157 ダンスパートナー(8)
司会者の台詞を合図に
まばらな喝采と笑い声があがり、あちこちで老人たちとその同伴者の影が重なるのが見えた。すでに怪しげなステップで踊りはじめている組がある。パートナーの前に跪いて手の甲にキスをしている老人の姿もある。
視線を戻せばもうそこに少女の姿はなかった。そして俺はまた元の息苦しい空気の中に引き戻された。
……いや、それは元の空気ではなかった。自分を取り巻くその空気は元のそれよりも一層息苦しく、吸いこむのがためらわれるほど鼻持ちならない臭気に満ちていた。
気がつけばほとんどの組がダンスをはじめている。老人と若者は互いに身を寄せ合い、鼻をすりあわせるような距離で見つめ合って自分たちの世界に浸りきっている。
ゆるゆると身体を揺らせるだけのダンスとも呼べないダンスに吐き気を催す醜さを感じた。好色に澱んだ目も、見つめ返す無表情な目も、何もかもが醜い。できるなら大声で叫んで全てをぶち壊してやりたいほど醜い。
隣のテーブルにキリコさんの横顔を見た。ぎらぎらと光る目で踊る者たちを見つめる、焼けつくような表情だった。
彼女の気持ちが手に取るようにわかった。きっと俺もさっきまで同じような目で彼らを睨んでいたのだろうと思った。この醜悪なダンスパーティーをただ眺めていることに我慢ができないのだ。
――なら、踊ればいい。
「――」
そんな言葉がまるで天啓のように頭に響いた。俺は弾かれたように頭をあげ、次の瞬間、隣のテーブルに足を向けた。
「踊りませんか?」
「え?」
「踊りませんか? キリコさん」
「……」
目を一杯に見開いた驚きの表情でキリコさんは俺を見返した。
勢いで名前を呼んでしまったことにもお咎めの言葉はない。突然申し出た俺の意図をはかりかねているようだ。
だから俺はあえてもう一度同じ言葉を口にした。
「踊りませんか? キリコさん。俺、今すごく踊りたいんです」
それでようやく伝わったのか、キリコさんはにわかに真剣な表情をつくった。
「踊れるのかい?」
「踊れます。先生の折紙つきです」
「先生?」
「ワルツのステップは、キリコさんにみっちり仕込まれましたから」
その言葉に嘘はなかった。即興劇の持ち弾としてダンスほど使い勝手のいいものはない。それが理由でヒステリカに入ってすぐ俺はキリコさんからワルツの手ほどきを受けた。
以来、彼女とは何度となく、実際の舞台の上でさえ踊っている。キリコさんとなら目をつぶっていてもそれなりの踊りができる。少なくとも彼らがやっているようなあんな無様な出来にはならない。
俺の言葉に、キリコさんはしばらく訝しそうに眉をひそめていたが、やがて思い当たったのか、きょとんとした表情をつくった。
そうしてすぐ挑むように目を細め、口の端をもたげて「言ったね?」と呟いた。
「言いましたよ」
「言ったからにはついてこられるんだろうね?」
「もちろんです」
「足踏んづけたりしたらどうするんだい?」
「どんな罰でも、なんなりと」
「よろしい。ならお手並み拝見といこうじゃないか」
そう言って差し出されるキリコさんの右手を、俺はいつも通りやわらかく手にとった。互いの目を見つめ合い軽く一礼をして、合図もないままに最初のステップを踏み出した。
我々が踊りはじめてすぐ、がやがやと喧しかった会場は水を打ったように静かになった。
たどたどしいステップを踏む耳障りな靴音がひとつ、またひとつと消えてゆく。我々の靴音はない、そんなものが響くはずもない。
テーブルの間をすり抜けて踊る。一足に、二足に、白いテーブルクロスを見送る。旋回を続ける我々に気負いはない。ただもう何度繰り返したかわからないステップを、いつも通り踏んでいるに過ぎない。
