171 賽は投げられた(4)

「え?」


「え? じゃないよ、まったく。人がせっかく痛い思いしたんだから答えておくれ」


「っと……すみません、どんな質問でしたっけ?」


「やれやれ、こっちは手に穴まで開けたのにねえ」


「……すみません」


「あたしが手に針刺すの見てて、ハイジも痛かったって言ったね」


「はい、言いました」


「それについてだ。ハイジの感じたそれは実際の痛みかい? それとも、の痛みかい?」


 そのキリコさんの言葉に、俺は考えこんだ。質問の意味がよくわからなかったからだ。


 実際の痛みとの痛み――それはつまり、その痛みを現実に体感したかどうかということだろうか。そうだとしたら答えは決まっている。だが、果たしてキリコさんが聞いているのはそういうことなのだろうか……?


「どうなんだい?」


「ええと……の方だと思います」


「どうしてそれがだと思ったんだい?」


「え?」


「ハイジはさっき、自分も痛かったと言ったじゃないか。それが何で今さらその痛みがだったと、そんなことを言うんだい?」


「……」


 そう言われて俺はまた考えこんだ。


 たしかにキリコさんが手に針を突き刺すのを見ていたとき、俺は思わず自分の手を押さえた。それは彼女が感じているに違いない激痛を、まるで自分のもののように錯覚したからだ。


 けれどもそれはあくまで錯覚であり、キリコさんの言う実際の痛みではなかった。だから、その違いをうまく言葉で説明するとなると――


「俺が感じた痛みは、自分が同じ目に遭ったことを想像した結果に過ぎないからです」


「そうだね。その通りだ」


 その回答で合っていたのか、そう言ってキリコさんは笑みを浮かべた。それからちらりと左手に目を落とし、また俺の方に視線を戻して、言った。


「けど、その痛みが本物だったとしたらどうだい?」


「え?」


「さっきみたいなとき、あたしの痛みをまったく同じようにハイジが感じていたとしたらどうだい?」


「どう……っていうと?」


「ハイジが感じていた痛みは、あたしと同じ状況を想定しての錯覚でしかなかった」


「……」


「けど、もしハイジの痛みが本物だったとしたら、さっきの状況であたしたち二人の意識は。そう言えるんじゃないかい?」


「あ――」


 と、声に出して思わず口に手を当てた。


 ……正直、まだよくわからない。だがキリコさんの言っていることは、何となく理解できる気がする。


 さっきの状況で俺の痛みが本物なら、確かに俺とキリコさんは感覚を共有していたことになる。もちろん、それは特殊な状況で痛みというひとつの感覚を共有したに過ぎない。けれども何らかの方法によって、同じようにひとつひとつの感覚をしてゆくことがもしできるのだとしたら――


「つまり、そういうことさ」


「……」


「さっきあたしとハイジとの間に成立した意識の接続。そいつをすべての意識に適用して、あんな真似事じゃないもっと確実なかたちで同期シンクロさせてやる。そいつがあの男の発明した、史上初の実用的な仮想現実システムである『ヤコービの庭』のインターフェイスの原理さ」


「……」


「ただね、こんな風に偉そうに喋ってるけど、あたしもぜんぶわかってるわけじゃないんだ。あたしが理解してるのは単なる理屈で、同じものをいちから作るのなんてのは逆立ちしたって無理だ。あいつがまだここにいる間に実用化した『マザー』――ああつまり本体だけど、そいつを後生大事に使って、どうにかあの『歯車の館』に入りこむのがやっとさ」


「……ということは」


「ん?」


「あの白い部屋に寝転がってノイズを聞くのが、その『マザー』へアクセスするための方法の一部なんですね?」


「ご名答。頭の切れる男は好きだよ」


 ……なるほど、朧気おぼろげながらわかってきた。


 あの視覚も聴覚も遮断される真っ白な部屋。あの特殊環境で特別なノイズを聞かせて、それで意識をいっぱいにする。それを呼び水にして意識を同期シンクロさせるということであれば、何となくありそうな話ではある。


