「……」
「ま、そんなとこだよ。気にするほどのことでもないさ。言葉なんて所詮は道具に過ぎないんだ。そういうものだと割り切って考えてみちゃくれないかい?」
「……わかりました」
はっきり言ってわからないことだらけだったが、あえてそう返した。
キリコさんの説明を聞く中で初めて認識することがあった。それは、俺はあの言葉を喋れないということだ。ためしに喋ってみようとして、単語のひとつも出てこないことに気づいたのだ。
……確かにキリコさんの言う通りのようだ。俺はあの言語を喋れない。聞き取って理解することはできる、だがそれを喋ることはできない。
それはどうしようもなく奇妙な感覚だった。まるで通訳が耳元で囁いてくれるように俺はその言語を理解できる。けれども自分では一切それを喋ることができない――知らないうちに自分がそんな状態になっていたことに激しい違和感を覚えた。
それが理由で、俺はもうその言語についてキリコさんに質問するのをやめた。……これ以上考えると頭がおかしくなる。誇張でも何でもなく現実問題としてそう思ったからだ。
「さて、そろそろ時間だね」
「え?」
そう言ってキリコさんは立ち上がり、テーブルの上のものを片づけ始めた。持ちあげられようとする木椀から俺は慌ててドライフルーツを手に取った。正直、まだ食べ足りない。会話にかまけてまともに食事をとっていなかったのだ。
「なんだい、お行儀が悪いね。まだお腹が減ってんのかい?」
「……少し」
「しょうがないね。じゃああたしが支度する間にちゃんと食べとくんだよ?」
呆れたようにそう言うと、キリコさんは片づけかけていたものを盆ごとテーブルに戻し、流しの方へ入っていった。
言いつけに従い食事をとり始めてから、支度というのはいったい何のことだろうと思った。どこかへ出かけるのだろうか。それとも、また昨日のようにパーティーでもあるんだろうか……?
その疑問に答えてくれる相手はいなかった。仕方なく、俺は黙って朝食の残りを食べた。
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