もの言わぬ観客と化した人々の間を抜けてゆく。やがて静まりかえっていた会場に小さな歓声があがり出す。冷やかしのためか、あるいは本物だろうか? 関係ない、どちらでもいい。舞台上で踊りはじめた我々にできることは、ただ音楽の続く限り踊り続けることだけだ。
歓声は次第に大きくなり、口笛さえ混じりはじめた。そのうちに眩しい光が唐突に目を射た。スポットライトだった。気を利かせてのことか、それとも嫌がらせか? 関係ない、どちらでもいい。今はただこの照明を浴びて、値踏むような視線のなか踊ることが心地いい――
視線を一度も合わせることなく、我々は踊り続けた。俺は彼女を見なかったし、彼女の方でも俺を見なかった。互いの肩越しにこの場限りの観客――黒々とした
いい加減、脚が疲れ果てても俺たちは踊るのを止めなかった。額からの汗が目に入るのも気にならなかった。やがて
――そこではじめて、割れるような拍手が耳に届いた。見渡せば会場の誰もが俺たちを見つめ、大仰に手を打ち鳴らす賞賛の渦だった。
⦅いや、何とも素晴らしい。素晴らしいじゃないか、キリコ⦆
その渦の中から進み出る影があった。マリオ博士だった。それを潮に拍手は収まり、俺たちを取り巻いていた人垣はそれぞれ手近なテーブルに戻っていった。
⦅はい、お粗末様。だいぶなまってるね、もう何年も踊ってないもんだから。けどまあ、一応かたちになった分だけ良かったとしとこうか⦆
⦅参った、降参だよ。だからもう棘を出すのは止めてくれ。この通りだ⦆
――踊り終えたばかりの上気した肌に、周囲の注目がまだこちらに向けられているのを感じた。
誰もが注意を外したふりをして、だが俺たちの会話――正確にはマリオ博士とキリコさんの会話を聞き漏らすまいとしている。それがわかった。
⦅たいしたパートナーじゃないか、彼は⦆
⦅その通りさ、たいしたパートナーだよ。このあたしにとってはね⦆
⦅それに引き替え私のときたら、ダンスどころか傍にじっとしているのも我慢できないようだ⦆
⦅……へえ、そいつはまた⦆
⦅君の忠告が正しかったかも知れないな、キリコ。頑張って努めてはいるのだが、どうもあの子は私の手には持て余す⦆
⦅……話はそれだけかい?⦆
それまでとは打って変わって低い抑制の利いた声で告げると、キリコさんは俺の手を取り、そのままきびすを返しかけた。
⦅待ってくれキリコ。話はまだ半分だ⦆
⦅だったら早くしておくれ。こっちは踊ったんで喉が渇いてんだよ⦆
⦅それほど長くはとらせない。これを見てくれないか⦆
マリオ博士はそう言ってポケットからハンカチを取り出し、それを手の上に広げて見せた。広げられたハンカチの中から、淡いベージュの小さな
そう思った刹那、右手に触れるキリコさんの指に少しだけ力が入るのがわかった。そのために俺はすんでのところで、それを表情に出すのを免れた。
⦅……いったい何だい? それは⦆
⦅例の、撃ち殺された衛兵の制服に挟まっていたものだ⦆
⦅……へえ⦆
⦅検死のときは見落としていたのだが、あとで気がついたんだ。なにしろ、こんな小さいものだったから⦆
⦅……それで、どうしてそいつをあたしに見せたりするんだい?⦆
⦅やれやれ、まだ機嫌を直してはくれないのか。昨日も言っただろう、我々は何かと協力できると思うんだよ⦆
そう言ってマリオ博士はキリコさんを見つめた。ぼんやりとした掴みどころのない表情からは、彼が何を思ってその提案を口にしているのかわからない。
隣から大きく溜息をつく声が聞こえた。俺の右手を掴んだまま、どこか諦めたような調子で⦅協力ね⦆とキリコさんは言った。
