170 賽は投げられた(3)

「……! お願いします」


「あの場所――『歯車の館』について話す前に、まず一つ押さえといてほしいことがある。前にあたしがマリオと話してたときに出た単語なんだが、『ヤコービの庭』ってのを覚えてるかい?」


「一応、名前だけは」


「そのときの話の中でも出てたことなんだが、あの『歯車の館』は『ヤコービの庭』の一部なんだ。だから、あたしがこれから話すことは『歯車の館』についてってことよりも、その『ヤコービの庭』についてってことになる。そういう理解でこの先の話を聞いておくれ。いいね?」


「はい、わかりました」


「で、結論から言っちまうと、前にも話したように『ヤコービの庭』ってのはジャックが組み上げた仮想現実空間だ。あいつは自分の作ったそれに名前をつけなかったんだが、誰かがそう呼び始めてね。まあ言うなれば、『Jacobあいつの庭』ってことさ」


「……はい」


「ところで仮想現実というと、ハイジはまず何を思い浮かべる?」


「え? ……いや、月並みにSFチックなものしか」


「聞かせとくれ。その月並みにSFチックなものでいいから」


「ええと……巨大なコンピュータがあって、その中にデータとして仮想現実世界が組まれてて、頭にプラグ挿してそこにアクセスする……みたいなやつですか?」


「そうだね、あたしが聞きたかったのはそれだよ。これまであたしたち科学者の間で――まあそうでない一般人や作家連中も含めて、最も実現の可能性がありそうだと認識されていた仮想現実はそういうものだった。実際につくろうとしたやつらは山ほどいるし、成功したって捏造の情報も数え切れないほどあった。フィクションは今さら言うまでもないね。もっともらしい説明用意して、実現可能だが技術がまだ追いついてないって言い訳で、さんざん多くの観客にその認識をすりこんできたもんさ」


「はい。そう思ってました」


「けどね、それは実のところ大嘘なんだよ」


「……?」


「科学的に突き詰めて考えると、仮想現実ってのはその仕組みじゃ実現できないってことさ」


「……どうしてですか?」


「インターフェイスの問題なんだ」


「インターフェイス?」


「ハイジは接ぎ木って知ってるかい?」


「……まあ、一般常識のレベルでなら」


「じゃあ、『木に竹を接ぐ』って言い回しは?」


「それは知ってます」


「あたしたちが科学と呼んでるものはね、昔に比べればそりゃ進歩したんだが、それでも未だに『木に竹を接ぐ』ことすらできないんだよ」


「……」


「例えばね、ある種の植物の組織、細胞やら維管束やら何から何まで精巧にプラスチックで作って、根から吸い上げた水がちゃんと上までくるようにしておいて、そこへその植物を接いだとしたら、それがうまくと思うかい?」


「……思いません」


「インターフェイスの問題ってのはそれのことさ。水を情報に置き換えればそっくり当てはまるだろ。生体と無機物を接続するってことがどれほど非科学的な絵空事に過ぎないか、いくら頭が足りなくても少し考えりゃわかりそうなもんだって、あたしはずっと昔からそう思ってたんだけどね」


「……なるほど」


「だから仮想現実って言っても、そんなお花畑の産物じゃない。……と言うより、あたしの知る限り『ヤコービの庭』は、長い科学の歴史の中でになった唯一の仮想現実世界だよ」


「ええと……インターフェイスの問題ってのはどうなったんですか?」


「それを初めて解決したのが『ヤコービの庭』ってことさ」


「どうやって?」


「接ぎ木のたとえはまだ覚えてるね?」


「覚えてます」


「木に竹を接ぐことはできない。プラスチックの作り物はもっと無理だ。なら、どうすればいいと思う? ハイジは」


「……木を接ぐ」


「その通りさ。ちゃんと理解できてるじゃないか」


「いや……待ってください。俺はぜんぜん理解できてない。それだと仮想現実世界は……よくわからないけど生体の中に構築されてる、ってことになりませんか?」


「それで合ってる。ちゃんと理解できてるよ、ハイジは」


「……」


「人間の脳には、どれくらいの情報が入るか知ってるかい?」


「……知りません」


「無限に入るんだよ。……ああいや、さすがに無限は語弊があるか。けど、ほとんど無限に近い情報を突っこむことができる。色々実験してみると、どうやらそういうことみたいなんだ」


「……」


「なら、何で自分はこんなに物覚えが悪いかってことになると思うんだけど、それは覚えていないんじゃなくて、ただ単に思い出せないだけなんだよ。どの人間の頭の中にもそれまで見てきたもの、聞いてきたもの……そのすべてがちゃんと記憶されてる。けど、そいつをうまく思い出してやるのはまた別の話で、それができないから誰もが暗記の達人になれるってわけじゃない、ってことなんだね」


「……」


「だからデータとしての仮想世界をまるまる一人の人間の頭の中に突っこんじまうのは、あながち無理なことでもない」


「……」


「そのあとはもうインターフェイスの問題だ。木に木を接いでやれば、有機的に接続されたその仮想現実世界で何でもできる――と、まあそういうわけだよ。『コロンブスの卵』ってことになるのかね。この言葉、はっきり言ってあたしは大嫌いなんだけど」