 詳しい原理などわかるはずもないし、すっかりのみこめたわけではない。だが少なくともあの歯車だらけの空間がどういったものか、漠然とではあるが理解できた気がする。


「だとすると、あの子が『マザー』ですか?」


「あの子?」


「あの少女です。俺の訓練の相手の」


「ああ、違う違う。『マザー』はちゃんと別にいるんだ」


「え?」


「あの子は『マザー』なんかじゃない。あんたたちは二人ともゲスト――つまり『マザー』にログインする側のだよ」


「ええと……じゃあ、その『マザー』の人ってのはどこに?」


「さあ、どこにいるのかねえ」


「……?」


「あいつがいなくなったあとのごたごたに紛れてマリオがどこかに隠しちまったんだよ。あたしが見たのはそれっきりだ。もっとも昨日の話が本当なら、今頃ジャックのとこにいるってことなんだろうけど」


「……なのに、できるんですか?」


「ん? 何がだい?」


「ここにいないのに、その……意識の同期シンクロとかできるんですか?」


「さっきあたしとハイジが痛みを共有したとき、あたしたちの間には距離がなかったかい?」


「……」


「どうも空間的な距離とかは関係ないようなんだ。どんなに離れてたってアクセスはできる。ただ、その『マザー』との物理的な接触を前提とするアクセス方法も、あるにはあるんだけどね」


「……なるほど」


「あともう一つ言っとけば、そのアクセス方法も汎用性のあるものじゃないらしい」


「どういうことですか?」


「その『マザー』に合わせて特別に考案された方法だってことさ。そもそも『マザー』ってのは誰もがなれるわけじゃないんだ。ハイジが世話になってるその『マザー』ってのはあたしの知る限り唯一の成功例で、ジャックの言葉を借りれば何万人に一人の適合者、ってことだ」


「……」


「ここまでは理解できたかい?」


「いや……はい、まあ一応」


「ならここまでの話を前提に『ヤコービの庭』のシステムの概略を説明するとだね、『マザー』は中央で処理を行うサーバだ。処理を行う中央演算装置であると同時に、仮想世界の情報を記憶する記憶装置でもある。そして、その仮想世界にアクセスするハイジたちの頭は、そのサーバに接続された端末ってことになる」


「……」


「ハイジ自身の行動や感情は、端末であるハイジ自身の頭で処理する。それ以外の一切、つまりは天候から小鳥のさえずりから、他の人間の行動や感情も含めて何から何までサーバが処理する。その複合的な処理の結果を共有することで仮想現実の世界が実現する……とまあ、そういうことさ」


「……処理が追いつかないんじゃないですか?」


「ん?」


「全世界を処理するんじゃ、サーバにかかる負荷が大きすぎると思うんですが。一人の人間の頭で処理できるんですか?」


「そのあたりは適当にごまかしてるらしい」


「……と言うと?」


「ハイジがアクセスしてるときは、ハイジのまわりだけちゃんとした世界を見せて、他の部分ではかなりいい加減にやってるらしい。つまり、一人分の仮想世界を見せてるだけ、ってことみたいだ」


「ああ……なるほど」


「アクセスしてる人間のまわりでだけきちんとしたもの見せて、あとで帳尻合わせて矛盾が起きないようにするってことらしい。そのへんは曖昧ファジーな処理がめっぽう得意な人間の頭にとってはお手の物だろうね」


「なるほど」


「概略としては、まあそんなとこだよ。まずい説明で申し訳ないけど、さっき言った通りあたしも完全に理解できてるわけじゃないからさ」


 話に区切りがついたところでキリコさんは席を立ち、テーブルの上の食器を片づけ始めた。その間ずっと――食器をトレイの上に載せて彼女が部屋を出ていったあとも、俺の頭は限界に近い速度でぐるぐると回り続けていた。


 ……わかったようでわからない。圧倒的な情報を前に処理が追いつかない。俺の希望に応えて情報公開に踏み切ったキリコさんの口から出るそれはほとんど類のもので、俺の方ではどうにかその洪水に溺れないでいるのがやっとだ。


 まるでパンドラの箱だ、と思った。好奇心に駆られてその蓋を開けてしまったことで、無視して通り過ぎることもできたわざわいがわらわらと飛び出してきた。だが、哀しき人間のさがとして今さら蓋を閉めることはできないし、箱の底に残っている最後の一片まで拾い出したい気持ちは抑えられない。