⦅だったらあたしからも情報のお返しをしようかね⦆
⦅……ほう⦆
⦅『ヤコービの庭』はもうすぐ使い物にならなくなるよ⦆
⦅……どれくらいで?⦆
⦅正確なところはわからない。だが、あたしの見立てでは崩壊する一歩手前だ。いや、もう壊れはじめてると考えた方がいい⦆
⦅それは『本体が』ということなのだろうか?⦆
⦅『本体の精神が』というのが正しいだろうね⦆
⦅……なるほど⦆
そこでマリオ博士は少し思案するような顔をし、だがすぐに軽く頭を振って、⦅であれば、何の問題もない⦆と言った。
⦅どういうことだい?⦆
⦅差し当たっての問題はないということだ。あの限られた領域を使う限度において、当面の問題はない。そうではないだろうか?⦆
⦅……まだこの子をいたぶるつもりなのかい⦆
⦅いたぶるとは穏やかじゃない。訓練ということではじめたのではなかったかな?⦆
⦅訓練ね……狩りに慣れさせるためのかい?⦆
⦅平時の訓練は専守防衛を目的とするものに相場が決まっている⦆
⦅……精々あんたも寝首かかれないように気をつけるんだね⦆
⦅忠告、痛み入る⦆
そのとき、会場に駆けこんでくる慌ただしい靴音が会話を断ち切った。
エツミ軍曹だった。軍曹はマリオ博士に駆け寄ると乱れた息もそのままに何やら耳打ちする。周囲の注意が一斉に二人に向くのがわかる。
誰一人こちらを見ない。気のない振りをしながら、二人の髪の毛の一本まで数えあげようとする見えない視線が、びりびりと刺すように感じられる。
⦅また娘たちだ⦆
明らかにそれとわかる皮肉の表情でそれだけ言うと、おもむろにマリオ博士はこちらに背を向けた。
そのまま歩き出そうとする背中に⦅もうひとつ情報だよ⦆というキリコさんの台詞がかかった。博士は振り返った。
⦅庭師の彼はもうあんたの知ってる彼じゃないよ⦆
⦅……それは⦆
⦅うまく囲いこんだつもりなんだろうが当てが外れたね。どこに隠してあるか知らないが、ここの外ならもうジャックが嗅ぎつけてるだろ⦆
⦅……そうか⦆
⦅まあ『本体』にしてみればあいつに回収されて直してもらうのが一番なんだろうけどさ。そいつが嫌ならさっさと兵隊差し向けて、今度は手の届くところに置いておくんだね⦆
何か言いたげな表情でマリオ博士はしばらくキリコさんを見ていた。だがやがて無言のまま振り返ると、足早に会場を退出していった。キリコさんに一礼してエツミ軍曹がその後を追う。
二人がいなくなった会場に、元の喧噪が戻ってくるまで時間はかからなかった。
「――お疲れ」
「え?」
「いい仕事だったよ。さっきの」
「あ……はい。
それきりキリコさんは沈黙した。胸の前に軽く腕を組み、何かを考えはじめたようだ。その隣にはもう俺はいなかった。話しかけることも……気遣うことさえできなかった。
何事もなかったかのようにパーティーは続いていた。
ダンスの興奮は忘却の彼方に消え、またあの息苦しい空気が自分のまわりに戻ってくるのを感じた。――まるで仮面舞踏会だと思った。全員が見えない仮面をかぶっている。ここにこうして立ち尽くしている俺も。だから今、俺はこんなにも息が苦しくてならない。
……隣にいる人のおかげで、今、俺はどうにか息をしていられる。けれども彼女の隣に、もう俺はいない。それならばこの希薄な空気の中で、いったい彼女はどうして息をしていられるのだろう?
腕組みをして考えこむキリコさんの隣で、俺はいつまでも動くことができなかった。主役の消えたパーティーの会場に、空虚な笑い声はいつまでも止むことはなかった。
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