 ――そこで俺は落ちた。完全に話についていけなくなり、相づちの一つも返せずに固まった。


 そんな俺を前に事情を察してくれたのか、キリコさんも同じように口を閉じた。しばらくの沈黙があって、やがてまた口を開いたキリコさんは静かな声で「わかりっこないね」と独り言のように言った。


「え?」


「こんないっぺんに話したってわかりっこない。この続きはまた今度にとっておくかい?」


「いえ……今、聞いておきたいです」


「だったらハイジが消化不良起こしたとこを教えておくれ。そこを重点的に説明するからさ」


「……」


 キリコさんにそう言われるまま、俺は自分が落ちた理由を考え始めた。


 ……接ぎ木のたとえが出たまではよかった。生体を機械に接続することの困難性と、そのために従来一般的とされてきた仮想現実システムの成立が不可能だということ……そこまでは理解できた。ただ人間の脳の記憶容量がどうこうといったあたりから話が急にわからなくなった。


 その記憶容量が無限に近いというのはまだいい。実験の結果そうだと言われれば納得できなくもないし、だとすればデータとしての仮想世界がまるごと蓄積できるというのも頷ける。


 だがその説明と仮想現実システムの実現性とがどうしても結びつかない。それが俺の中でどうしても結びつかない理由は――


「――木と木ならわかるんですけど」


「ん?」


「その……木と木を接ぐのならわかるんですけど、人間の頭と頭をどうやって接続するんですか?」


 要はそこだった。どうしてもわからないのはそこ。


 木と木なら簡単に接げるのだろう。だが、人間の脳と脳をどうやって接続するのか、それがわからない。……と言うよりそれは旧来のSFに慣れ親しんできた俺にとって、人間の頭を機械に繋ぐよりもよほど不可能で現実味のないことのように思える。


 俺の質問にキリコさんは「ちょっと待っていておくれ」と言い残すと、椅子を立ち部屋を出ていった。ほどなくして戻ってきた彼女の手には、ガラス製の霧吹きと小さな財布のようなものがあった。


 席についたキリコさんはその財布をテーブルの上に置いてジッパーを引き開けた。開けられたその財布の中には針と指貫、それから糸……どうやら裁縫ケースのようだ。


「一度きりだからね。よおく見ているんだよ」


 そう言いながらキリコさんは裁縫ケースから一本の針を引き抜き、そこへひと吹き、霧吹きの中身を吹きかけた。アルコールらしく、刺激のある消毒臭がつんと鼻をついた。


 それからキリコさんは右手の親指に指貫を通すと、左手の甲を上に指を広げテーブルの真ん中に置いた。何をするのだろう……そう思う俺の前で彼女は右手に針を持ち、その先をゆっくりと左手に近づけた。


「ちょ――」


 言いかけて止まった。キリコさんは左手の中指と人差し指の間、生白い静脈の浮くそこに真っ直ぐ針を立てると、指貫をはめた右手の親指でその頭を押した。


 針の先を中心にえくぼのようなくぼみができ、すぐに紅い血の玉が膨らんだ。だがそれに構わずキリコさんは、右手の親指で更にその針を深く押しこんだ。


「……っ!」


 気がつけば俺はテーブルの下に自分の左手を、右手で震えるほど強く握りしめていた。


 キリコさんの顔は苦痛に歪み、早くも脂汗が滲んで見えた。手に針を突き刺しているのだから無理もない。その苦しげな表情から、あるいは指先の震えから、彼女の感じている激痛はまるで自分のもののようによくわかった。


 ……なぜキリコさんがそんなことをしているのかわからなかった。それがわからないまま俺は息を呑み、食い入るようにその行為を見つめた。


 やがてキリコさんは針の頭を押していた右手を離すと、針の突き立った左手をあげ、こちらに掌を向けて見せた。


 甲の側から刺された針の先が掌を突き破り、赤みを帯びた豆粒ほどの銀色がそこに覗いていた。痛みのためか、それとも別の理由によるものか、その左手はぶるぶると忙しなく震えていた。


 手の甲がこちらを向く……深々と突き刺された針の頭が見えた。そこでついに俺はもう我慢できなくなりその彼女の手から目を背けた。


「……痛いかい?」


「……」


「見ていて、ハイジも痛かったかい?」


「……痛かったです」


「実際の痛みかい?」


「え?」


「ハイジの感じたそれは実際の痛みかい? それとも、の痛みかい?」


 視線を帰すと、キリコさんはもう元の表情に戻っていた。すっかりいつも通りの平然とした顔に、まるで何事もなかったかのような錯覚を覚えた。


 だがいつの間にか針が抜かれた左手に残る黒子ほくろのように変色した血の痕が、今し方の出来事が幻でなかったことを物語っていた。


 よく見ればその指先はまだかすかに震えている。細い針とはいえ手を貫通させたのだから痛くないはずがない。いったいなぜ彼女はそんな馬鹿なことをしたのか――再びそう思う俺に少し強い調子で「質問に答えておくれ」とキリコさんは言った。

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