 だから部屋に戻ってきたキリコさんが席につく前に、我慢できない思いで俺はその質問を口にした。


「そうなると、その『ヤコービの庭』はネットゲームのようなものと考えていいわけですよね」


「何だい? そのネットゲームってのは」


「ああ、ええと……中央にサーバがあって、そこに仮想世界のデータが入ってます」


「で?」


「ゲームに参加するプレイヤーは各人の端末からインターネットでそのサーバに接続して、個別のキャラクターでその仮想世界にアクセスします」


「はい」


「で、あとはそのサーバと各プレイヤーの端末が連携して仮想世界での冒険を実現する、ってのがネットゲームです」


「似てるね。無機物を生体に置き換えりゃそのまんまだ」


「となると、ひとつ疑問が」


「どんな疑問だい?」


「アクセスするタイミングと、その仮想世界に自分が出現するタイミングの関係について」


「ん……」


「一昨日、初めてあの『歯車の館』に入ったとき、俺が先にアクセスしたけど向こうに行ったらもうあの子がいたんです。そのへんどうなってるのかな、と思って」


本当ほんと言うとだね、何も二人一緒でなくてもいいんだよ」


「え?」


「形式的にそうしてるだけで、たとえばハイジがあの白い部屋に入った二時間後にあの子が入っても、二人は同時にあそこに出るんだ」


「……」


 また話が見えなくなって落ちかかる俺の前で、キリコさんは面倒そうに頭の裏を掻いて小さく一つ溜息をついた。


「……ていうかだね、そのあたりはややこしい話になるから端折はしょるつもりだったんだよ。例によってあたしもよく理解できてないしね。あいつが言うにはそもそもこっちとあっちとでは時間軸が違うってことらしい」


「……どういうことですか?」


「例えばさっき一昨日おとついの話が出たんだが、あのときハイジがあの白い部屋に入ってから出てくるまで、こっちの世界でどれくらい時間が経っていたと思う?」


「ええと……三十分くらいですか?」


「ゼロだよ」


「え?」


「一秒も経っちゃいないのさ。ノイズ流し終わってすぐ気絶したあんたをあそこから引きずり出して、あの子が白い部屋に入ったのはだ。つまりハイジとあの子は何も同じタイミングであそこに入ったわけじゃなかった。そういうことなんだよ」


「……」


「向こうでどれだけ過ごそうがこっちでは一秒も過ぎない。逆もまた可なりで、こっちでどれだけ過ごそうが向こうでは一秒も過ぎない。あたしらはそれをこのシステムの『非等時性』と呼んでる。二つの世界の間では、時間軸に繋がりがないんだ」


「……」


「こういう言い方もできる。つまり向こうとこっちとは別個独立の時空が存在して――あ、時間と空間が根っこでは同じものだってのは授業で習ったかい?」


「一応」


「で、向こうとこっちではそれぞれ独立の時空が存在してる。ハイジが向こうにいる間、こっちの時空においてハイジの時間軸は停止してるし、逆にこっちにいる間、向こうの時空においてハイジの時間軸は停止してる。だからこっちに戻ってきたからといって向こうのハイジが消えるわけじゃないし、次にアクセスした瞬間にまた向こうの時間の続きを歩み始める、って話さ」


「……」


「どうだい、わかったかい?」


「……少しは」


「なら、少しで我慢しといとくれ。そのへんは正直、こっちも頭痛くなってくるんだよ。話してると」


 そう言ってキリコさんはきまりが悪そうに笑った。その表情を見て、彼女の言う通りこの件についてはここまでにしておこうと思った。


 最後に余計なことを聞いたせいでわかりかけていたものがまたよくわからなくなったが、これはもうそういうものとして丸呑みするしかなさそうだ。


 本来なら俺が理解できないような難しい話を、キリコさんは噛み砕いて丁寧に説明してくれた。それだけで充分だった。……それにそもそもの初めから、俺はその『ヤコービの庭』というものについてどうしても知りたかったというわけでもないのだ。


「何か飲むかい?」


「え?」


「飲み物だよ。コーヒーか何か」


「いえ……結構です」


「あたしは水をもらうよ。沢山喋ったから咽が渇いちまった」


 そう言ってキリコさんはまた席を立ち、さっき食器を片づけた流しの方へ出ていった。蛇口をひねる小さな音に、水がどぼどぼと流れ出る音が続く。「あたしも入ったことがあるんだよ」というキリコさんの声がそこに混じった。


「え?」


 聞き返す俺の声には応えず、しばらく経ったあと水を汲んだグラスを手にキリコさんは部屋に戻ってきた。

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